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君に捧げるいつかの鼻歌  作者: 喜屋武朝
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2章 スターティング・オーバー

【永山 拓実】


 「コーヒー切らしてたから、これでいい?」

  氷水の入った二つのグラスを小さな丸テーブルに置いて、クッションの上に腰をおろした。

 一つは自分の分で、もう一つは正面で正座している、正ちゃん先生の分。

 「ごちそうさまでした。こんな美味しい手料理まで作ってもらって、これ以上なんて礼を言ったらいいか」

 目の前にある空っぽのお皿。それに両手を合わせた先生の輝いた顔は、誕生ケーキを平らげた少年みたいだ。

 「このチャーハン最高だよ。お米もパラパラ、色も完璧。本格的なお店で食べるよりずっと美味しい。水まで最高に美味しく感じる」

 「大げさでしょ。それに普通朝からチャーハンだされたら困惑するけど」

 「大好物だからね」 

 そう言って喉を鳴らしながら水を流し込むと、先生はもう一度深く頭をさげた。

 先生が目を覚ましてからまだ一時間も経ってないのに、お礼を言われたのはこれで何回目だろう。

 よしっ、と腕まくりをして、先生は食器とグラスを持って立ち上がった。

 「洗い物ぐらいはさせてもらうよ。かずはテレビでも見て、くつろいでて」

 キッチンに入る後ろ姿。

 俺の記憶の中のものよりうんと小さく感じるその背中を、ただぼんやりと眺めていた。

 『朝方、飲んだ帰りに近くの団地の前を通ったら酔いつぶれたおじさんを見かけてさ。

 家も近かったから、仕方なくおぶって連れてきたんだ』

 目を覚ました先生に事情を尋ねられたときにそう説明した。ついでに自分の名前を『和人』という別人の名前で偽ってしまったのは、ただ久々の再会が照れくさかったから。

 「和人君か、じゃあかずって呼ばせてもらう」

 すぐに言い易い呼び名を決めるのが先生らしくて、聞いたとき思わず頬が緩んだ。

 けど、それは同時に俺のことを忘れているということも意味していて、複雑な気持ちにもなる。

 仕方のないことなのに。

 先生に最後にあってからもう十年も経っている。それに、先生はさっきまで。

 右手を開いてぎゅっととじる。

 眠っている先生をおぶってこのアパートまで連れてきた時、背中にも、手のひらにも、しっかりと温もりを感じた。

 まだ信じられない気持ちもある。でも、今更疑うことなんてできない。

 今日一日、自分にできること。言い聞かせるように、もう一度頭の中で繰り返した。



 先生と再会したのは、まだ夜も明けきらない朝方4時頃だった。

 その数十分前まで、俺は駅前の居酒屋『みどり』のテーブル席に、安藤先輩と二人で座っていた。

 会計を済ませた後で、いつの間にか頬杖をついて眠ってしまっていたらしい。店員の若い男の子が申し訳なさそうに、閉店です、と声をかけてきた。

 すいません、と頭を下げ、向かいでジョッキに手をかけたまま爆睡する先輩に、閉店らしいですよ、と声をかけ肩をさすった。

 おしぼりを枕代わりにしたカボチャのような大頭が大きく揺れる。

 「揺らすな、揺らすな。今ので完全に酔いつぶれた。家まで送って」

 「先輩がつぶれたらそんな流暢に話せませんけど」

 「相変わらず冷たい奴だな。俺が恩人であること忘れたのか?貸しあんのよ、お前には」

 「酒の席であんま恩着せがましいこと言わない方がいいですよ。せっかく売れた恩の価値が下がります」

 「・・・言うようになったな、お前。いいんだぞ?その辺で野垂れ死んでやっても。 これからクリスマスが来る度に、お前は俺を見殺しにした今日のことを思い出し、恋人たちが街中で愛を囁き合う中、一人俺の遺影に弔いの経を唱えるわけだ。怖い話だね、ほんと。大体、ほらいつだっけ。そう7年前だ!あのときもな俺のおかげで、」

 この世界で、酔っ払ってくだを巻き始めた時の先輩ほど面倒なものはない。

 調子に乗って飲ませすぎたことを猛省しながら、言葉を遮るように頷いた。

 「わかりましたよ。おぶれないんで肩貸すぐらいなら」

 「それでいいんだよ。おごってやるんだから。えーっと、今日はお前の失恋祝いだっけ?」

 「それ、全然冗談になってないんですけど」

 安藤先輩は、にこにこと悪戯っ子のように笑う。

 この話を掘り下げられるとまた長くなりそうで、ごちそうさまです、と今日の会計をご馳走してくれた先輩に頭を下げ立ち上がると店をでた。

 

