第8話 「ちゃんと掴まってて」
「泊まってけば?」
「何考えてるのよ。無理に決まってるでしょ」
私はあらゆる選択肢を考えた。しかしどれもこれも非現実的なもので実際にはできそうにもなかった。
「帰したくない」
「私は帰りたいわ」
「じゃあ何でここに来たの、麗子先輩」
怒ったように綾瀬はとても低い声で言った。その目にはどこか突き放すような冷たささえ伺える。
「何でって、綾瀬があんなメールよこすからでしょ!?」
「無視をすればよかっただろ」
「それは……!」
言葉に詰まった。
そう、あんなメール無視をすればよかった。なぜ無視できなかったのか。
なぜ綾瀬を放っておけなかったのか。
綾瀬は無言で私を見つめていた。穴が開きそうな程の視線を感じ、居た堪れなくなった私は、思わず俯いた。
「俺さぁ、先輩のことすんげぇ好きだわ」
驚いた私は、綾瀬の顔を見上げる。
綾瀬に好きと言われるのはこれが初めてだった。今までされてきた告白とは比べ物にならないほど、私の心臓は大きく跳ね上がっていく。
「冷めてて、頑固者で、美人なのに態度が全然可愛くなくて、なんで好きか分かんないけど
愛しいと思う。この気持ちはコントロールできない」
私は……。私は綾瀬のことをどう思っているのだろうか。恋愛なんて下らない。そう思っていたのは嘘ではない。他人に振り回され、浮いたり沈んだり、なんて愚かだろう。
でも、今日私を綾瀬の所に導いたのは、そう、コントロールなんて出来ない感情だった。
「わ、私は……」
「ストップ。やっぱり送ってくよ、用意して」
綾瀬は答えの出せない私を許し、そして包み込むような笑顔で言った。
「送って行くって言っても、電車がないんじゃ……、それに病みあがりなのに動かないほうがいいわ」
「いいから、はい」
綾瀬は、私の前に鍵を差し出した。
「バイクの鍵?」
「正解。いくらなんでも先輩が隣で寝てたんじゃあ何もしない自信ないから」
そう言うと、綾瀬はからかうように笑った。
「それでもいいなら、泊めるけど?」
「馬鹿」
冬の夜空は怖いくらいに透き通っていて、満天の星が私たちを見ていた。
「ちゃんと掴まってて」
私は綾瀬の身体に手を回した。冷たい空気が痛いくらいに肌を突き刺していたが、なぜか綾瀬と触れ合っている部分はとても温かい。
私は今どんな顔をしているのだろう。綾瀬は今どんな顔をしているのだろう。
次々と流れていく田舎の景色を見つめながら、私はぼんやりと考えた。
今まで恋愛なんて下らない。恋愛なんてしない……いや、できないと思っていた。私には誰かを好きになることなんてできないと。
「麗子先輩、着いたよ」
現実逃避していた頭を叩き起こしあたりを見回した。もう見慣れた我が家が数十メートルの近さになっている。
相変わらず綾瀬は整った顔で笑っていた。
「……ありがとう」
「うわっ、先輩が素直にお礼言った。明日は雨だな」
「何よそれ」
私はバイクから降りると、冗談を言う綾瀬の腕を拳で軽く殴った。
「ていうか、お礼を言うのは俺のほう。
初めて本気で人を好きになれた。
ありがとう、先輩」
綾瀬は深々と頭を下げる。私は思わず綾瀬に手を伸ばそうとした。しかし、私の心の奥にある黒い感情がそれを許さない。
怖い。
私はその瞬間、確かにそう思った。
今、手を伸ばしたら、私は制御不能な状態に陥ってしまう。
私は恋愛なんてしたくない。
恋愛なんてできない。
「麗子先輩!」
呼び止める声が聞こえたが、私は一刻も早く綾瀬から離れたかった。急いで玄関のドアを開け、鍵を閉める。
心に鍵を閉める。