4 青い駱駝亭〜前編〜
肌触りのよい布の感触は、まぎれもなく現実。
<青い駱駝亭〜前編〜>
いつの間に眠ってしまったのか、目が覚めたときはすでに朝だった。
見慣れぬ室内に慌てて飛び起き、ようやく落ち着いて昨夜の出来事を思い出してみた。
見知らぬ土地で、律を拾ってくれたのは絶世の美女。フェイ。
食事を作って部屋を整えてくれたのは、熊のような大男。ヴィーノ。
「……はー…」
窓から差し込む朝日が眩しいが、瞼を閉じてそのまま光を浴びる。
身を起こして簡素な寝台の端に腰掛け、律は天井を見上げて溜め息をついた。
「この歳になってお風呂に入れてもらうって…」
いやあれは不可抗力だったけれども。
まずその砂落とさないと部屋の中には入れないよ。
そういいながら、フェイは律を担いだまま風呂場に直行した。
「はいよ両手上げてー」
「はぶっ」
「変わった布だねぇ」
「アクリルが3%くらい入って…っていやいやそうではなくてちょっと!」
あれよあれよという間に服を脱がされ、恥ずかしいとか思う前に頭から水を被せられ、冷たいとか叫んでいる間に布で擦られ、自分でやりますと必死に抗議をした時にはすでにタオルでくるまれていた。
言葉通り、丸洗い。そして恐るべきその手さばき。
もはや何も言うまい…と律は悟った。
「これ着な」
タオルにくるまってげっそりと肩を落とす律に、フェイが服を投げ渡す。
半袖のシャツと、赤地に模様のついた布だった。見よう見まねでフェイと同じように布を腰に巻く。皮のサンダルは少し大きかった。
次に連れて行かれたのは、食堂と思われる広い部屋だった。
丸いテーブルが六つ。台所があり、カウンター席が五つ。
入り口の扉の脇には、青く塗られた木の板に、金色で何か動物が描かれた看板が立て掛けられていた。
「らくだ?」
「そ。『青い駱駝亭』。あたしと旦那で切り盛りしてるよ」
「『青い駱駝亭』…」
飲食店であることは間違いないだろう。
開店中はお客で賑わうのだろう店内を見回し、律はカウンターの中に立つヴィーノを見た。
流しに立つヴィーノは、片手にナイフを持っていた。大きく、太く、固そうな手は存外器用に何かの皮を剥いている。
手の中にちらりと覗いたものに、律は目を輝かせた。
きらきらと輝く黒い瞳で手元を見つめる律に、ヴィーノが無言で皿を差し出す。
世界が違えど、食べ物が共通であるならば、それは間違いなく桃だった。
「…食え」
思えば昨日から丸一昼夜、水以外口にしていない。
急激な飢えを覚えて、律はありがたく頂くことにした。腹が減ってはなんとやら、である。
カウンター席に腰掛け、食べやすく切られた桃のてんこ盛りを前に、ぱん、と手を合わせて頭を下げる。
「いただきます」
フォークはなかったので、手で掴んでいいと判断し、律はまだ冷たい桃を指先で掴み、口に含んだ。ふわりと心地よい甘味に、思わず顔がにやけた。至福である。
体が食料を欲しているのを嫌というほど感じながらも、律は慎重に、味わって食事を続けた。
(あぁおいしい…)
如何なる時でも味わって食べる、というのが彼女の信条である。
ほどよく水分と糖分をとって胃が落ち着いたところで、目の前にスープが置かれた。
透き通った琥珀色のスープは、湯気を立ててその香りを律の元まで届けていく。
躊躇なくスプーンを握った律に、ヴィーノが頷く。
「…食え」
「…いただきます」
この借りはなんとしても必ず返そう、と決心する律の視界の片隅で、フェイが肩を震わせて笑っていた。
「ふ、くくっ。こんなにおいしそうに食べられると、作りがいがあるねぇ。あんた」
笑いを噛み殺して言われた言葉に、ヴィーノは無言で深く頷いた。
「…いつから食べてないんだ?」
低い声で問われ、律は口の中のスープをごくりと飲み込んでから記憶を辿るように宙を見た。
「えーと…たぶん丸一日でしょうか…」
「…服に砂がついてた。砂漠から来たのか?」
「えーと、はい。一応…」
いまいちはっきりと答えられないのは、いまだにこの状況が現実で、なぜ砂漠にいたのか、どうやってあの庭園へ移動したのか、律自身がわかっていないからだった。
曖昧な返答に、すみません、と小さく付け加える声に首を振り、ヴィーノはそれ以上訪ねる事をしなかった。