  『赤鼻つけた野良犬レノン

   聖夜のヒーローにあこがれて

   トナカイたちとそりの練習  

   優しくうなずくサンタのおじさん』

 

 駅のガード下を通った際、先輩は突然上機嫌に歌い始めた。

 「よく歌詞覚えてますね」

 突然始まった懐かしいメロディに思わず笑みがこぼれる。

 あれは何年前になるだろうか。いつかの、今日みたいに酔っ払った帰り道。ここで弾き語りをしていた若者から半ば強引にギターを借りて、先輩の伴奏に合わせて唄った日があった。

 『クリスマスソング唄おう!』

 昭和のフォークソングを二曲ほど唄ったあと、先輩は俺にギターを差し出しながら言った。

 当時すでにお酒の愉しさと、先輩のしつこさを身に染みて知ってしまっていた俺は、中学時代の思い出の唄を繰り返し、最終的にギターの持ち主である若者も交えて合唱していた。

 「まあ俺は音楽を愛し愛されてるからな。一度聴いたら忘れないのよ。それにしてもお互いひどい歌声だったな。終わり方もひどかったし」

 それぞれ別のバンドでギターを担当している二人の最初で最後のセッションは、熱の入りすぎた先輩がTシャツとジーンズを脱ぎ始めたのを機に、年末警戒強化中のおまわりさんに見つかり散り散りに解散する形で幕を閉じた。 

「まさかユニット結成した夜にいきなり方向性の違いが判明するとは思いませんでした」

 お互い、もういい大人。先輩に至ってはたしか来年三十路だから、もうあんな真似絶対できないけど、今考えるとあれはあれで楽しかったな。

 「お前ほんとに音楽諦めたの?」

 先輩が真顔を頭上に向けたままつぶやいたのは、しばらく思い出に浸りながら川沿いの土手を歩いている時だった。

 「もうギターすらしばらく触ってないですね。指つりますよ」

 指でコードの形を作りながら咄嗟に冗談を口にしたのは、空気が少しでも重たくならないようにするための本能的な反応だったのかもしれない。

 ありきたりな夢が、ありきたりに叶わず挫折した。そんなこの世界中にありふれた出来事。今は、今更そんなことを語って弱音を吐くよりも、青春時代みたいな久しぶりの馬鹿な時間を楽しんでいたい。

 しばらくしてこちらに向き直った先輩の顔は、いつもどおりの赤ら顔の笑顔に戻っていた。

 「そっか、まあ俺はお前の曲、どれも嫌いじゃなかったけど。またいつかセッションしようや」

 「考えときます」苦笑交じりの返事を聞いて、先輩は満足そうに頷いて、おやすみ、と地面に横になった。

 「うそ勘弁してください」

 大きくため息をついてから仕方なくその小太りの体を背負って、先輩の住むアパートまで歩いた。

 

 「そうだ、これやるよ」

 アパートに到着すると、玄関先で靴を枕代わりにしながら、安藤先輩はポケットからしわくちゃになった紙を手渡してきた。

 受け取ってみて、思わず苦笑する。

 『チケット・トゥ・ライド~同情券~』

 それは馴染みのチケットだった。

 「搭乗」と「同情」をかけた親父ギャグの下に、髭面の店長の似顔絵と「アルコール1杯無料!」の文字が書かれた割引チケット。

 少なくとも、この街に住む酒飲みの男連中の間で、それを知らないものはいない。

 『チケットを渡されたものは、必ず渡してくれた相手を次の酒の席に誘った上に飲み代を全額おごらなければならない』

 そんな少々厄介なしきたり付きの、おまけになぜか男同士で来たお客にだけ配られるサービス券。

 噂では、生涯独身の店長(御年七十才)から同じもてない境遇の男子へ愛のこもった贈り物。そう言われているけど、みんな勝手に言ってるだけで真相はわかっていない。

 ただ地元の仲間内では友情と絆の証として、その紙切れは昔から愛用されてきた。

 「次飲むとき、お前それ忘れんなよ。大事な絆の証」

 「それならもっと大事に扱ってくださいよ。破けてんじゃないすか」

 返事の代わりに、先輩は『メリークリスマス!』、『ごちそうさま』と続けて大声をあげ、静かに目をとじた。

 すでに大いびきの先輩に俺も小さく同じ台詞を返し、部屋を後にした。

 

