5章 二人だけのデート
【浅野 圭介】
バスが目的の停留所に着いたときには、すでに待ち合わせの六時半を過ぎていた。
五時にバイトが終わって、まだ少し時間があるからと一旦家に帰ったのがいけなかった。 時間つぶしにベッドに横になって英単語帳を開いているうちに、いつの間にか眠ってしまって、起きたときには完全に寝坊の時間。
バスから降りるとすぐに駆け出す。運悪く最初の横断歩道の赤信号でつかまり、謝罪のメールを送るため携帯をとりだしたその時、小さく誰かに背中を触られた感触があった。 気のせいか、とも思いながら振り向いて、僕は思わず、おっ、と間抜けな声をあげてしまった。
「山本さん、」
なんの気構えもできていなかったから、そのときの僕はきっととんでもなく驚いた顔をしていたはずだ。
一拍おいて、恥ずかしさがこみあげてくる。
「ごめんね、驚かせちゃって」
紺のフード付きのコートにチェックのスカート。
久しぶりに見た彼女の私服姿。初めて見たわけじゃないのに、いつ見ても新鮮な感じがする。
口元の下半分まで隠していた白いマフラーを外すと、綺麗に畳んでバッグにしまう。
バスから降りる僕をたまたま見かけて、追いかけてきてくれたらしい。
彼女の口からは、まだ少し息が切れていた。
「圭介くんも遅刻、みたいだね。よかった、」
一度小さく咳払いをして、小ぶりな腕時計を確認してから安堵の表情を浮かべる。
僕も、声がつまらないように咳払いをして応えた。
「バイトの後一回家帰ったら寝ちゃって。山本さんは、予備校から直接きたんだ?」
「うん、ここから歩いて二十分ぐらいのところだから。そう、さっき佐江から連絡あって、誠くんと一緒に、もしかしたら三十分ぐらい遅れるかもって」
「えっ、そうなんだ。じゃあ急いで損したな」
「ごめん、って謝ってたよ。きっと、今健二くん一人で待ってるよね?」
「うーん、多分大丈夫だと思う。もしそうだったら今頃怒りの電話きてるだろうから、あいつも遅れてるんじゃないかな?少し早足ぐらいで行こう」
山本さんは心配そうな顔をしながらも、そうだね、と頬を緩めて頷いてくれた。
信号が青に変わり、僕らは並んで歩き始めた。
こうやって二人で並んで歩いたこと。高校に入ってからはクラスも別々だったから、たまたま登下校で一緒になったことはあったけど、それだって数えるくらいしかない。
そのときは緊張していて、どんな話をしたのかもろくに覚えていない。
覚えているのは、うまく話せなくて彼女に気を遣わせてしまったんじゃないか。そんな会話のあとに残った後悔の記憶だけ。
今日だって、今までと同じように会ったときからずっと鼓動は早いままだけれど、なぜだかいつもより少しだけ、気持ちは落ち着いていた。
気負うことなく、隣にいることが自然に感じられる、そんな不思議な距離感。
なんでだろう?
僕が今日それなりに覚悟を決めてきたからか、それともたまたまこのタイミングで会ったからっていうだけかもしれない。
もし待ち合わせ場所で彼女が来るのを待っていたら、きっと色んなことを考えて気構えてしまったはずだから。今は、ちょうどいい具合に肩の力が抜けている。
「なんか、ごめんね。健二のわがままに付き合わせちゃって。大切な時期なのに」
「ううん、いいの。私もちょうど息抜きしたかったから。誘ってもらって、正直嬉しかったな。それに、今日もずっと勉強してたから、大丈夫だよ」
並んで歩くと、比較的小柄な彼女の頭はちょうど僕の肩の位置にある。
ふと顔を横に向けたとき、彼女の髪の耳元の部分が一箇所だけ、わずかばかり不自然にはねていることに気がついた。
指摘するべきか迷っていると、視線に気付いた彼女は少し顔を赤らめて、手でその部分をおさえた。
「本当のこというと、講義のあとずっと自習室にいたんだけど。気がついたら寝ちゃってたんだ」
「ってことは、山本さんも寝坊ってことだ?」
「うん、恥ずかしながら。ちゃんと直したつもりだったんだけど」
そう言うと指先を櫛代わりにして、照れ笑いを浮かべながら髪を整えている。
その控えめで何気ない仕草が可愛らしくて、僕もたまらず笑顔になる。
