第3話 「本気だけど?」
次の日の朝。
私の平穏を乱すソイツは何食わぬ顔でそこにいた。
「おはよう、麗子先輩」
私は返事もせずに、ため息を漏らした。
「あれ〜先輩、ご機嫌斜め?」
私がそこで見たものは、長い足を組んで座っている綾瀬の姿だった。
「あのね、ここは3年の教室なんだけど」
「うん」
綾瀬は聞いているのかいないのか、長い睫を伏せると、机にうな垂れるように、うつ伏せになった。
「そしてここは私の机」
「うん」
「綾瀬、悪いけどあなたに付き合ってる暇は無いの」
「涼だってば」
綾瀬はむくりと起き上がり言った。
「は?」
「だから、涼」
綾瀬の考えている事など、私にはさっぱり分からない。
「さっきから一体なんなの」
「涼って呼んでくれるまでずっとここにいるから」
思わず叫びそうになるのを抑えながら、私は出来る限り冷静を装った。
[冗談は止めて貰える?]
「本気だけど?」
綾瀬は顔にかかった髪をかきあげ、性質の悪い笑みを浮かべている。
「っ……」
あまりの馬鹿さ加減に、私は言葉を失った。
私はため息を吐き、辺りを見渡す。クラスの女子が、羨望の眼差しで綾瀬を見ている。何処からともなく「カワイイ」と言う声まで聞こえる。
確かに背も高く、顔の良い綾瀬は、女にモテるのは当たり前だろう。だからと言って、私が綾瀬を、受け入れられる訳ではないのだ。
「馬鹿なこと言ってないで自分のクラスに戻りなさい」
「嫌だ。涼って呼んでくれるまで、戻らない」
「いい加減にしなさいよ」
怒る私を物ともせず、綾瀬の態度は一向に変わらない。今日何度目のため息だろう。私の嫌味にも似たため息は、綾瀬 涼という少年には全く通じないようだ。
綾瀬は組んでいた長い足を直すと立ち上がった。今まで、見下ろしていた位置関係が逆転し、今度は綾瀬が私を見下ろす。
「今度、苗字で呼んだらチューするよ」
綾瀬の言葉は、クラス中に動揺を広げた。綾瀬は悪戯をした子供のように笑うと、私の顔を覗き込むようにしてしゃがんだ。
「麗子先輩、分かった?」
長い睫、きめ細かい肌、整った鼻筋、二重の瞳、どれも完璧な容姿をまざまざと見せ付けていた。
「あ…のねぇ」
怒りを通り越して私は呆れていた。
「綾瀬、いい加減にし……」
私は、ハッとした。綾瀬の目が一瞬光ったように思えた。
「今、綾瀬って言ったよね?麗子先輩」
私はまさかと思い、それでも体は警戒して一歩二歩下がる。その瞬間、綾瀬の手が私の腕を引いた。引力に従い私は綾瀬に急激に近づく。
「そこまで」
声が聞こえたと同時に、私と綾瀬の顔の間に仕切りができる。驚いて隣を見ると、隣の席の大橋 哲平が下敷きを持って立っていた。無造作に立てた短めの髪に、きちんとボタンの閉められた制服。哲平は誰が見ても真面目な好青年と言うイメージを持たれるだろう。つまり、綾瀬とは全く別のタイプの人間なのだ。
「誰、あんた」
綾瀬は不機嫌な様子も隠さずに言った。
「勉学に励む教室で淫らな行為は止めてくださーい」
哲平はからかうように言うと、にやりと笑みを浮かべた。綾瀬と哲平の間にまるで火花でも散っているかのような、静かな沈黙が流れる。
「ふーん」
瞬きひとつせず、綾瀬はまるで品定めするかのような顔つきで哲平を見ていた。
「まぁいいや、チューはまた今度ね、麗子先輩」
そう言うと綾瀬は腰のチェーンを鳴らしながら、教室から出て行った。教室に残ったのは、興味津々なクラスの視線と、私の疲れた顔だけだろう。
「なんなのよ、一体」
振り回されっぱなしの私は、その場に立っているのがやっとだった。
「随分、凄いのに好かれたな」
そう言って疲れた私の顔を哲平は面白そうに見た。
「余計なお世話よ」
私は哲平に小さく悪態をついた。
「案外楽しそうだったぜ」
「そんな訳無いでしょ」
ぎろりと哲平を睨み、やっとのことで席に座る。
「まぁまぁ、そう怒るなって」
哲平は苦笑いをし、頬杖をついた。
哲平とは、友達でもないし、恋人でもない。ただ、席替えの無いこの特進クラスで、偶然隣の席になっただけ。哲平は頭がいい。それは紙の上だけではない。普段の生活においてもだ。なにより他人との距離を保つのが上手い。
私は哲平のことを詮索しないし、哲平もそうしていた。私はそういう関係が嫌いではなかった。
少なくとも、好き勝手に告白したり、名前を呼ぶまで帰らないなど子供じみた我侭は言わないだろう。
私は、苛立つ思いを断ち切ろうと教科書を開いた。しかし思い出すのは、余裕のある笑みを浮かべる綾瀬の顔だけだ。どんな形であれ、私の知らない間に、奴は私の心に侵入し始めていた。静かに、ゆっくりと……。
何でアイツのことを思い浮かべなきゃいけないのだろう。
奥歯をかみ締め、私は打ち消すように目を瞑った。
今まで自分を上手くコントロールしてきたのだ。
そうだ。あんな奴一人に、振り回される訳が無い。
恋愛なんて下らないゲームに関わるつもりはない。
人を好きになるなんてただの妄想なのだから。