 しわくちゃの絆の証を眺めながら歩いていると、公園そばの団地にたどり着いていた。

 遠回りしてまでそこを通ろうと思ったのは、まっすぐ部屋に帰る気になれなかったという理由だけじゃない。

 単純に酔い覚ましの意味もあるけれど、きっかけはさっき先輩が口ずさんだ唄。

 あの唄を聴いたとき、突然思い出したことがある。お酒が入っていたとはいえ、今日という大事な日に、どうして今まで忘れていたのかも不思議なほど大切な思い出。そして、大切な人のこと。

 最初に思い出したのは、中学時代の校舎の廊下だった。

 それがいつのことなのか正確な日付は覚えていないけれど、そこでの会話の内容と、そこにでてきた人物の顔はすぐに鮮明に蘇るほどはっきり記憶に焼きついていた。

 だから、『あの日』から一年に一度、必ず訪れていたあの団地で。

 駐輪場脇の花壇のそばで倒れている人影を見つけた時、それが誰なのかを一目で判断できた。

 息を呑むことも忘れ駆け寄り、震える手で肩をゆする。

 寝息をたてていることに気付いて、妙な表現だけれど、安心した。

 常識的には、ありえないことだというのはわかっていた。

 ただ、一度考え始めたら色々な疑問が溢れて止まらなくなりそうで、起こさないようにゆっくりと背中に担ぐと、すぐにこの部屋まで戻ってきた。



 「もう一杯飲む?」

 「ああ、結構だよ。ありがとう。これを飲んだら失礼する。家族も心配してるだろうし」

 「そっか、もういいの?体調は」

 「頭痛も治まったし、平気だよ。しかしこの年で酔いつぶれるとは。弱いくせにたまに呑むとこれだ。昨日のこと何も覚えてないなんて、教師として失格だよ」

 帰ろうとする先生を引き止めて、二人で紅茶を飲んでいた。

 先生は自分が中学校の教師であることも、家族がいることもちゃんと覚えていた。でもまだ思い出していない。『昨日』の夜に何があったのかを。

 「さっきから一つ気になっていることがあるんだけれど、かずは彼女いるの?」

 「んっ、なんで?」

 どうして唐突にそんな質問をしたのか不思議に思っていると、先生は自分が尻に敷いていたクッションを顔の前に広げてみせた。

 ああ、そういうことか。

 なぜかとても嬉しそうな顔をしている理由がわかって、俺も思わず同じ顔をしてしまう。

 先生の持っているクッションは女の子に人気のクマのキャラクターのもので、ちょうど俺が座っているリボンのついたクマと二つで一セットになっている。

 たしかに、もしここが男一人で暮らしている部屋だったら、あまり趣味がいいとは言えない。

 答えるかわりに、テーブルの上の三角カレンダーを手にとって、昨日と今日の日付の所を指でさした。

 『12/24 みづき宅泊まり

  12/25 みづき エリ 食事会』

 「エリとみづきって、彼女の友達の名前。ここ彼女の部屋で、一応半同棲みたいなことしてるんだけど、こないだ喧嘩して。このカレンダーは俺へのあてつけのメッセージ。クリスマスは一人で過ごせって」

 とるに足らない、小さな揉め事。

 そこを強調したのは、先生に変な気を遣われたくなかったからだ。

 きっと先生なら、俺が悩みや相談事を打ち明けたら真剣に聞いてくれる。

 でも、今はそんなことなんかで余計な心配をかけさせたくない。

 「そうか。こんなこと言うとお節介かもしれないけど、謝って仲直りできるのも愛しあっている証拠だからね。まあ、私もよく妻を怒らせたから偉そうに言えないけど。元通りになったら前よりも大切にしてあげなさい」