「目立たないから、気にしなくて大丈夫だよ。それに健二なんて自習室に枕がわりのクッション持ち込んでるくらいだから」
「そうなの?健二くん、やっぱり只者じゃないね」
僕がかけた言葉に、彼女は顔をあげて「フォローしてくれてありがとう」、と言った。
一瞬、目と目が合う。
さすがに戸惑って、僕はすぐに目線を逸らして別の話題を切り出した。
一月前にやった模試の結果、佐江と誠の最近のデート事情。
そんな会話をしているうちに、あっという間に待ち合わせの場所に到着した。
遊園地の入り口の前は広場になっていて、入り口とチケット売り場の反対側には、レストランや軽食を扱うフードコーナーが立ち並んでいる。
店の前にテーブルや椅子がおかれている場所もあったのだけど、どの席もすでに家族連れやカップルで埋まっていた。
仕方なく、みんなが来るまで、僕たちはチケット売り場の脇に立って待つことにした。
「やっぱり、健二くんまだ来てなかったね」
「まあ予想通りというか。それにしても、この時間から入る人なんているのかな?下手したら乗り物二つぐらいしか乗れないかも」
腕時計と看板に記された営業時間を交互に見て、二人で苦笑する。
ここに到着する途中、閉園時間の話になったとき、二人とも十時までだと勘違いしていたのに、看板には大きく九時までとかいてあった。
「二時間ちょっとか。まあせっかく来たからには雰囲気だけでも味わおう」
彼女の表情からは残念さは感じられず、ただ純粋に限られた時間を楽しみたいという気持ちが滲み出ていた。
人で溢れた広場の中、ざわめきを縫うように、時折園内からジェットコースターの音や愉しげな悲鳴がきこえてくる。
「あっ、懐かしい」
突然小さな声で呟いて、彼女は広場の中央へ歩いて行った。
どうしたのかな、とその後姿を見守る。
広場の中央には、二メートルほどの雪だるまのオブジェが置かれていた。
シルクハットを被った可愛らしい顔で、首元にはマフラー代わりに綺麗な光を放つ電飾の蔓が巻かれている。
僕も小さい頃、何度か家族ときたことがあるけれど、当時からこの雪だるまはここ「西の宮遊園地」の冬限定の風物詩として、変わらず広場の中心に佇んでいた。
山本さんはバッグからだした携帯電話をそれに向けて、シャッターを切った。
あまり上手くとれなかったのだろうか、画面を見て照れ笑いを浮べたまま小さく首を傾げる。
携帯の機種を変えたばかりという彼女は、まだいまいち使い方が分かっていないらしい、とこれは佐江から聞いた。
僕は近づいて彼女の隣に立った。
何度目かのシャッター音のあと、嬉しそうに彼女が見せてくれた小さなディスプレイ画面。そこにいた雪だるまのおじさんは、実物のままに愛らしい笑顔を浮べていた。
表情を崩して、彼女はその画面を見つめていた。
そんな表情につられて、そしてなぜだか僕もうまく写真が撮れたことに安心して、同じ様に頬を緩めた。
そのまま黙って隣にたっていると、小さいときにね、と山本さんは画面をみつめたまま口を開いた。
「小さいとき、私実はこの雪だるまが怖かったんだ。
お兄ちゃんに『雪だるまには実は魂があって、溶けたあと作った人間を恨み続ける。こいつはその親玉なんだ』って脅かされて、そんな嘘を信じてたんだね。だから、昔の写真見たら、げらげら笑うお兄ちゃんの横で、私大泣きしてるの」
その優しい微笑みから、僕は自然とかすかな寂しさを感じとっていた。
少し前に、彼女が佐江と教室で話しているのを聞いたことがある。彼女と五つ年の離れたお兄さんが来年に結婚するという話。
『多分結婚式は泣いちゃうだろうね。』そう言ったときの彼女の顔も、今と同じでやっぱり少し寂しそうだった。
「貸して」僕はもう一度、右手を差し出していた。
首を傾げる彼女の目を、今日初めてちゃんと見返して頷きかける。
「撮ってあげるよ。雪だるまと笑顔でツーショットとって、お兄ちゃんに送ってあげな。
私も大人になりました、って」
彼女の控えめで恥ずかしがりな性格も知っていた。僕の提案に、山本さんは一瞬驚きと戸惑いの表情をみせた。けれど、すぐに小さく首を立てに振った。
