4章 AS TIME GOES BY
【永山 拓実】
大切な光景がある。
そこにでてくる俺はまだ中学生で、髪は短く、背も今よりずっと低い。
当時の俺は、誰かと話をするのが苦手で、一人でいる時間の方がうんと多かった。それに、何よりその方が楽だった。
楽しみといえるのは、小さい時に母がプレゼントしてくれたCDプレイヤーで好きな海外の音楽を聴くこと。
学校が終わってもまっすぐ家には帰らずに、お気に入りの土手に寝転がって、夜遅くなるまで音楽の世界に浸っていた。
その間は色んなことを忘れることができた。
病気で死んでしまった母のこととか、漠然とした自分や将来への不安だとか。
授業中でも、先生にばれないようイヤホンをはめて、こっそり曲を聴いていたこともある。
ある日の放課後のこと。
教室をでて廊下を歩いていると、後ろから誰かに呼び止められた。
「たくみ!」
その顔は、俺もよく知っている顔だった。
生徒の間から「正ちゃん先生」と呼ばれて、学校で人気のある、俺のクラスの担任の先生。
優しくて、面白くて、生徒と同じ目線で悩み事も真剣に聞いてくれる。その上、体育祭のときなんかは生徒以上のはしゃぎっぷりで、一緒になって盛り上がる。
しっかりとした大人の雰囲気と子供の無邪気さを併せ持った、不思議な人だった。
俺も、他の生徒みたいに気軽に話しかけたことはなくても、先生のことは好きだった。
だから、その日先生に話しかけられた時、驚きながら少し緊張もしていた。
「何ですか?」
近くで見た先生の顔は、いつも見るのと同じ優しい表情をしていた。
「さっき授業中、音楽聴いてただろ?」
そう言って先生は、自分の耳を人差し指でとんとんと叩く素振りをした。
しまったな、ばれてたんだ。
その日先生のうけもつ午後の数学の時間、俺は頬杖をつく要領で片耳を隠して、図書館で借りたばかりのCDを聴いていた。
先生なら見つかってもあまり怒られないだろう、そう甘く考えていたせいもある。
きっと、そのことを注意されるんだ、と俺はすぐに頭を下げようとした、のだけど、先生の口からでたのは予想とは違う言葉だった。
「さっきの曲、何の主題歌だっけ?」
呆気にとられながら、俺は、「ピノキオですか?」と海外の古いアニメ映画のタイトルを口にした。
「そうだ!横通った時、イヤホンから一瞬洩れてきて、何だっけなーって。授業中ずっと気になってたんだ。すっきりした」
てっきり怒られると思っていたのに、なんだか拍子抜けしてしまう。
「あの、そういうのって、普通注意するもんじゃないんですか?」
当たり前の意見を思い切って尋ねてみると、先生はあごに手をあててしばらく考え込んだ。
「うーん、でも一番後ろの席だから特別に見逃してあげよう。こっそり周りに迷惑かけない分には、私は気にしないから、今度からはもうちょっと音量小さく、ばれないようにな。
それに教室って空間で音楽に浸れるなんて、今しかできないんだから。嫌いな午後の数学の時間と比べて、自分にとって有意義と思う方を選びなさい。ただ、他の先生の前では駄目だよ。それにしても、結構渋い曲聴くんだね」
いい先生だけど、たまにちょっと変わってる。
よかったよかった、としきりに頷く先生をみながら、俺はみんなが話す先生の評判を思い出して、つい笑ってしまった。
「そういえば、まなぶから聞いたけど、拓実はギター弾けるんだって?」
なんでそんなこと聞くんだろう?