 「了解です」

 些細な嘘がばれなかったことに、ほっと胸を撫で下ろす。

 それ以上話題が続かないように、リモコンを手にとるとテレビの電源を入れた。

 画面にはちょうど朝の情報番組が流れていて、女子アナたちがテーブルに並んだ有名店のスイーツを食べ比べて、愉しそうにはしゃいでいる。

 「そういえば、ケーキあったんだ。食べる?」

 遠慮する先生の断りを無視し、冷蔵庫に入っていた小さなケーキの箱をとり出す。

 しきりに申し訳ない、と言いながらも嬉しそうな顔の先生の前に箱を置く。そして中身の一ピースのショートケーキをお皿に移しているときだった。

 先生の記憶が戻ったのは。


 最初にカップが倒れる音がした。

 見ると、先生は立ち上がって、呆然と手にした三角カレンダーを眺めていた。

 小さく何かを囁いたのが、震えた唇の動きでわかった。

 「どうしたの?」

 先生の身に何が起きたのか、わかっていながら、そんな言葉しかでてこない。

 いつかは思いだしてしまう。想定していたことなのに、どうしていいのか分からず、気付いたら俺も一緒に立ち上がっていた。

 「私が倒れていたのは二丁目の団地だったね?」

 「うん」

 震えを抑えた落ち着いた声で、先生はもう一度尋ねてきた。

 「そこに、案内してもらえないかな?」

 真剣な視線に頷いて、すぐに玄関に向かう。

 急いで靴を履くと、そのまま部屋をでた。



 月見山公園という広い敷地の公園。そのすぐそばにある二丁目団地には、アパートをでてから十五分ほどで到着した。

 「ここだよ。時間は、朝の五時ちょっと前だったかな」

 朝先生を見つけた花壇の前に、二人でしゃがみこむ。

 ありがとう、と一言呟くと、先生は立ち上がって正面の建物に向き直った。

 俺が生まれる、ずっと前からあるという集合団地。

 外壁にわずかなひび割れは見えても、築何十年というわりにはまだ綺麗に見える。

 しばらく顔を上に向けたまま動かなかった先生は、一度小さく頷くような仕草をして、そのまま屋上へと階段を登っていった。

ここに来るまでと同じ様に、何にも言葉をかけてあげられないまま、俺も先生の後に続いた。


 屋上への鍵がかかっていなかったのは、きっと今日が二十五日だから。

 『あの日』以来、ここには鍵がついて入れなくなった、と友人から聞いたことがある。 この日だけ開放されているのはきっと、今日ここに訪れる人のための管理人の気遣いだろう。

 高台にあるこの街で、周りは一軒家が多いから、必然的にここが一番高い場所になる。

 そのせいか七階だてとはいえ屋上まで来ると、下にいた時よりも空気が一層冷たく感じられる。

 先生は、周りを見渡すこともせず、まっすぐにフェンスの方へ歩みを進めた。 

 高さ三メートルほどの金網のフェンス。

 そのてっぺんにある有刺鉄線も、それまではなかったものらしい。

 フェンスの向こうには、一メートルほどのそれなりに広いスペースのへりがつきでている。

 何度かフェンスのゆれる小さな金属音が、乾いた冬の空に響いた。

 先生は網目に両手をかけ、下をむいてうな垂れるようによりかかっていた。

 「あのとき、きっと私は」

 俺は背中を見つめたまま、近づくことも出来ず、立ち尽くしていた。

 しばらくしてこちらに振り向いた先生は、大きく息を吸うと、かすれた声で話し始めた。

 「三年前、私は多分こんなこと信じてもらえないけど、」

 できるなら、聞きたくなかったこと。

 ただ、今さら耳を塞いでやり過ごすなんて、できない。

 先生が噤んだ言葉の続きを想像して勝手に泣き出しそうな自分を、手のひらを握って必死に堪えた。

 「どうしたの?」

 精一杯とぼけた表情を作っても、少しも顔を上げることが出来ず、ただ先生の足元だけを見つめていた。

 缶コーヒーと、青いパッケージの煙草の箱。

 先生が飛び降りた、その場所に置かれたお供え物。

 今日が先生の命日だということを、俺は完全に忘れることなんてできなかった。

 続きの言葉を待ったまま、時間だけが過ぎていく。

 どれくらいそのままだっただろう、ふと気がつくと背後に人の気配を感じた。

 「正一?」

 白髪の混じった紳士風の男性だった。

 手に持っていたと思われる花束が、落ちた弾みで革靴の上にのっている。

 この人は、たしか。

 「なっちゃん?」

 なっちゃんと呼ばれたその男性の大きく開いた目が、徐々に細まって柔らかな呆れ顔に変わる。

「こんなとこで何やってるんだ、お前は」

 感動の再会に相応しくないため息混じりの言葉。それに先生が返したのは、昔から変わらない困り顔半分の照れ笑いだった。


 

