最終章 サイレントナイト(3)
【浅野 圭介】
階段を、一段一段のぼる度に鼓動が早くなる。
もし逢えたら、どんな顔で、どんな言葉をぶつけよう?
何度も考えてきたことなのに、今は気持ちが急ぐばかりで、ただ足を動かすことで精一杯だった。
『思い出の場所で、正ちゃんが待ってるって。謎のお兄さんから伝言もらったんだよ。行ってきな』
健二が言ったその言葉。
普通なら、夢みたいな、到底ありえない話だけど、僕はなぜだかはっきりとわかっていた。
この場所に、父さんがいる。
登りきってドアノブに手をかける。
息を整えることもできずに、屋上へと足を踏み出した。
空には手を伸ばせば掬えるほど、たくさんの星が散らばっている。
『ここからの星空が、一番好きなんだ。母さんには内緒だよ、きっと、危ないって怒られるから』
あの夏の日、初めてここに連れてきてもらったときの記憶が鮮明に蘇る。
フェンスを越えて、屋上のふちに腰掛けて夜空と街並みを眺める。
そこで、夢や恋や何てことない話をして、約束も生まれた。
その背中を見つけたとき、反射的に口から洩れた声は、きっと終わりの部分が掠れて、向こうまで届かなかったと思う。
けれど、フェンスの方を向いて空を眺めていた父さんは、ゆっくりとこちらに振り向いて頬を動かした。
「久しぶり、大きくなったね」
こちらにちょうど届くほどの、距離感を保った小さな声が聞こえてくる。
三年ぶりに会った父さんは、いつもの眉の下がった困り顔で笑いかけてくれた。
酔っ払って帰ってきた次の日の朝や、小さいときキャッチボールして遅く帰った夜。
玄関先やリビングで母さんに怒られているときと同じ顔。
どこか気まずそうで、だけど懐かしくて。僕にとっては、何よりも暖かい表情。
「うん、おかえり」
その場に漂う優しい空気感につられて、気づくと僕の頬まで自然に緩んでいた。
「0時になったら消えちゃうって、健二から聞いたよ」
「ああ、なんかシンデレラになった気分だよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。ていうか、遅い」
「ごめん、ちょっと遠回りしてて」
ここに来るまでは涙の再会を想像していたのに。変わらないやりとりになんだか調子が狂ってしまう。
ゆっくり息を吐く要領で呼吸を整えて、伝えたかった言葉を少しずつ紡ぎ出していく。
「もうすぐ受験なんだ。数学はやっぱり好きになれないよ」
一緒に苦手な勉強を教えて欲しかった。本当はそれも付け足すつもりだったけれど、いざ口にだそうとすると照れくさくなって、言い出せなかった。
「来年、大学入ったら免許とろうと思って。これで夜中に好きなだけラーメン食べにいける」
一緒に色んなところにドライブ行きたかった。車の運転も教えて欲しかった。
父さんは僕の言葉に、ただ優しくうなづきかけてくれている。
「うずらはあれからまた太ってさ。そろそろ獣医さんに怒られそう」
笑って緩めたはずの唇に、いつのまにか流れていた涙が一粒重なった。
自分が泣いていること。それに気がついてから、抑えきれない思いがこみ上げてくるまでは本当に一瞬のことだった。
「なんで、あの日急にいなくなったの?お酒だって一緒に飲みたかったし、また二人で映画も見にいきたかった。病気のことも隠さないでちゃんと言ってよ。それに、」
今まで言えなくて溜め込んできたこと。それを今吐き出さないと、きっと僕は壊れてしまう。
息継ぎせず繋いだ言葉の最後に、一番伝えたかった言葉が、自然と胸の奥から溢れでた。
「あのとき冷たくして、ごめん。本当はもっと色んなこと、父さんと話したかった」
大粒の涙が、屋上のコンクリートに零れ落ちる。
悲しげに、でも暖かく僕を見つめる父さんの顔がすぐ近くに見えた途端、急に足に力が入らなくなって、僕はそのまま父さんの胸の中で泣き崩れた。