不思議に思いながら、俺は正直に答えた。
「まあ、ほんの少しだけなら。でも練習始めて二ヶ月くらいなんで全然上手くはないですよ」
「そうなのか、いや、でもそれぐらいのがちょうどいいか」
腕組みをして独り言のように呟いたあと、先生は怪訝な表情を浮かべる俺に、照れくさそうに尋ねた。
「もし迷惑じゃなかったら、先生にギター教えてくれないか?」――
夏樹さんとお別れした公園を後にし三十分ほど電車にゆられたどり着いたのは、『夕水寺』という長い石段のあるお寺だった。
地面に散らかった落ち葉を足でよけながら、石段を一歩一歩登っていった。
「これで会えなかったら疲れ損だね」
俺は一つ息を整えてから、前を歩く先生の背中に冗談っぽく声をかける。
膝に手を当てながら石段を登る先生も俺と同じように息を整えた。
「かずも運動不足みたいだから、体動かせただけいいことじゃないか。でも、できれば会えるといいな」
登りきったところで右に曲がって、敷地の奥の方へと向かっていく。
歩くたびに聞こえてくる、玉砂利のこすれる音。その音を聞きながら、歩いた先には『浅野家』と先生の苗字が彫られた墓石が建っている。
そこに眠っているはずの人物が、今は俺の隣にいる。というのは、今更ながら不思議な画だ。
線香の煙が立ち上がるその墓石の前には、高校のブレザーを着た青年がしゃがみこんでいた。
喧嘩別れした生徒がいてね、と、ここに来る電車の車内で、先生はその彼のことを話してくれた。
「本当に会えたね」
「ああ、やっぱりクリスマスに奇跡はつきものみたいだ」
夏樹さんが去年この場所で彼に会ったという話を信じてこの場所にやってきたものの、まさか本当に会えるなんて。
先生の逢いたかった人、そして俺も彼のことはよく覚えていた。
葬式の日、一番印象に残ったのは先生の遺影の前で泣き崩れる彼の姿だった。
「よかった、会えて」
心の底から洩れてきたようなかすれ声が、先生の口からきこえてくる。
一体どれだけの時間そうやっていたのか。強く目をとじて手を合わせたまま、青年は動かない。
「じゅん、」
消え入るような声で、先生は名前を呼んだ。
立ち上がり、振り向いた純君という青年。短く刈られた髪とがっしりした体格のわりには、その顔にはまだ幼さが残っている。
「正ちゃん?」
驚きのあまり半分開けた純君の口元から、火のついたタバコがぽとりと落ちた。
「え、嘘でしょ。なんで」
線香、ではなくタバコの煙が空にあがるのを眺め、先生の涙腺からでかかった涙は一気に引っ込んだ。
「未成年が何をやってるんだ」
「双子のお兄さんがいたなんて、初耳でした」
テーブルの向かいに座る純君はまだ少し緊張した様子で、好物のパフェを口に運んでいる。
純君との再会の後、我々はお寺近くのファミレスに移動することにした。俺の隣に座る先生は正直に蘇ったことを説明することはせず、死んだ先生の「双子の兄」ということになっている。
咄嗟に先生のついた嘘を疑いなく信じてくれた純君は、俺のイメージ通りに素直な子なのだろう。
「そんなに似てるって言われたことないんだけどね」
絶望的に嘘が苦手な先生は余計な一言を放った後で、ひきつった笑顔がばれないよう、オレンジジュースをストローで勢いよく吸い上げた。
「そっくりじゃないっすか。
正直、正ちゃんが生き返ったのかとひやひやしましたよ。
ついでに説教されんじゃないかって」
純君は初めて表情を崩し、つられて先生も今度は自然に笑った。
「正一先生はどんな人だったの?」
俺が質問を切り出したのは、これ以上先生がぼろを出さないようにという以外に、単純に知りたかったからだ。当時の生徒にとって、先生がどんな存在だったのかを。
「一言で言うと子供みたいな人でした。
