6章 めぐり逢えたら
【浅野 圭介】
「だから無理すんなって言ったのに、大丈夫?」
園内を回ってから四十分ほど。
僕たちはアトラクションがあるエリアから少し外れた、近くにクレープやホットドッグの屋台が並ぶ広場で休憩していた。
階段に腰をおろした僕の隣では、少し顔色の戻った誠が申し訳なさそうに笑っている。
体調を崩した原因は、間違いなく園内に入ってすぐに乗ったコーヒーカップのせいだろう。
病み上がりだっていうのに、健二の悪ノリに付き合ったのがいけなかった。
「実はさっき吐いてきたから、もう大分楽になりました。せっかくの日なのに、気遣わせて、ほんと何しにきたんだろう、自分は」
お茶の入ったペットボトルを手渡す。
助かります、と言って誠はそれを口に含んだ。
「面白いから許すよ。さっきまであんな大声あげてはしゃいでたのに。
というか、病み上がりでコーヒーカップとか一番ダメでしょ」
思い出して、つい笑ってしまう。 つられて誠も頷きながら笑った。
僕と誠が座る階段の正面には、一周五百メートルほどの人口の湖が広がっている。
湖面には小さなボートが何艘か浮かび、いずれにもカップルや親子連れが乗っていた。 僕の視界には、山本さんの後ろ姿が写っていた。
柵に両肘をついて、寄りかかるようにして水面を眺めている。
「ねぇ、圭ちゃん」
急に名前を呼ばれ顔を向ける。
誠の視線は、正面に据えられたままだった。
「山本さんはほんとにいい子だって、よく佐江さんが話してるんだ。さっきもずっと心配してくれて、胃に優しいからってのど飴くれたし」
彼女の優しさは知っている。中学の頃から彼女はそういう気取らない、自然な優しさをもった子だった。
「もう大丈夫だから、二人で散歩してきなよ。多分しばらく健ちゃんたちも帰ってこないから」
誠の意図することがわかって、思わずため息がこぼれる。
ジュースを買ってくると言ってからなかなか戻らないと思ったら、そういうことか。 あの二人の考えそうなことだ。
にこにこと笑う誠の顔を見て、わかったよ。と呟き立ち上がり、山本さんの後ろに歩いて近づいた。
振り返る彼女に一瞬言葉がつまったけれど、勇気をだしてできるかぎり自然に切り出した。
「ちょっと、歩こうか?」
「誠くん、落ち着いたみたいでよかったね」
「あいつは楽しくなると、ああ見えて結構羽目はずしちゃうから」
銀色の柵に沿ってゆっくり歩く。
湖の方から聞こえてくるのは、穏やかなトーンの話し声と、湖面がたてる控えめな水音。
園内の外れにあるとはいえ、少し歩けば賑やかな世界が広がっているはずなのに、不思議と今この空間だけは、静かで落ち着いた空気に満たされている。
「みんな基本的に無計画だから、こんなぐだぐだな感じになること多いんだ。なんかごめんね」
「ううん。さっき佐江とも話してたけど、今日はほんとに楽しかった。こんなに笑ったの、本当に久しぶりだよ」
差が開いてしまわないよう、歩幅に気をつけながらゆっくりと足を踏み出す。
好きな子と並んで歩くこと。
緊張するのには変わりないけれど、待ち合わせのときにくらべても、ずっと気持ちが軽く感じられる。
「うちのクラスの男の子って、みんな仲いいでしょ。特に圭介くんたち見てるとね、ほんとにいい関係だなって。一生ものの友情って、こういう関係なんだって、いつも思う」
「時々疲れるけどね。でも、確かに楽だよ」
もし周りに誰もいなくて、ずっと一人きりだったら。
きっと僕は自分に押しつぶされて、生きていけない。
時々、本気でそう考えることがある。
誰かと一緒にいるうちは、少なくともその間だけは、悩んでばかりのめんどくさい性格は顔をださない。
騒いだり、笑ったりしてくれる。それだけで、僕はいつも助けられる。
近くのメリーゴーランドのBGMが、緩やかに聴こえてくる。
水面には、オレンジ色の灯りが浮かび、揺れていた。
僕の左手、湖側を歩く彼女の横顔を見る。
一瞬目をとじて耳をすました彼女の顔には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。
「子供のときよく家族で来たけど、私はジェットコースターより、お母さんと手をつないでここを歩くのが一番好きだったんだ」