 正ちゃん先生が死んだ。

 三年前、夕勤のアルバイトから帰宅してベッドに眠りにつく直前、中学時代の友人から電話がかかってきた。

 『病気で余命わずかだった。教え子との間に起きたトラブルも重なって精神的に参っていた。自殺する直前、先生の友人のもとに、数年ぶりに先生からの不在着信が入っていた。遺書はなく、おそらくその友人がでることのできなかった電話が、先生の残したかった最後の言葉だったのだろう』

 箇条書きのようにしか耳に入らない通話を終えてから、何も考えずにしばらく天井を見つめていた。

 ずっと起きていたのか、途中で眠ってしまったのかもあまり覚えていない。

 ただ終わり際に電話口から聞こえた友人の言葉だけが耳にはりついて離れなかった。

 『自殺なんて、結局あの人も何考えてるかわかんない人だったもんな』

 気がつくと、また夜になっていて、携帯と音楽プレイヤーだけ持って外にでた。

 近くを散歩して、もう一度アパートに戻ってきた時、かなが台所で夕飯を作ってくれていた。

 笑顔で、おかえり、と声をかけてくれた彼女の顔を見て、俺も明るい口調で、ただいま、と返事をして、気持ちを切り替えるために風呂場に向かった。

 最後に先生が伝えたかったのは一体どんな言葉だったんだろう。

 シャワーを浴びて、先生がくれたたくさんの言葉を思い返しながら、ようやく思いっきり泣くことができた。



 団地から歩いて三分ほどの距離にある月見山公園は、昼過ぎにもなると家族連れや遊び盛りの子供たちでにぎわっていた。

 時計の見える芝生に座って、三年前のことを思い返していた。

 膝のうえには、『トニー』というハート型の首輪がついた白い大型犬が、気持ちよさそうにあごを乗せている。

 「こっちの状況も知らずに、暢気なもんだなお前は」

 ついさっき友達になった、時間潰しの相棒のおでこを撫でながら、少し離れたベンチに座る、先生と先生の親友なっちゃん、こと夏樹さんに視線を向けた。

 夏樹さんのことは、すぐに思い出すことができた。

 葬儀の日、先生の親友として弔辞をよんだ静穏な姿は、しっかりと記憶に焼きついていた。

 そんな夏樹さんは、当然最初はこの状況を完全には受け入れられない様子だったけど、今では、すっかり心を打ち解けた幼馴染と話すような自然な笑顔を浮かべている。

 和やかな雰囲気と、時折聞こえる笑い声に、ほっと安心する。

 団地での再会の後、俺たちは落ち着いて話ができるように、この『月見山公園』に移動してきた。 

 これ以上付き合わせるわけにはいかない、と話す先生に、『こんな展開に巻き込まれて、このまま帰れるはずない』と俺も無理矢理一緒に付いて来た。

 とはいえ普通なら、自分は生き返りました、なんて言う人とは関わりたくないはずだから、無理のある言い訳だったかな。

 『その辺にいるから、気にせずゆっくり話してて』

 そう伝えてから一時間ほど経ったけれど、その間も先生はずっとこちらを気にかけてくれて、時折手を振ってくる。

 「遊んでもらっちゃってすいません」

 声に振り返ると、白いひげを生やしたおじいさんが立っていた。

 きっとトニーの飼い主だろう。しわの深い、穏やかな表情をした人だ。

 「いえ、僕も暇だったんで逆に遊んでもらって助かってます。大人しい子ですね」

 「この子が人になつくのは珍しいんですよ。

 それにしても親子中が良くて羨ましい。きっとお父さんも喜んでますよ。ただそばにいてあげるだけで、親は何より嬉しいものです」

 おじいさんの視線は、ベンチの方を向いていた。

 否定する気にもなれずただ笑っていると、おじいさんは遠くに住む息子さんの愚痴を嬉しそうに話始めた。

 俺がうんと小さいころ、離婚して家をでた父親は今どこで何をしているのだろうか。

 顔も覚えてないし、今更逢いたいとも思わないけれど、先生の顔を見ているとついそんなことを考えてしまう。

 「おーい、かず」

 顔を上げると、先生が立ち上がって手招きしていた。

 おじいさんとトニーにそれぞれ別れを告げると、ベンチの方に向かった。


 「長いこと待たせてしまって、悪かった。それで、さっき私が言ったことだけど、」

 下を向きながら、人差し指と親指で耳の先を触る。

 いかにも嘘をつくのが苦手な先生らしい、わかりやすい仕草だ。

 「さっきのは嘘でした、とか言うならやめてよ。俺だって最初は、頭の変な人かと思ったけど、あの時の二人の反応見たら全くの作り話なんて思えない」

 俺は先生が話し始める前に、言葉を遮って一息に言った。

 「不思議だけど、何でか嘘じゃない気がするんだ。