教師っていうより友達感覚で接することができる不思議な人。
そういえば、中二のとき合唱祭があったんすけどね、」
当時のことを思い出しながら話す純君の表情から、いつの間にか緊張の色は消えていた。
「自分が参加するわけじゃないのに、毎回練習を見守りに来てくれたんですよ。
でも音程合ってないのに誰よりもでかい声で唄うもんだから、学級委員の女子に本気で怒られてた」
あいつらしいね、と先生は恥ずかしそうに首を振った。
「そんな感じだし、見た目もひょろっとして頼りないんすけど。悪いことしたらしっかり叱ってくれる、芯の強い人でした」
伏せかけた瞳には、一瞬悲しみの色が滲んでいた。もしかしたら、純君は三年前のことを思い出しながら話しているのかもしれない。三年前に先生と純君の間に起きたその出来事は、お寺へと向かう電車の中で先生の口から語ってくれた。
「三年前、喧嘩別れした教え子がいてね」
人影もまばらな車内で空いていたシートに二人並んで座った。
眠っているかのように目を閉じていた先生が口を開いたのは、俺が日差しよけのカーテンを下ろそうとしたときだった。
「こうして話していないとまたこの世から消えちゃうんじゃないか、と不安なんだ」
優しく苦笑する先生に頷き返す。
一拍呼吸をおいて、先生は当時のことを丁寧な口調で語り始めた。
「純といって、クラスの先頭に立ってみんなをひっぱるタイプの子だった。時々生意気なこということもあったけど、私からしたら可愛い子供みたいな子だった。純にはひろっていう親友がいてね。いつも朗らかとして、友達想いのひろと少しやんちゃな純。本当に仲のいい二人だった。でも、ある日の昼休みに――」
発端は些細な口げんかから始まったらしい。
自分の好きな女の子が、ひろ君のことを好きだときかされて、それにやりきれなさを感じた純君が彼に怒りをぶつけた。そんな、時間が経てば笑い話ですまされるような小さな揉め事。
ただ、中学三年の男子にとっては、それは世界のすべてと思えるほどの大きな出来事だ。
結果的に、純君は親友であるひろ君に手をあげてしまった。
「私が教室に入ったとき、肩で息をする純の前にひろが倒れていた。
口の中を切ったのか血が垂れていて、中にはそれを見て泣き出す子もいた。
純を見ると、取り返しのつかないことをしてしまった、という表情をしていた。ただ、周りの目もあって後に引けなくなったんだろう。ひろのもとに駆け寄った私に純は言ったんだ」
『そんなやつ死んでも、俺には関係ない』
心にもないことを口にしていることは、表情を見てすぐにわかったらしい。
ただどんなにそれが心にない言葉でも、軽はずみでも、先生はそれを許さなかった。
「私はね、気の合う仲間に巡り合えるのは一生のうちでも最高の奇跡だと想うんだ。
別に勉強ができなくても、授業中寝てても構わない。
ただ、仲間を、大切な相手を傷つけるような人間になってほしくなかった」
先生はゆっくりと純君に近づくと、生徒や駆けつけた他の教師が見ている前で彼の頬を力強く叩いたそうだ。
「突然ぶたれたことで、驚きと恥ずかしさもあったのかもしれない。みんなが見ていたから。純はすぐに私の襟元に掴みかかってきてね。そしたら、私もムキになって、掴み返してしまった。なにを、負けてられるかって。他の先生や生徒に引き離されなかったら、確実に投げ飛ばされてたけど」
先生は少し恥ずかしそうに、それでもどこか嬉しそうに笑った。
その翌日、先生は自ら自宅での謹慎を申し入れ、一月後の終業式、クリスマスの朝に学校に退職届けを提出した。先生が転落死したのはその日の夜のことだ
「あの子は自分のせいで私が教師を辞めたと思ってるかもしれない。もしかしたら私が死んだことにも責任を感じてるかもしれない。それだけは、違うってちゃんと伝えなくちゃ」
