1章 ムーンリバー
【浅野 圭介】
瞼をこすると、指の先に乾いたコンタクトレンズが貼りついていた。
水気を失くし、亡骸のようになったレンズを手繰り寄せたごみ箱に捨てた。
PM 11:20
携帯のディスプレイには、未読メールを知らせる青白い光がちかちかと点滅し、それに合わせて、起きぬけの視界に薄暗いリビングが照らし出される。
ソファーで眠ったのなんていつぶりだろう?
何か飲み物でも、と思って一階に降りてきた所までは覚えている。
でも、ソファーに腰をおろした記憶が抜け落ちてしまっているから、勉強疲れが溜まっていたのかもしれない。
立ち上がって部屋の電気を点けた。僕が座っていた隣には、いつの間にやってきたのか白猫のうずらが丸くなっていた。
灯りに反応して一瞬ピクリと体を動かしたけれど、すぐにまた寝息をたてはじめる。
寝息というよりも豪快な声量は、イビキという表現が正しい。また太ったんじゃないか?とおでこの辺りを指で撫でると、嫌そうに首をひねってそっぽを向いてしまった。
「少し、出かけてくるね」
熟睡する彼女に小さく告げると、食卓におかれた上着を羽織った。
昨日の記憶が蘇ったのは、エアコンを切るため、ピアノの上にリモコンを向けたときだった。
そこに置かれた、両手でやっと抱えられるぐらいの大きさのサンタクロースのぬいぐるみ。
垂れ下がった眉に、優しそうに笑って細くなった小さい目。
まるで子供向けの漫画のキャラクターみたいに、白いひげのおじいさんは可愛くデフォルメされている。
「圭介が生まれた年に買ったから、こう見えてあんたと同い年なのよ」
ぬいぐるみ入りのダンボールを抱えて階段を下りてきた母が愉しそうに言って、僕が反応に困って苦笑を返す。
昨日の夕方に行われた毎年恒例のやりとりを思い返しながら、もうそんな時期か、と考えていた。
ぬいぐるみの隣に飾られた写真立てを手に取る。
笑ってるんだか困ってるんだかわからないような笑みを浮かべる、父の顔。
『作り笑いって苦手なんだよ。それになんか、緊張するし』
そんな理由でカメラが苦手だった父さんの写っている写真は、どれも同じような、少しぎこちない表情のものばかりだ。
普段はどんなときもにこにこへらへら笑っていた印象しかないのに。
例えば居酒屋で打ち解けた大学生たちと肩組んで知りもしない校歌を歌いながら帰ってきたとき。カラスにいじめられていたという子猫のうずらを抱え、買ったばかりのスーツを土だらけにして帰ってきたとき。(ちなみに助けた本人は猫アレルギーのため、うずらの世話をするときはいつもマスクを着用していた)その度に、大人気ないと玄関先で母さんに呆れられては、ごめんごめん、と頭をかいて笑っていた。
不器用で、超がつくほどお人好し。いくつになっても子供っぽさをもった、ときどき少しダメな父親。だから、誰からも好かれた、不思議な人。
「あなたのおかげで、うずらはあんな立派に育ちましたよ」
母さんの口癖を真似しながら、僕はぎこちない笑顔に手を合わせる。
袖で目元を拭って携帯を開くと、ディスプレイに青く現在時刻が浮かび上がった。
12/24 23:25
もうすぐ、父さんが死んでから三年になる。
例年以上に暖かいクリスマスの朝だった。
その前日、僕は高校受験対策の勉強会のため、幼馴染の健二の家に泊まっていた。勉強会という名目で始まった会が閉会となったきっかけは、『過去問の点数が低かった方が罰ゲームな』と健二が悪戯な提案をしてきたせいだ。結果、敗者の僕が片思い中のクラスメイトをお薦めのCDを貸す、という名目で近くの公園に呼び出すはめになった。結局、悪友が期待していたような告白をする勇気はでなかったけれど、好きな相手とお互いが好きな音楽の話をできただけでも嬉しかった。その後そんなうぶな話をいじられながら、健二と二人朝まで笑い合ったことも含めて、僕の中で忘れられない楽しい思い出として心に残っている。
おかげでほとんど寝てなかったのに朝の帰り道は気分がよくて、鼻歌なんか歌っていた記憶がある。
家に着いて玄関をあけると、夏樹さんが立っていた。
父さんの昔の職場の同僚で、三十年来の飲み友達でもある、僕が赤ん坊の頃から知っている大好きなおじさん。
父さんからは、『なっちゃん』と女の子のようなあだ名で呼ばれて、その度に口では嫌がりながらも、学生同然の頃からの変わらない関係を懐かしむように、いつも嬉しそうにしていた。