 それに、どっきりだとしても、それはそれで付き合うの面白そうだから」

 きっと俺を巻き込んだのが申し訳なくて、嘘をついた、で済ませようとしたんだろう。

 それまで二人の会話を黙って見守っていた夏樹さんと目が合うと、うんうんと頷いてくれた。

 「私なんか心霊の類が大の苦手だから、そういう話信じたことなかったけど、正一だと不思議とありえる気になるんだよ。それに全然怖くない」

 「それ、褒められてる?」

 先生は照れたように、夏樹さんに笑い返す。

 「塩投げつけられるよりいいだろ。まあ、とはいえ寿命は縮んだろうから、もし私が早死にしたら、お前のこと恨むぞ」

 夏樹さんの優しい眼差しは、告別式で先生の遺影に語りかけたときと同じものだった。

 

 『酒が弱いくせに、正一は昔から飲み屋に誘うと毎回付き合ってくれたね。

 まだ恋人もいない20代のころ、いつも仕事の愚痴や好きなアイドルの話題ばかりして盛り上がってたのが、馬鹿らしくも、私にとって何より大切な思い出です。

 最後に二人で飲んだとき珍しく、次は私から誘う、って言ってくれたのに、約束果たせなかったな。最後にお前の言葉聞いてやれなくてごめん。

 あの時、正一は電話で私に何を伝えたかったのかな?お前のことだからきっと、悩みや泣き言を誰にも言わず抱え込んでたんだろ?

 もし時間が戻せたらまた二人、いつもの飲み屋で語り合いたい』

 

 あの時、頬を伝う涙からは、親友というよりも家族に語りかけるような温かさが伝わってきた。

 自分を残しこの世を去った旧友への少しの怒りと、その遥か何倍もの労いと感謝の言葉。

 先生は、にっこりと笑って口を開いた。

「ほんとに早死にされたらあの世で会うとき気まずいから、長生きしてよ。二人とも信じてくれてありがとう」

 それは、あの日祭壇に飾られたぎこちない微笑みと違う、晴れやかな笑顔だった。


 「さて、私はそろそろ失礼するよ。正一は、どうするんだ?一日しかないんだろう?」

 先生と会ったショックで痛めた腰をさすりながら、夏樹さんはゆっくりとベンチから立ち上がった。

 彼の口からでた、一日、という限られた時間。

 それが、この世にいられるタイムリミット、らしい。

 『誰が何のために生き返らしてくれたのかは分からないけれど、いつまでかは、分かるんだ。

 上手く表現できないけど、頭の中に砂時計があって、その砂が少しずつ減っていく感覚、っていうのかな』

 ここに来る途中、先生は苦笑いを浮かべながらそう話していた。

 たったの一日。

 奇跡の中の奇跡のおかげで生き返らせてもらった人間にとって、それは妥当な時間なんだろうか?

 どうせなら、もうちょっとくれてもいいんじゃないか、とも思うけど、きっと贅沢すぎると怒られるだろうな。

「ちゃんと家に帰ってあげなさい。美里さんも、あっこちゃんも、圭ちゃんも、お前に逢いたがってる」

 夏樹さんの続けたその言葉がどれほどの意味を持つのか。言葉なく頷いた先生の表情を、俺は伺うことができなかった。

 どうして生き返ったのか。その他に、先生には思い出せないことがある。

 『記憶にある最後の場所が、あの団地だということは覚えてる。けどね、それ以外何も思い出せないんだ』

 どうしてあの場所に行き、あのとき何を考えていたのか。

 当時の警察の見解だった、自ら命をたったという話。それを否定する言葉を聞けるのをおれも、きっと夏樹さんも望んでいた。

 でも、あの日の明確な記憶がない先生の口から、それを聞けることは叶わなかった。

 「そうだ、お前の退職祝い。まだしてなかったよな」

 そう言って夏樹さんはポケットから財布を取り出すと、紙幣を何枚か抜き取って先生の手に握らせた。

 「クリスマスに手ぶらじゃ帰りづらいだろ?それでプレゼントでも買って帰りな」

 あの時、たとえどんな理由があったにしろ、家族を悲しませたことには変わりない。

 先生にとって、そんな家族と顔をあわせるのは嬉しいだけじゃなく、きっと辛いことでもあるだろう。

 ただ、それでもしっかり会うべきだ。

 力強く先生の手を握った夏樹さんの手には、そんな想いが込められてるように見えた。

 「あのとき、お前の電話にでてやれなかったから、そのお詫びさせてくれ。やっぱり思い出せないんだろ?」 

 先生は申し訳なそうに首を振った。

 先生が亡くなったとされる時間は夜の二十三時。その二時間ほど前、夏樹さんの携帯に先生から着信があったらしい。ちょうどその時お風呂に入っていて、夏樹さんは電話に出ることができなかった。