二人が喧嘩をしたのは、十一月の末ごろだったと聞いている。先生が病気の診断を受けたのは、その一月前の十月頃。教室でのその出来事が起きる前には、すでに先生は教師の職を辞すことを決めていたらしい。
純君に手を上げたのは、教師としてではなく、一人の大人としての覚悟だったのかもしれない。
「それと、渡さなくちゃいけないものもあるんだ」
指先を触りながら、先生は照れくさそうに俺の顔を見た。
「正一のことを聞けてよかったよ。ありがとう」
純君が中学時代の思い出話をしてくれたことに先生は感謝の言葉を口にし、深く頭を下げた。
「引き留めて悪かったね。ここは私が払っておくから」
何か言いたげな純君が口を開くのを遮るように先生は会計の札を持って立ち上がった。
「じゃあお言葉に甘えます。
ごちそうさまでした。先にバイクとってくるんで外で待っててください」
純君はお寺の駐輪場に止めた原付を取りに行くために先に店をでた。
またあとで、と先生は純君の大きな背中をぽんと叩いた。
その後、レジで会計を済ませた後、我々も店をでようとしたときだった。
後ろから突然怒鳴り声と大きな物音が聞こえてきたのは。
「おい!ふざけんなよ、お前!ちゃんと見とけよ」
振り向くと、制服をきたおそらく高校生ぐらいの男子がレジカウンターに置いたクーポン券を叩きながら声を荒げていた。
状況から察するに、店員が会計時にクーポン割引をするのを忘れた金額を提示してしまったらしい。
新人と思しき店員の女の子は今にも泣き出しそうな顔でしきりに頭を下げていた。
後ろからやってきたベテランの店員が謝罪の言葉を口にしながらレジを打ち直している。
「謝れば済むと思ってるだろ。そういうのいいからさ、無料で結構です、とか言えねえの?」
くだをまく金髪男子の後ろには、それぞれ黒と赤い髪の男子二人がその光景をにやにやと笑いながらスマホのカメラで写していた。
「俺の一番嫌いなタイプだ」
早くこの場を立ち去ろうと入り口のドアに手をかけながら先生に声をかける。
先生は返事をせずに、じっとその高校生たちを見据えていた。
なんだか嫌な予感がする。
「ほら、行くよ」
俺は先生の腕をひき、なかば無理矢理店から連れ出した。
「1つ言っておくけど、トラブルはごめんだよ」
店をでて駐輪場で純くんが来るのを待ちながら、俺は先生に釘をさした。
先ほどの高校生の態度に、当然俺も腹が立たなかったわけはない。
でも、わざわざこんな特別な日に揉め事に口を突っ込まなくてもいいじゃないか。
先生は俺の言葉に返事をすることなく、じっとレストランの入口を見据えていた。
ほどなくしてドアが勢いよく開き、先ほどの高校生たちがでてきた。
「あれはやばいわ!うける!」
「あいつ完全泣いてたでしょ」
まるで遊園地のアトラクションをのり終えた直後のように、三人共手を叩き高笑いしている。
「離れてなさい」
先生は俺の制止をふりきり三人のいる方へと歩いていった。
「店員さん、しっかり謝罪してたじゃないか」
彼らがまたがろうとする自転車の後ろまで近づいて先生は声をかけた。
一瞬驚いた表情を浮かべた三人組だったが、すぐに威嚇の表情へと変わる。
「おじさん、誰」
金髪が冷静に口を開く。
「注意するのは必要だけど、あのやり方じゃ仲間が見てる前で虚勢をはりたいだけにしか見えない」
いつの間にかぴったりと先生の隣についた黒髪が、顔を近づける。
「難しいこと言われてもわかんねえよ、じじい」
先生は黒髪の目を見据えて、そして口元を柔らかく緩めた。
嫌な予感がして、俺はいつの間にか先生のそばに駆け寄っていた。
「伝わらなくてごめんな。