相槌をうち、彼女の話を聞きながら、その横顔にあの日の光景を重ねていた。
以前にも、たった二回だけ、彼女とこうして夜空の下を歩いたことがある。
一度は三年前の今日。
発売されたばかりのアーティストの新曲を貸すという名目で呼び出した月見山公園、その帰り道。
そして、そのおよそ半年前。中学時代に通っていた、塾の近くの川沿いの通り。
その日、僕にとって彼女が単なる片思いの相手から、本当に大切な存在にかわった。
中学三年の夏。
学校の駐車場に迷い込んだ近所の飼い猫が、足に石をぶつけられ怪我をするという事件があった。
それを起こしたのは、隣のクラスのみんなから悪がきと噂される生徒だった。
いつも仲間とつるみ、悪事を自慢気に話し、自分に逆らう人間にはどんなに相手が正当な意見を言おうと聞き入れず、周りを巻き込んで時にはいじめに近いこともする。
その事件のあとも、反省するそぶりも見せず、笑いながら自分の悪事を話していた彼を見たとき、心の底から深い悲しみと怒りが込み上げてきた。
ただ、僕にそれを相手にぶつける勇気はなかった。
その猫の飼い主の家に見舞いに行こうと思ったのも、もしかしたら、そんな自分の弱さに対する罪悪感を少しでも和らげたかった、という理由が大きかったのかもしれない。
学校の裏にあるその家には、腰の曲がったおばあちゃんが一人で暮らしていた。
塾の帰りに立ち寄った僕に、おばあちゃんは何度もありがとうね、と頭を下げてくれた。 猫の世話を手伝い、一時間ほど過ごしたところで、そろそろ家族の人が心配するでしょう、と僕の帰りを気にかけてくれるおばあちゃんに気を遣わせないよう、お礼を言って家をあとにした。
玄関まで見送りにきてくれたおばあちゃんに別れを告げた際、彼女は僕が来る少し前までいたという女の子のこと。そして、その子が涙を堪えながら怪我を負った猫の看病をしていたことを教えてくれた。
『気を遣って、ずっと笑顔で私の話し相手になってくれて。でも、我慢してたんだね。 帰るとき、来てくれてありがとう、って肩を叩いたら、急に泣き出したのよ』
透き通った、優しい涙だった。柔らかい口調で、おばあちゃんは話してくれた。
最後にその子の名前を聞き家を出たあと、僕はすぐに自転車に跨り、彼女の家の方向を目指していた。
会って何を話そうと決めていたわけじゃない。
彼女の家の近くの川沿いの道で彼女の後ろ姿を見かけたとき、僕は自然と、『はるちゃん』、と彼女の名前を呼んでいた。
驚いた表情の彼女に、塾の帰りに偶然見かけたんだ、と嘘をついて、隣に並んで歩いた。 おばあちゃんと猫の話には触れなかった。
できるだけ、悲しみを思い出して欲しくなかったから。
だから僕は、無理に笑顔をつくり明るく振舞おうとする彼女の気持ちを少しでも和らげたくて、何分も一人で喋り続けた。
普段は喋るのが苦手な僕が、なりふり構わずに、したことのない先生の物真似なんかもして。
そのときは本当に夢中だったから、きっと相当まとまりのない内容だったと思う。
それでも、最後には彼女はいつものあの笑顔で、目の縁に涙を溜めて笑ってくれた。
誰かを守れるような人になりたい。そんなドラマみたいなことを心の底から望んだのは、そのときが初めてだった。
湖の折り返し地点を過ぎて、僕たちの視界には休憩場所の広場が見えてきた。
こちらに気付いた誠が、さっきと同じ階段に腰をおろしたまま手を振っている。
僕たちもそれに手をあげて応えた。
「卒業しても、またこうやってみんなで遊びたいね」
隣から聞こえてくる、優しい語り口調に顔をむける。
柔らかく微笑む彼女につられて、僕も小さく笑って頷いた。
戻ってきた広場には、佐江と健二の姿もあった。
山本さんは佐江に呼ばれ、屋台が並ぶ方へ駆けて行った。
クレープ屋のディスプレイを前に、二人でどれにしようか、と楽しそうに談笑している。 健二はというと、買ったばかりのデジタルカメラ片手に、あちこち動き回りながら湖や周りの景色に合わせシャッターを切っている。
「おかえり。いちごでよかったよね?」
「さんきゅ。おかげさまで、楽しかったよ」
僕は誠の手からクレープを受け取ると、さっきと同じように隣に腰をおろした。