そんな陽気な夏樹さんが、その時は、目を真っ赤にして立ち尽くしていた。
どうしたんだろう、不思議に思いながらも挨拶をしようとした僕の体は、いきなり力強く引き寄せ、抱きしめられた。
「圭ちゃん、」
小さく一度だけ、僕の名前を呼んだ。
そのときの夏樹さんの震えた声は、今でも鮮明に覚えている。
リビングには、正月ぐらいしか顔を合わせない親戚のおじさんやおばさんたちがいた。 姉ちゃんは人数分の湯呑みにお茶を入れていて、僕を見るとおかえり、と淹れたてのお茶をくれた。
隅っこの方では母がうずくまって声をあげて泣いていた。その背中をおばあちゃんがさすってくれていた。
大切な人が死んだんだ。
漠然と、でもはっきりとそんな考えが頭に浮かんだ。
それからしばらくの間、何を考えて何をしていたのかは思い出せない。
ただ、涙は流さなかった。それだけは覚えている。
二時間ほどして、父さんの入った棺が運ばれてきたとき、初めてその場に泣き崩れた。
もう会えない。そんな当たり前のことや思い出とか、色んな感情が同時に込み上げてきて、涙と声にならない音に変わって体の外に溢れた。
『治らない病気だったの、可愛そうに』
そばで僕の体を支えてくれていた親戚のおばさんは、そのとき僕に説明してくれた。亡くなる二ヶ月前に、医師から食道に悪性の腫瘍がある、もう手をつけられないほど進んでいる。そう診断されていた、と。
当時あまり体調が優れないということは知っていたけど、僕と姉には「単なる胃もたれ」と本人は笑いながら説明していた。
それは受験を控えていた僕たちに気遣ってついた、あの人らしい優しい嘘だった。
だから、病のせいで死んだんだ。と、最初はそう思っていた。でも真実はそれよりも、少しだけ残酷だった。
三年前のクリスマスの夜。医師に宣告されてから二ヵ月後、父さんは近所の団地から飛び降りて自ら命を絶った。
「なんだ、起きてたんならメール返せよ」
コンビニをでて十分ほど歩いた頃、健二から着信が入った。
歩道の先に自動販売機を見つけると、僕は隣の段差の部分に腰をおろした。
「ごめん、疲れてちょっと寝てた。誰かと違って忙しいからさ」
「なにその言い方。俺も同じ受験生だけど」
「受験するの?その割には、毎日のように電話してくる、って誠が心配してたよ」
「まいったな。この時期に嫌な反応せず相手してくれるの誠ぐらいだから、優しさに甘えてついね。まあ圭介の邪魔はしないから、安心して」
「そうですか」
僕の通う高校には、地元の中堅公立校ということもあって、中学から一緒の友達も多くいる。
でも、その中でも家も近く小学校からの付き合いとなると健二くらいのものだ。
マイペースで時々騒がしくて、たまにノリについていけない事もあるけれど、一緒にいて一番落ち着く存在。
おそらく調子にのりそうだから、もちろん本人に言ったことはないけど。
「でも模試の成績いいからって気をつけな。それで、結局駄目でした、で慰めんの気まずいから」
「大丈夫、大丈夫。根がポジティブだから落ちてもそんな落ち込まないし」
「いや、そういう問題じゃないでしょ」
たしかに、一見いい加減に見えるけど、昔から要領はよかった。
暑苦しいぐらい友達思いな反面、ちゃんと相手の温度も感じて接することもできる。勉強だけじゃなく人付き合いだって、何でも上手にこなしてしまう器用さ。そういうところを、僕は少し憧れてもいた。
きっと、僕には真似できない。
レジ袋の中を覗きこんで、ホットの缶コーヒーを取り出した。
さっき夜食を買うために僕のバイト先でもあるコンビニに行ったとき、レジにいた安藤先輩がご馳走してくれたものだ。
いただきます。心の中で小さくそう呟いて、缶のプルタブを起こした。
それからしばらく、僕たちは色々なことを話した。
進路のこと、クラスメートのこと、二人がはまっている漫画の新刊のこと。
会話といっても主に話をするのは健二の方で、僕は相槌をうったり、笑ったりしていた。 割合でいうと七:三。でもこれぐらいのバランスが、僕には一番心地いい。
会話が一段落したところで、カタカタと車輪の回る単調な音が、静かに聴こえてきた。
反対側の歩道に視線を向けると、大学生ぐらいのカップルが、一台の自転車を挟んで楽しそうに会話をしながら通り過ぎていった。
そういえば、もうクリスマスになったのか。
そんな時に寒空の下、男友達と漫画の話しで盛り上がる。なんて健全な高校生だろう。
「どうかした?」