君にもわかりやすい言い方すると、ああいう馬鹿な態度は女の子に一番嫌われるからやめた方がいい」
先生が言い終わる直後、黒髪の手が先生の胸ぐらを掴んだ。
「おい!」
いつの間にか声を出していた俺が一歩踏み出そうとしたとき、突然視界の目前に地面が近づいてきた。
一瞬間をおいて痛みと胃液が込み上げてきて、初めてお腹を殴られ、倒れこんだのだと気がついた。
「調子のんなよ」
苦しさで顔をあげられないながらも、目の前に立つ赤髪に殴られたのだとわかった。
今日は、なんてついてない日なんだろう。
俺がうずくまり自分の運の悪さを嘆いている時だった。
先生の、聞いたこともないくらいの大声が響いたのは。
「私の教え子に何をする!」
その言葉に思わず耳を疑った。
何だよ、俺の正体気づいてたのか。
苦しいのも忘れ、気づいたら苦笑しながら顔をあげていた。
「何笑ってんだよ」
赤髪がもう一度拳を振り上げたところで、俺は今の状況を思い出し、力いっぱい目をとじた。
と、次の瞬間、大きな物体が地面に叩きつけられる音が響いた。
自分がもう一度殴られたのだと思ったが、しばらくして目を開けるとそこには地面に倒れこむ赤と黒髪の姿があった。
背中に手をあて、うめき声をあげる二人を見て、彼らが地面に叩きつけられたのだと気がついた。
そして、先生の方へ視線を移す。
先ほどまで先生を睨み付けていた金髪は悲鳴のような声をあげながら、地面に両ひざをついていた。
「おい、離せよ!」
背中に鍵形に回された腕は、大きな身体ががっちりと抑えている。
「俺の恩師になにしてくれてんの」
頼もしい純君の背中に俺はようやく落ち着いて呼吸を整えた。
というか、そんなことより。
俺が続けようとした言葉を、緊張がとけ地面に腰をおろした先生が代わりに口にした。
「なんだ、気づいてたのか」
高校で柔道部の主将として活躍する純君のおかげもあり、あのあと三人組は店員さんと我々に謝罪の言葉を口にし店を後にした。
俺たち三人も店を離れ、帰りの駅へと続く道を歩いている。
俺の前には原付を押す純君と腰をさすりながら先生が笑いながら話している。
先生の話では、緊張がとけた途端腰が抜けてしまったらしい。
ふざけた様子で先生の腰を叩く純君とのやり取りを見て、俺も思わず表情が緩む。
「結局、みんな嘘が下手だってことか」
俺が先生についた赤の他人という嘘。先生が純君についた双子の弟という嘘。
嘘がばれたのに、なぜこんなに清々しい気持ちなんだろう。
「そうだ、お土産にこれ持っていきなさい」
先生から純君の手に手渡されたものは新品の紺地の布で作られた御守りだった。
それを見て、俺も思わず表情が崩れるのを堪えられなかった。
先生の手作りの御守り。それは十年前、俺も先生から手渡されたものだ。
受け持ったクラスの生徒全員に渡された、先生からの受験合格祈願のおまじない。
その表面には、白く太った猫のイラストがデザインされている。
『うずらっていううちの猫がモデルなんだよ。白猫は縁起がいい。私の勝手なイメージだけどね』
先生が溺愛する飼い猫について説明しながら手渡してくれたこと。今でもよく覚えている。
俺が卒業してからもきっとその前からも、その贈り物は、先生からたくさんの生徒たちにずっと渡され続けてきたんだろう。
でも三年前のあのとき、純君にはそれを渡せなかった。
事件のあと、先生はクラス中すべての生徒の自宅まで事件を起こしたことへの謝罪の言葉とともに、受験応援のためのその御守りを手渡しに訪ねたらしい。
でも純君の母親は顔も見たくないと、何度も先生のことを追い返したそうだ。
「あのとき、正ちゃん直接何回も連絡くれたでしょ。でも、あんな大ごとになって、親も勝手にすごい怒ってたし、申し訳なさと気まずさで、何を話せばいいかわかんなくて」