 当然その電話の内容も、なぜ電話をしたのかも、先生は覚えていなかった。

 「お前が何を言いたかったのか、気になってしばらく寝れなかったんだぞ。今度から別れの言葉を言いたかったなら、メールで送ってくれよ」

 精一杯重たくならないよう、夏樹さんは笑いながらそんな冗談を口にする。

 親友として先生の最後の言葉に応えられなかったこと。軽口を叩いていても、きっとそのことを夏樹さんは今までずっと、後悔してきたんだ。

 『若い時からあいつは、私がくだらないことで悩んで電話すると、どんなときでも話をきいてくれた。それなのに、最後の最後で、私は助けてやれなかった』

 告別式の帰り道、あの日お寺脇の駐車場で俺が見かけたのは、そう言って家族の前で泣き崩れる夏樹さんの姿だった。

 式の間はずっと落ち着いて振舞っていた夏樹さんは、自分の奥さんと子供達の前だけで、人目をはばからず泣いていた。

 縁に涙が溜まった夏樹さんの視線をまっすぐに見つめ返し、先生はもう一度、ありがとう、と言った。

 「ええと、カズト君と言ったね。君はこれからどうするんだい?」

 こっちを向いて、夏樹さんは今度は俺に尋ねてきた。

 「俺ですか?俺は、」

 これから、どうするか。一人でいる間ずっと考えていたことだけれど、最初に団地の下で先生と逢った時から考えは変わっていない。

 「おじさんに付き合うよ。こんな面白そうな経験、滅多にできないだろうし。それに一応死人なんだから行動しづらいでしょ。さっきも犬に吠えられてたし」

 先生の反応は予想できた。

 きっと、これ以上巻き込みたくない、と断るはずだ。

 だから、驚いた表情の先生が口を開く前に、俺は早口で続けた。

 「巻き込んだのはそっちなんだから無理矢理にでもついてくよ。私は死んでました、なんて迂闊に人にばらした方が悪い」

 こんなに強気に意見を言うなんて、普段なら考えられないな。

 先生はしばらく困った表情を浮べていたけれど、こちらが諦めないと悟ったのか、降参するかのように両手をあげた。

 「正直来てくれるなら、助かるよ。でも、本当にいいのかな?今日クリスマスなのに」

 「だから、彼女とは喧嘩してんだって」

 「それはほんとにごめんなさい」

大げさに頭をさげる先生を見て、夏樹さんは手を叩いて笑った。

 「じゃあカズト君、正一を頼むよ。本当は私も付き合いたいんだが、今日は家族との先約があるもんで。お前のことは私だけの秘密にしておくよ。妻に呆けたと心配されても困るから」

 すっ、と俺の胸の前に手が差し出された。

 反射的に右手で握り返すと、そのまましばらく、夏樹さんの視線はじっと俺の目を見てそらさない。

 真剣な眼差しに、思わず肩に力が入る。

 そして、夏樹さんは小さな声で囁いた。

 「君とは初めて会った気がしないよ、ありがとう」

 俺のことを覚えてくれていたのだろうか?

 確かに葬儀のときに同じ場所にいたけれど、顔を会わせてもいないし、話もしていない。

 不思議に思っている俺に、元通りの笑顔で微笑みかけると、夏樹さんは先生と俺に別れを告げ後ろを向いて歩き始めた。

 