「じゃあ、お願いします」
雪だるまの隣に並ぶ彼女に合わせて、シャッターボタンを押す。
目を細め自然に頬をあげた彼女の笑顔からは、ほんのわずかな恥じらいと、めいいっぱいの幸せな雰囲気が画面越しのこちらにまで伝わってきた。
おっけーと親指をたてる僕のもとに駆け寄って、画面を覗き込む。
この顔、ちょっとお兄ちゃんに似てるかも。嬉しさを隠せない横顔を見せて、彼女はつぶやいた。
「ありがとう。これで、いい結婚祝いのプレゼントができました」
彼女の仕草にあわせて、どういたしまして、と僕も頭をさげた。
彼女に最初に抱いた印象は大人しそうな子というものだった。
クラスの中でもどちらかというと大人しいグループにいて、彼女自身もあまり自分から人に話しかけるタイプの子じゃなかった。
けれど、それだけじゃなくてちゃんと自分の考えや芯の強さをもった子だと、話をしていくうちに僕も気づいていった。
だから、誰に対してもずばずばものを言う佐江が、一見対称的な山本さんと一番仲の良い理由も納得できる。
『聞き上手っていうのかな。悩み事も単なる愚痴も、ほんとに親身になって聞いてくれて、駄目なところは、ちゃんと指摘してくれる。
だからあの子に話すと落ち着くんだよね。長い付き合いだけど、誰に対しても裏表なく優しいでしょ。
あんたもうかうかしてると、誰かにとられるよ。あんた別に男前でもないんだから』
最後の付け足しは余計だ、と突っ込みをいれたいつかの佐江の言葉を、改めて思い出す。
確かに、佐江の言うとおりのんびりしてる場合じゃないな。
山本さんを見ると、さっき撮った写真を送るためにメールの文章をうっていた。
まるで初めてメールを送る子供のように、無邪気であどけない表情だった。
やっぱりその笑顔を見てるときが、僕は一番優しい気持ちになれる。
改めて感じたそんなことを、もういちど頭の中で確かめていると、ポケットの中の携帯が震えた。
とりだすと健二からの着信だった。
「もしもし、ごめん!おれとしたことが遅れた!今バス降りたからもうすぐ着く」
「いや、いつものことだから別にいいよ」
僕の日頃の不満の混じった返事に答えずに、一方的に電話は切られた。
「全然人の話聞こうとしないな」
僕と健二の電話越しのやりとりを、山本さんは愉しそうにきいていた。
呆れ顔で画面を閉じようとしたほぼ同じタイミングで、広場の入り口の方からにぎやかな声がきこえてきた。
「ごめーん!遅くなって」
ブーツの音をたてながら、佐江が僕たちの方まで走ってきた。
その後ろを、いつものにこにことした顔で、誠がついてくる。
「まこが体調悪いみたいだったからさ。様子見てたら遅くなったの。今日は来なくていいって言ったのに」
「おはよう。風邪?大丈夫なの?」
「ありがと。さっき薬のんで寝たら、今はもう全然平気。圭ちゃんも山本さんも待たせちゃってほんとごめんなさい」
頭をかいて、申し訳なさそうに話す誠に、しんどかったら休んでていいよ、と佐江が声をかける。
二人とも、同性と比べてすらっとした長身で、髪型も似たような長めの黒に近い茶色。
そういった外見の部分では似ている部分は多くても、中身の方はまるで正反対だ。
たまに口うるさいけど、面倒見の良い佐江。と、いつもほんわかしていて、温厚な誠。
クラス全員からのいじられキャラと姐御キャラ。
彼は絶対将来尻にしかれるタイプだな、
二人のやりとりを見ていると、いつもそう思う。
「あんまり無理しないでよ」
「ありがと、もし気分悪くなったらちゃんと言うね。ところで、健ちゃんは?」
さっきの電話の内容を二人に伝える。
案の定、誠は笑い、佐江は呆れた顔で眉をしかめた。
もう先入っちゃおうよ、とごねる佐江を山本さんがなだめる。
誠の方を見ると目が合って、嬉しそうに意味深な笑顔を向けてきた。
「こういう雰囲気、なんかいいね」
なんだかんだで、一番この状況を楽しんでるのは誠かもしれない。
そういえば、人の恋路を見届けるのが大好きだと、昔から言ってたっけ。
何かを期待するその言葉に、僕はそうだね、と苦笑混じりに頷いた。