純君自身も、先生からの連絡を無視していた理由を気恥かしそうに話してくれた。
『約束したんだ』
純君とお墓の前で再会する前、俺と先生は駅前の雑貨屋で、布とフェルトと裁縫道具を購入した。
「正直模試の判定微妙で落ち込んでたけど、なんかやる気でたわ」
太った猫のイラストを指でつつきながら話す純君に、俺は尋ねてみた。
「進路は決まってるの?」
純君はそのどこか不器用な御守りをぶらぶらと揺らしながら、あどけない笑顔で答えてくれた。
「一応教育学部受けようと思ってます。
先生みたいに本気で楽しそうな姿見せられる仕事他に見たことないから」
その言葉を聞いた先生は、少し恥ずかしそうに、そして何よりも嬉しそうに頷いていた。
「純なら間違いなくいい教師になれるよ。私が保証する」
「じゃあ先生、そろそろ俺行くね」
帰る間際、純君はスクーターに跨りながら言った。
エンジンをかけて、一度別れを告げてからもなかなかその場を離れようとしない。
「大学、合格したらまた報告しに来るから。今度はひろと一緒に。そん時は、ちゃんとお墓ん中で待っててよ」
振り絞るような笑顔を見せて、じゃあね、と純君はアクセルをいれた。
そんな純君の背中越しに、先生は最後に大きな声で言葉をかけた。
「教え子を投げ飛ばしたら駄目だぞ、よほどの悪がき以外は」
振り返って純君は最後にもう一度笑った。
「わかった!気をつける!」
ゆっくり走りながら、何度か名残惜しそうに振り返るその背中が見えなくなるまで、先生はずっと手を振っていた。
――「俺が先生の教え子だって気づいてたんだ」
「当たり前だろ。教師の洞察力をなめちゃいけないよ。それに拓実のことを忘れるわけないだろう」
ようやく笑顔になった先生は自然と俺の本名を呼んだ。その懐かしい響きが嬉しい反面恥ずかしかった。
「じゃあ私たちも、そろそろ帰ろうか」
そう言って、先生は帰りの切符を買いに駅の券売機の方に歩いていった。
あのとき、先生は、
何度も考えてきたこと。
まだ自分の中で消化できてないその疑問は、あの日からずっと、頭の中に残っている。
先生は、本当に死のうと思っていたの?
電車内は比較的空いていたおかげで、俺と先生は並んで座ることができた。
正面の座席には、一つ前の駅から乗ってきた、母親とその隣に小学生ぐらいの兄弟が座っている。
映画でも見てきた帰りなのか、お兄ちゃんが隣の弟に興奮した様子でクライマックスのシーンについて語っている。弟の方はよほど疲れたのか、話の合間に小さな指で強めに瞼をこすっている。
ほのぼのとした光景に、見ているこっちまで和やかな気持ちになる。
線路と車両が作り出す、静かで均等なリズム音。
目をとじると、そのまま眠ってしまいそうになる。
ちょっと歩いたぐらいで疲れるなんて、日頃運動してなかった証拠かも。
思わずこぼれそうになるあくびを堪えている途中で、正面の窓ガラスに映る先生と目が合った。
俺の眠たそうな表情が可笑しかったのか、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「疲れただろう。眠ってていいよ。着いたらちゃんと起こすから」
「ああ、まだ大丈夫。俺、ちょっとでも仮眠とると夜寝れなくなるから」
そんな子供じみた言い訳をしてから、一旦座ったまま背筋をのばした。
心地良い電車の動きに揺られながら、俺の頭には色んな考えが浮かんでくる。
あのとき、先生は本当は何を思って、あの場所にいたんだろうか?
自分の正体を打ち明けないままでいいんだろうか?
そして、なるべく考えないようにしていても、時折かなの顔が浮かんでしまう。
俺からちゃんと謝れば、許してくれるかな?