「いや、別に。そういえば、用件は何なの」
「あれっ?メールまだ見てないの?ほら、『にしみや』の件、夕方六時半に現地集合でいいかなと思ってさ」
「ああ、いいよそれで」
今日の夕方。僕は健二からの誘いで隣町にある『西の宮遊園地』、通称『にしみや』にでかけることになっている。
もちろん、いつかのデートの予行演習という虚しい理由ではない。
卒業アルバム制作委員である彼には、馴染みのある街の風景をのせるページ用の写真撮影という立派な使命があり、一人で行くのは流石に辛いからと僕は巻き込まれたわけだ。
「被写体に女の子でも来てくれればいいんだけどな、春ちゃんとか」
「この時期、誰も来ないでしょ」
突然飛び出たクラスメイトの名前に対し、僕は動じない風を装い言葉を返した。
ここで下手に反応するとまた話が長くなるのだ。
「今、声上擦ってたぞ」
「電話切るよ」
知らず知らず教室で見かけた彼女の横顔を思い浮かべていた。
僕は電話越しに面倒な突っ込みをうけないように、そして色々な気持ちが溢れてこないように、缶コーヒーの残りを一息に飲み干した。
「小学校の頃から変わらずうぶだね、君は」
電話口からは、まだ笑いの混じった声が聞こえてくる。
「じゃあ、おやすみなさい」
「ごめんごめん!ちょっと笑いすぎたね。まあそろそろ俺も寝るかな。まだ外?」
「うん」
「そっか。深夜に一雨降るらしいから、風邪ひく前に帰れよ」
「ありがと」
おやすみ、と言って電話を切った。
心細いくらい静かな深夜の町。
『月見山公園』
そうかかれた横長の看板がタクシーのライトに照らされて、一瞬だけ浮かび上がった。
公園の入り口まで歩いて、ゆっくり石段を登る。
登りきったところで、足元に土色に汚れたゴムボールが落ちているのに気がついた。
誰かの落し物だろうか。表面の汚れを手で払うと、上着の左ポケットにしまった。
公園内の敷地は広く、大人数のサッカーでも十分楽しめる大きな芝生が、一面に広がっている。
公園の外れまで歩き、散歩コースを脇道にそれる。そのまま背の高い草木をかき分けて進むと、『月見岩』と呼ばれる高さ三メートルほどの岩がひっそりと佇んでいる少し開けた空間に辿り着く。
もともと僕の住むこの街は高台に作られているから、街の端に位置するその場所からは、隣町から遠くの街の景色までも眼下に見下ろせる。
新しくできた高いマンション群の灯り。
土手沿いに流れる音無川。
その上にかかる橋や隣町の遊園地の観覧車。
『月見岩に座って夜景を眺めた二人は永遠に結ばれる』
いつからかそういう噂ができたくらい、うっすらと苔の生えたその年老いた岩は、地元の人だけが知っている、昔からの秘密のスポットだ。
『この場所は、恋愛の神様のお気に入りらしいよ』
教えてくれたのは父さんだった。
『いつか好きな人ができたら、圭介もその人とここに座って、思いを伝えな』
幼い頃、笑って頷き返したその約束は、結局果たすことはできなかった。
三年前のあの日、「お気に入りのバンドの新曲を貸す」という名目で、片思い中の相手、春ちゃんこと山本さんをこの公園に呼び出した。
けれど結局緊張した僕は、いかにそのバンドが素晴らしいかを山本さんに語るだけ語って、見事に名目だけ果たし、そのまま報告を待つ健二の家に退却した。
自分の情けなさに落ち込む僕を散々笑い飛ばす薄情な友人につられて、気づいたら二人で朝まで笑っていた。
岩の窪みに手をかけて月見岩の上までよじ登る。
平になったてっぺん部分に腰を下ろすと、そのまま仰向けに寝転がった。
夜空には、薄灰色の雲が移動するのも億劫そうに、ゆっくりと風に運ばれていく。
そんな景色をぼんやりと眺めながら、僕は右のポケットから古びたカセットプレイヤーを取り出した。
中に入ったテープには、『つけ鼻レノン~鼻に願いを~』という手書きのタイトルと、十年前の日付がかかれたシールが貼ってある。
イヤホンをはめて再生ボタンを押すと、アコースティックギターの伴奏に合わせた陽気なメロディーが耳にとびこんできた。
『湿った鼻の野良犬レノン
サンタのおじさんに拾われて
トナカイたちとそりの遊び
それ見て微笑むサンタのおじさん』
鼻にコンプレックスを持った犬を主役としたへんてこな歌詞。
カントリー調のリズムに乗った歌声はお世辞にもうまいとは言えない。
でも、不思議と耳に残る愉しそうな唄声。
それは久しぶりに聴いた、父さんの声だ。