「こっちこそ、今までずっとダメな父親でごめんな」
父さんが両手に持っていた紙袋が、かさっと静かに音をたてて地面に落ちる。
昔よりずっと細くなったその両腕が背中に回り、僕を包み込むように抱きしめてくれた。
「圭介の優しさも、考えすぎてしまう性格も、全部わかってる。
もし自分を嫌いになったり何かに悩むときがあっても、大丈夫。
今度はもっと星に近い場所で、圭介が幸せになれるよう祈ってるから
だから、大丈夫だよ」
首筋に、雫が何滴もこぼれ落ちて、流れていく。
顔をあげなくても、父さんがどんな表情をしているのかはわかっていた。
『大丈夫、大丈夫』
魔法のように繰り返されるその言葉に絡まっていた気持ちが完全にほどけていくのを感じながら、僕は顔をあげられるようになるまでずっと、父さんの胸の中で泣き続けた。
「そうだ、これ」
家へと続く道を二人並んで歩きながら、父さんは紙袋を手渡してくれた。
散々泣いたはずの僕よりも目が真っ赤に腫れているけれど、その笑顔は気持ちのいいくらい晴れやかだった。
僕は、開けていい?と許可をもらったあとで袋から箱を取り出し、包装紙を丁寧に剥がしとった。
中から出てきたのは、僕が昔集めていた漫画のキャラクターの新しいフィギュアで、正直高校生になってからは遠ざかっていたのだけど、父さんがそれを覚えてくれていたことが素直に嬉しかった。
「そうだ、さっき遊園地で聞いた話で一つ気になったんだけど、CD五枚買って一枚は店員さんにあげたんでしょ?あとの四枚はどうしたの?」
「ああ、あれね」
父さんは恥ずかしそうに笑い、目を細める。
「圭介はCDもってるって知ってたし、チケットもあたらなかったから誰かに譲ろうかなって思って。捨てるのももったいないし、それで、そのあと駅前に行って、」
「もしかして、配ったの?」
「うん。せっかくクリスマスだったから、こういうのも悪くないんじゃないかと。
『間違って買い過ぎちゃったんで』、って渡したら、もらってくれたよ。まあ、相当怪しまれたけど」
「相当な不審者だよ、それ」
駅前のティッシュ配りに混じってCDを配る、謎の中年男性。
通り過ぎる誰かの目には、気さくで優しいサンタクロースに映っただろうか。
きっと、得体の知れない変なおじさんにしか思われなかっただろうな。
僕は呆れながらも、父さんらしいエピソードに表情が綻んで、また笑顔がこぼれた。
「母さんたち、心臓麻痺でも起こしたらどうしよう」
「きっと大丈夫じゃない?お母さんなら。もしかしたら父さんが来ることも第六感で知ってるかも。帰ってくるのが遅いわよ。って、いきなり説教されるかもよ」
「ははっ、なぜだか父さんもそんな気がする。ただ、怒られるのは嫌だな」
家の前まで着いて、門扉越しに中の様子を伺う。
軽口を叩いてはいても、緊張してるんだろう。
チャイムを鳴らすのを何度も躊躇う仕草からも、それが伝わってくる。
僕は、父さんと同じく緊張と気恥ずかしさのため、少し離れたところからその光景を見守っていた。
よしっ、と何度目かの呟きのあと、一度大きく深呼吸をして、震える指先でチャイムを鳴らした。
「そうだ、圭介」
高らかなチャイムの音がこだまするのを目を瞑って聴きながら、父さんは静かに口を開いた。
「父さん、今日サンタクロースに逢ったんだ」
そう穏やかな口調で告げた後、つけ鼻レノンのメロディを鼻歌で口ずさんだ。
今日父さんは僕に会うまでどんな一日を過ごしたのか。
詳しいことはわからないけれど、父さんが向けた幸せそうな表情に、僕もただ素直に笑顔を返した。
ドタドタと足音をたてて、誰かが玄関に近づいてくる。
あの騒々しさは、きっと姉ちゃんだ、
父さんの顔見たらどんな顔するだろう。
はーい、と元気のいい声が聴こえてくる。
にぎやかな再会の風景を想像しているうちに、ガチャリと音がして、勢いよくドアが開いた――