そんなことを考えているうちに、気がつくと目的の駅まであと半分のところまで近づいていた。
次の到着駅を告げるアナウンスが流れてくる。そのアナウンスが終わった時、隣から静かな先生の声が聞こえてきた。
「実はね、全部思い出したんだ。あの日のこと」
それは、どこか後ろめたさを含んだ言い方だった。
その後ろめたさの理由を不思議に感じながら、突然の先生に不釣合いな真剣な言葉に、気がつくと眠気は消えていた。
俺は表情が強張るのを悟られないように、両手で一度顔をさすって、それから静かに続きを待った。
「さっき、純に御守りを渡したときにね。なんでか突然思い出した。漠然とした記憶だけど、三年前のクリスマスのこと」
三年前。その響きに思わず胸が痛くなる。
すべての記憶がもどること。それは今日ずっと予感していたことだった。
正面を見据えたままの視線は、当時を思い出しているかのように、まっすぐと動かない。
黙ってその横顔を見ていると、先生はこちらに顔を向けて、優しく微笑みかけてくれた。
あのとき先生の心に、本当は何があったのか。真実を先生の口から確かめたい、という気持ちはずっと強く心の中にあった。
どうしてもそれができなかったのは、すべてを知る勇気がなかったのと、そのことで先生を傷つけてしまうかもしれない、そう思ったから。
「信じてくれなくてもいいから、拓実には話しておきたいんだ」
こちらを見る、先生の強い眼差しに、俺は視線を足元に逸らしたまま、頷いた。
「二十五日は終業式で、正式に学校を辞める挨拶をするために行ったんだ。みんなには内緒にしてたけど、当時患ってた病気のせいで幾分痩せてしまったから、体のことを心配してくれたり、私なんかのために辞めないでと泣いてくれる生徒もいた。嬉しかったよ。でも、私の中ではもう意志は固まっていたから」
先生はゆっくりと言葉を繋いだ。
それは、こちらの相槌に合わせるようでもあり、自分自身おぼろげな記憶のパズルを繋ぎ合わせているかのようでもあった。
「そのあとは、久しぶりに車に乗って一人でドライブをした。あの日の時間の感覚がまだ曖昧でね、どこに行ったとかは正確には覚えてないけど、気づいたら辺りはすっかり暗くなっていた。
そこで初めて、今日がクリスマスだと思い出したんだ。なっちゃんに電話したのはそのとき。若いときいつも二人で行ってた『みどり』って居酒屋の前通ったら、懐かしくなって。今日は誘っても断られると思ったけど、ただ声が聞きたくてね、また二人で飲もうって言うつもりだったんだ。そのあと駅前でクリスマスケーキを買ってそれから、」
朝に行った団地の屋上が頭に浮かぶ。
現場には遺書はなく、箱に入ったままのクリスマスケーキだけが残されていたそうだ。
知らず知らず、鼓動が早くなる。
「急に夜景が見たくなったんだ。それで、朝のあの団地に行った。
あそこは昔から好きな場所で、若い頃から何かあると度々行っては、あの屋上のへりに座って景色を眺める。夜の街を見るのが、昔から大好きでね。そうしてると、その間はどんな嫌なことも忘れられる」
「それで、あの日も?」
その当時の警察の見解は、精神衰弱による自殺では、ということだった。
当時の先生のおかれた精神的状況と、わざわざフェンスを乗り越えている、という事実からそう判断したんだろう。
俺は、ずっとそのことを受け入れられなかった。
先生はそんなことするような人じゃない。頭ではそう信じながらも、ずっと不安だった。
先生しか知らない、本当の理由。
信じてきたことを裏切られるのが怖くて、俺はそれを知ることを、今日一日ずっと避けていたのかもしれない。
先を促す自分の声が震えている。それに気づいても、気にしてる余裕もなかった。
「あの場所には前からフェンスはあったけど、今より高さも低かったから簡単に乗り越えられたんだ。それでも危険だから、妻にもあの場所のことは言ったことはなかった。こんなおじさんが言うのも変だが、自分だけの大切な秘密基地みたいな場所だったんだ。
あの日もあそこに行って街の灯りと星空を眺めていた。
それからもしばらくそのまま座ってて、ふと気がついたら随分時間が経っていた。早く帰らなくちゃ、クリスマスが終わっちゃう。焦って、立ち上がろうとしたときに、」
そこで、先生は一旦言葉をとめた。
『我ながら、本当に情けないけど』
そう続けた先生の横顔を見た瞬間、それまでずっと張りつめていたもの、全身を覆っていた緊張が一瞬のうちにほどけて消えた。
緩んだ表情に、思わず涙が一筋こぼれる。