このカセットは葬儀のあと車の中を整理していたら、ダッシュボードの奥からでてきたものだ。
誰が作った曲で、どこで録音されたのかも、ときおり重なるコーラスが誰の声なのかもわからない。
ただ僕はこの曲をもっと前から知っていた。音楽が好きだった父は、時折この不思議なメロディーを鼻歌で歌っていた。
二人で休みの日に映画館に行った帰りや、夜中にラーメン屋さんに連れて行ってもらった車の中で。
「何て曲?」
僕が尋ねても、いつも思い出せないと笑っていたのは、きっと父さんの自作の歌で、正直に言うのが恥ずかしかったんだと思う。おかげで父さんが亡くなってこのカセットを見つけて初めて、曲名と歌詞を知った。
カセットが入ったのと反対のポケットに手を入れて、入口で拾ったゴムボールの感触を確かめる。
いつも歌ってた。僕が小学生の頃、この公園の芝生でキャッチボールをしたときもそう。
「いいか、いくよ」
ある夏の日、キャッチボールの途中で父さんはそう言って真上の空を指差した。
いつの間にか、どっちがより高くボールを投げられるかの競争になって、何回か繰り返してるうちに、きっと父さんも本気で愉しくなってしまったんだと思う。
なにか気合いのような短い声を発して、勢いよく片足をあげる。
でも、次に聞こえてきたのは、おっ、という間の抜けた声と尻餅をつく音だった。
父さんはバランスを崩して地面に倒れこんだ。
本来の軌道を大きく外れたボールは、僕の後方にある藪の中に飛んでいってしまった。
「何やってんの」僕は笑いながら、恥ずかしそうに腰をさする足もとに駆け寄った。
すぐ見つかるだろうという甘い読みは大きく外れて、服を茶色く汚しながら、藪の中を捜索してから発見するまで一時間近くかかってしまった。
「あった!」
とびきり大きな声に振り向くと、ボールを指で挟んで満面の笑みを浮かべる父さんの姿があった。
そのとき心配で隠れて泣いていた僕は、そのことがばれないように、腕でこっそり両目をこすると、急いでそばに駆け寄った。
「心配かけてごめん、どうも肩の前に足腰が壊れてたみたいだ。いい歳して、はしゃぎすぎた」
腕を枕代わりに、ひんやりとした月見岩の上に二人で寝転がる。
オレンジに染まった空間には、ところどころにちぎれ雲が漂っていた。
心地よく響く蝉の声に混じり、小さな音量の鼻歌が、すっと耳に染み込んできた。
なんて曲だろう。そう思いながら、目を閉じて深呼吸する。
土の匂い、汗の匂い、草の匂い。
湿ったTシャツを通る冷たい風が、それらをない混ぜにして、体の中に運んでくれる。
「それにしても綺麗だね」
その視線の先に、僕ももう一度目を向ける。
本当に、そのときの夕焼け空は綺麗だった。
もしも、世界中で一番純粋で、高価な絵の具を使ったとしても、きっと表せられないほどの鮮やかな茜空。
こういうことが、何年、何十年経っても、一生心に焼きつくんだろうな。そう子供ながらに本気で思ったのを、今でも覚えてる。
「けいすけ、今日の夜星空でも見に行こうか?秘密の場所があるんだ」
「ほんと?うん、見たい。でもその前に一旦夕飯食べに帰ろう。遅くなると怒られちゃうよ」
「はは、そうだね。お母さんは怒るとおっかないから」
そう言いながらも二人してそのまま眠ってしまって、家に帰ったら玄関先で母に叱られたこと。それも含めて、今でも大切な思い出として、僕の心に残っている。
左のポケットから手をだして、さっき入口で拾ったゴムボールを取り出す。
最後にキャッチボールをしたのは、いつだっけ。
中学にあがってからは二人でどこかに出かけることも少なくなっていった。それどころかまともに話す機会も、段々と減っていった。
別に嫌いになったからじゃない。ただ、いつからか僕は父さんのことを避けていた。
それはきっと、僕自身が変わってしまったから。
寝たままの姿勢でゴムボールを真上に放り投げる。うまくキャッチできずに指先にあたり、地面を音もたてず転がっていった。
苦笑したあとで、急に涙がこみ上げてきた。
どうしてあのとき、僕は父さんを見殺しにしたんだろう、
風が吹いて、頬にあたる。雨の気配を含んだ風はさっきよりも重く、冷たくなってる気がした。
音楽のとまったイヤホンを耳にはめたまま、星の隠れた夜空に視線をやる。
気持ちが落ち着くまで。そう自分に言い聞かせ、しばらくそのまま目を閉じていた。
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