 ささやかな奇跡が起きたのは夏樹さんとの距離が十メートルほど離れた時だった。

 「あれ?」

 と、隣から先生の小さな声が聞こえてくる。

 受け取った紙幣を上着の内ポケットに入れようとして、先生はそこにすでに何かが入っていたことに気がつき、不思議そうに一枚の長方形の紙を取り出した。

 それを眺めいくうち、先生の表情が、まるで人肌で雪が溶けていくように緩んでいく。

 なっちゃん。と呼び止められて振り返った夏樹さんに見せた先生の顔は、すでに今日何度も見てきた中で、一番の優しい笑顔をしていた。

 「伝えたかった言葉、思い出した」

 右手に握り締めた、見覚えのあるその紙を俺の視界が捉えたとき、すぐにはその意味を理解できなかった。 

 「なっちゃんに電話したのは、あの団地に向かう前、駅前の『みどり』を通ったとき」

 少し遅れて、その謎が漠然と解けた瞬間、俺も思わず、あっ、と声をあげてしまう。

 知らず知らず笑みが零れる。

 ああ、なるほど。もしかして。

 「その電話のあとどうしてあの団地に行ったのかも、そこで何を考えてたのかも思い出せないけど、でもなっちゃんに電話した理由だけは、はっきり思い出した」

 それが先生のポケットに入っていた理由。もし今、先生があの時と同じ格好で生き返ったとしたなら、そのポケットの中身もあの時と同じはず。

 先生は、駅から歩いてあの居酒屋を通ったとき、それを眺めながら、夏樹さんとの約束と思い出を振り返っていたんじゃないだろうか。

 『チケット・トゥ・ライド~同情券~』

 居酒屋『みどり』の、髭面の店長の似顔絵が書かれた割引券。

 昔からこの街に伝わる、友情と絆の証。

 気づくと俺も、ポケットから今朝安藤先輩に渡されたしわだらけのチケットを取り出していた。

 余命わずかの先生が、あのときどういう精神状態にあったのかは想像することなんてできない。

 その電話をかけたあとで突発的に衝動にかられて、屋上から足を踏み出してしまったのかもしれない。

 だけど少なくとも最後の電話で伝えたかったのは、そんな悩みや弱音の言葉じゃなかった。

 「なっちゃんに電話したとき、少なくともそのとき私は死にたいなんて思ってなかった。ただもう一度、二十代のときみたいにクリスマスに顔真っ赤で、好きなアイドルの話でもしたかったんだ」

 葬儀のとき夏樹さんが話していた、先生からの、今度は私から誘うという、男の約束。

 あの電話は、親友同士語り合うための約束の電話だったんだ。

 「今度は私がおごる番だったよね。なっちゃん、また飲もう」

 あのとき言えなかった問いかけに、夏樹さんは呆れたような小さな息を吐き出す。駆け寄った先生から手渡された一枚のプレゼントを眺め、夏樹さんもこの日一番の笑顔で突っ込みを返した。

 「なんだ、そんなことか。せっかく禁酒しようと思ってたのに」

 それは、心の重しがとれた弾みで零れてしまったような優しい言い方だった。

 「今日以外でな。幽霊が赤ら顔で現れたら、みんな反応に困る」

 たしかに。と、俺と先生は同時に頷いて笑った。

 「お前のことだから、夜景でも見てて足すべらせたんだろう。向こうにいい店ないか先に探しといてくれ。そんときは好きなだけ飲ましてもらうよ」

 人差し指を空にむけた夏樹さんの別れ際。終わりの部分は震えていたけれど、青空に溶けるような耳触りの、素敵な言葉だった。

 泣き出しそうな笑顔で手をふる先生に背中をむけたまま、手のひらを左右に振って、夏樹さんは公園の入り口へと歩いて行った。



 ――「ほら、まだ鼻でてる」

 夏樹さんが帰ってから、しばらく二人でベンチに座っていた。

 ポケットティッシュから何枚かとりだして、先生に渡す。

真っ赤に腫れた先生の目を見ると、今日一日これ一つで足りるかな、と心配になってくる。

 先生は、ありがとう、と手を合わせてからいっぱいに音をたてて鼻をかんだ。

「そういうかずだって目赤いよ」

「これはあれだよ、動物アレルギー」

 誤魔化すためズボンについたトニーの毛を指で摘んだ。

 そういうことにしとこう、と笑顔を浮かべ先生は目元をぬぐった。

「これからどうするの?家に戻る?」

 あの日どうしてあの場所に行って、そして今どうしてこの世界に戻ってきたのか。

 きっと先生の頭にはまだ消化しきれないほどの戸惑いが広がっているはずだ。

 でも、顔をあげて前を見据えた視線からは、もう迷いは感じられなかった。

 「ああ。でも、その前にね、もう一つ思い出したことがあるんだ」

貴重なお時間を割いて、本作をお読み頂きありがとうございます。

少しでも面白いと思って頂けたら、ブックマークや下部の☆☆☆☆☆より評価いただけたら嬉しいです。

今後の励みとさせていただきます。

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