やっぱり先生は、
「足がもつれてしまって前に倒れたんだ。長いこと座ってたから。本当に、世界一間抜けな死に方だ」
「えっ、嘘でしょ?じゃあ、夏樹さんの言ったとおり」
「ああ、あそこは私にとって大切な場所だから。いくら情けなくて弱い人間でも、そんな場所で死のうなんてことは、思わない」
心の中に長い間溜まっていたわだかまりが、すっと晴れていく。
先生は、どんなことがあったって、大切な人を裏切るようなことはしない。そんなこと、最初からわかっていたはずだ。
確かに、その発言が真実かどうかなんて先生にしかわからない。
自分が治らない病気と言われ、眠れない日もあるほど悩んでいた人間なら、どんなに強くても、一瞬の気の緩みに惑わされることもあるかもしれない。
それでも俺は、何があっても先生のことを信じる。そう中学の時に決めたんだ。
「いくらなんでも、間抜け過ぎるでしょ」
零れた涙をこっそり拭って、俺はもう一度笑顔をつくる。
「もう笑うしかないな」
と先生もとびきりの苦笑いを浮かべながら、頭を掻いた。
「じゃあ、ちゃんと家族の人にも説明しなくちゃ」
「そうだね」
俺の言葉に、先生の顔から一瞬笑顔が消えて口ごもった。
不思議に思いながら、黙って続きの言葉を待った。
「本当のことを言うとね、不安なんだ。そんなことするはずない、って言ってみたけど、本当にそうだったのか、って。最後の日の記憶は曖昧な部分が多くて、もしかしたら生き返るときに、都合のいいように記憶を塗り替えたんじゃないか、そう考えると、たまらなく怖くなる。
それにね、あの時期に一度、死ねば楽になるのかなって、本気で考えてしまったことがあるんだ。当時体調もあまりよくなかったから、眠れずに朝まで起きていたときに、そんなことを考えてしまった」
先生の膝の上に置かれた拳が小さく震えている。
自分に対する怒りと、深い後悔。きっとそれが家族に会うことを躊躇わせる理由。
たとえ一瞬でも、すべてを忘れて死を望んだこと。
きっと先生は、まだ自分自身を許せていないのかもしれない。
二人の間に流れる沈黙の時間。
俺は自分の気持ちに身を任して、思っていたことを素直に口にした。
「でもさ、死にたいと思うことが罪なら、きっと世界中の人間が犯罪者だと思う。生きてれば、そんなこと誰でも思うことじゃないかな?その過ちを償うためにも、生きていかなきゃいけないんだよ。
それに、もし足を滑らせたのが嘘の記憶だったとしても、俺はその嘘を真実として伝えるべきだとも思う。優しさから生まれる嘘は罪とは言わない。後悔や自分を責めるのは、天国に行ってからゆっくりすればいいんだし」
俺の口からこんなこと言うのは、生意気なことかもしれない。
でも、口に出さずにはいられなかった。
少しの間をおいて、隣から、「私でも天国に行けるのかな?」と尋ねる声がきこえてきた。
「さあ、どうだろう」と首を傾げる俺に、先生は「そんなに甘くないか」と呟いて、それから二人で顔を見合わせて笑った。
先生の顔は、やっぱり涙混じりの柔らかい笑顔だった。
「あと十五分ぐらいか。プレゼント、若い子用だったら俺が選んであげるよ」
向かいの車窓に、右の耳たぶを撫でる自分の姿が映っていた。
それを先生が優しい眼差しで見つめている。
「長話に付き合ってくれて、ありがとう。これからまた歩くんだ、時間まで眠ってなさい」
その言葉に誘われるように、大きなあくびがでる。
今度は先生の言葉に甘えることにしよう。
「じゃあ、ちょっと寝るね。着いたら起こして」
実は一つ、先生の言葉を聞いてからずっと引っかかっていたことがある。
それは、きっと単なる思い過ごしに過ぎないような小さな疑問。
さっき先生は二丁目団地に行った理由を、景色を眺めたかったからと話していた。でも、なぜだかその言葉には嘘が含まれているように、あのとき直感的に感じた。
それは理由も根拠もないこと。それなのに、小さなひっかかりがとれないのは、自分が、『先生があそこにいた本当の理由』を知っているような気がしたから。あの日のことで、自分は何か大切なことを忘れてる気がする。
そのことを改めて先生に確認してみようかと考えたのだけど、
静かに鼻歌を歌う姿を見て、俺は、ただの考えすぎだな、とそっと言葉を飲み込んだ。
貴重なお時間を割いて、本作をお読み頂きありがとうございます。
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今後の励みとさせていただきます。