中身が零れないよう気をつけながら頬ばっている横顔を、誠が穏やかな表情で見つめてくる。
少し困惑しながら、どうかした?と尋ねる。
「いや、なんか圭ちゃんがそんな楽しそうに笑うとこ、久しぶりに見たなと思って」
「そう?」
「健ちゃんからね、前に一度聞いたんだ。圭介は高校入ってから、前より笑わなくなった、って」
高校に入ってから、その言葉の意味はすぐに理解できた。
正確には三年前。父さんが死んだ日から。
今まで誰もそのことには触れてこなかったから、突然の話にどう反応したらいいかわからなかった。
最後に見た父さんの顔は、思い出すと、今でもまだ胸が痛くなる。
「ごめんね、急にこんな話しちゃって」
「いや、大丈夫。なんか、みんなに心配かけてたんだな。こっちこそ、ごめん」
心の暗い部分。表にださないようにしていても、きっと健二や誠には見透かされていた。 そうしていつの間にか、僕はその優しさに甘えていたのかもしれない。
「随分時間がたったから。今まではたしかに時々悩んだりもしたけど、もう大丈夫。だから、ほんとに心配しないでいい」
そう笑って誠の方を見る。
まだ何か言いたそうな表情をしていたけれど、僕に合わせてようやく誠も笑ってくれた。 ごみ捨ててくる、そう言って僕は立ち上がった。
なんで僕はずっと、父さんのことを避けていたんだろう。
今までに何度も巡った後悔の言葉。
小学生までの僕は世界の綺麗な部分しか知らなくて、自分自身も漫画の主人公のようなまっすぐなヒーローになれる。そう信じていた。
中学に入ってすぐ、悪さやいじめまがいのことまで平気でするクラスメイトに出会った。初めて嫌いな人間と出来事に遭遇した僕は、それを見てみぬ振りしかできなかった。
本当は注意したくても、嫌われるのが怖くて、自分を覆い隠す。
それは人によっては、いつかは忘れてしまう過去のできことで済まされるかもしれない。
でも僕は、そこで初めて自分の弱さと小ささを知って、その日から、色んな自分の嫌いな部分を見つける日が多くなっていった。
きっと、父さんは違うだろう。
いつも邪気のない笑顔しか見せなくて、本当は芯の強い父さんとは僕は違う。似てると思っていたけど、全然似てなんかいなかった。
嫌いな色を、好きな色で塗りつぶしたい。そう誓いをたてるけど、すぐに諦めて筆を置く僕とは違う。
そんなことを考えるようになってから、父さんと話をすると自分がますます小さく思えるようになって、段々と会話も少なくなっていった。
三年前、受け持った生徒との間に起きた話を聞いたときも、最初に抱いたのは、もちろん軽蔑なんかじゃなく、弱い自分への後ろめたさだった。
だからあのとき、亡くなる前日の夜中。父さんがかけてくれた言葉を僕は無視したんだ。
トイレのために二階から降りてきた父さんは、リビングで鉢合わせた僕に優しく声をかけてくれた。
『寝れないの?牛乳買ってあるよ』
久しぶりに見たその顔は痩せてて、父さんの方こそ眠れてないんじゃないかと心配だった。
体調が優れないことも、仕事のことで悩んでることも知ってたから、大丈夫?って、ほんとは一言声をかけてあげたかった。
それなのに、僕は無愛想に頷くだけで、返事もせずに二階にあがった。それが父さんと顔を合わせた最後の出来事だった。
それから何度も自分を責め続けた。
あのとき冷たく避けたりしないで、何でもいいから言葉をかけていれば、父さんは死なずにすんだんじゃないか。
もしかしたら、僕のことを嫌いになったんじゃないか。信じたくなくても、もうその答えをきくことはできない。
少なくとも最後の瞬間、あの人の頭に、きっと僕の顔は浮かばなかった。
いつの間にか、そんな後悔と自分を責めるやりきれない想いが胸を占めていた。
首を振って、そうした考えを打ち消そうとする。
変わろうと思ってすぐこれじゃ駄目だな。
苦笑したところで、一筋、なぜだか涙が零れてきた。
いつかはちゃんと、気持ちに区切りつけないと。
小さな誓いをたて、涙を拭ったところで、ポケットの携帯が震えているのに気づいた。
画面を開くと佐江からで、一呼吸おいてから通話ボタンを押した。
「もしもし、まださっきの広場にいる?」
「うん、いるけど。なに?」
「今、観覧車の前にいるんだけどさ、ちょっとこっち来て」