プロローグ 赤鼻のトナカイ
「トナカイのお兄さん!さよなら」
それは、七年前のクリスマスのこと。
駅前・さくら商店街にあるCDショップ内に、愉しげな声が響いた。
呼ばれた声に拓実は顔を向けると、店の入り口で幼い男の子が目を輝かせながら手を振っている。
母親と手を繋ぎ店をでる男の子に、拓実も小さく手を振り返す。
「安藤先輩。これ何の罰ゲームですか?」
拓実の口から独り言とともに、今夜何度目かのため息がこぼれる。
彼が身に着けているのはスポンジを丸く切り取って作った赤つけ鼻に、生地のほつれが目立つ焦げ茶色の着ぐるみ。
すっかり年季の入ったそのトナカイなりきりセットは、彼がアルバイトとして働くコンビニの店長がうんと昔に手作りしたものらしい。
ガラス戸に映る間の抜けた自分の姿を見直して、拓実は、これからどうしたものか、と思わず苦笑を浮かべてしまう。
ポケットから手を出すと、まだらに折り皺のついた紙幣が3枚握られている。それは彼が店の先輩から無理やりに渡されたものだ。
『こんな夜に企業のCMソングばっか聞いてたら気が狂いそうだ。
拓実、ちょっと向かいの店で代わりのCD買ってきて。マライアかジョンレノンのクリスマスソング聴きたいね』
ほんの数分前に安藤先輩から命じられたその言葉を、いつもの彼だったら「自分で行ってください」と不満気味に抵抗したり、別の話題ではぐらかしたかもしれない。
それができなかったのは、彼の本当の目的に気がついていたからだ。
紙幣の間には、いつの間に仕込んだのか、『西の宮遊園地』という名称とカラフルな観覧車と雪だるまのイラストが印字されたチケットが二枚紛れ込んでいた。
12/26 迄 有効
有効期限を記す明日の日付の下には、くっきりと赤ペンでアンダーラインが引かれている。
「他人の恋愛を完全に楽しんでるな、あの人」
恨めし気に呟いた直後、「在庫合ったよ」と、制服代わりに紺色のエプロンをつけたかなが戻ってきた。
小柄な身長に底の薄いスニーカー。いつも通りの底抜けに明るい笑顔の彼女は、このCDショップ・ユウヒ堂で三年前からアルバイトとして働いている。
真向かいのコンビニで働く拓実と同じ十八歳で、働き始めたのも同じ時期であるから、元気で愛想のいい彼女の接客を少しでも見習うように、と先輩たちからよくからかいまじりに助言されたものだ。
小走りでやってきた彼女が手にもったCDケースには「サウンドトラック」の文字が見える。それが海外の古い映画音楽を収録したアルバムだと、拓実はすぐに気が付いた。
気合がわりの息を一つ吐き出して、拓実は手に持ったチケットを着ぐるみのお腹についたポケットにしまった。
「ほんとに私の好みで選んでよかったの?これ、クリスマス全然関係ないけど」
「全然大丈夫。あの先輩の指示に素直に従うの嫌だし。それに俺が好きな曲も入ってる」
拓実は、アルバムの最後に収録された『星に願いを』の曲名を指差しながら答えた。
鼻の長い人形を主人公とした、海外の古いアニメ映画の主題歌であるその曲を拓実は幼い頃から何度も口ずさんでいた。
「ほんと?私もそれが一番好き!流石、軽音楽部はセンス良いね」
愛想よく微笑む彼女に、拓実もつられて笑顔になる。
「来年はサンタの人選はちゃんと話し合って決めた方がいいかもね」
せっかくだから、とレジカウンターでCDケースをプレゼント用のリボンで十字掛けしながら、かなは入り口のガラス戸から、通りを挟んで真向かいにあるコンビニに視線を向けた。
数分前まで拓実も隣に立っていたその店前の歩道上。
そこには今は黒縁眼鏡にサンタの格好をした、例の小太りの先輩が一人。
ケーキを売るための声かけに飽きたのか、商品陳列用の長机に両手をおいて、大きくあくびをしている。
しばらく先輩の様子を眺めていると、彼の前をカップルが体を寄せ合いながら通り過ぎた。
ふてくされた表情の彼は、通りすぎるカップルを黙って見届けると、その背中めがけて小さく中指を立てた。
「多分来年にはクビになってるよ」
二人の視線に気づいたのか、安藤先輩は顔をこちらに向けると、ぐっ、と力いっぱい今度は親指を突き立ててきた。
「トナカイさんも大変だね」
くすくすと笑う彼女に見えないよう、拓実は呆れながらも密かに感謝の気持ちも込めて、小さく手をあげて返した。
支払いのため拓実が紙幣を渡そうとした時だった。差し出した拓実の左手に、かなの手が重なり、半ば強引に紙幣を握り返された。
「いらないよ。そのCDは、私からのプレゼントってことにして。代金はあとで私が払っておきます」
「えっ?いや、」
「たまにそっちの店長さん、あんまんご馳走してくれるから。そのお返し」
「そうなの?おれそういうのもらったことないけど」
「君たちは、たまに期限切れの弁当盗み食いしてるんでしょ」
ばれてたんだ、と落ち込む拓実を慰めるように、かなはその肩をにこにこしながら叩く。
手が触れたことに動揺したのと、かなの勢いに負けて、拓実は申し訳なさそうに頷いた。
「自分の好きな音楽が街を歩いている知らない誰かの耳に届いて、もしかしたらそのおかげでその誰かが幸せな気持ちになってくれるかもしれない。そんな素敵なこと、なかなか経験できないからうれしくて」
彼女の頬が、幸せの色に満ちているかのように温かく動く。それを見ているだけで、拓実まで不思議と優しい気持ちになる。
「ちょっと憧れのラジオDJになった気分。拓実君も音楽やってるんでしょ?いつかそういう曲作ってくれること楽しみにしてる」
嬉しそうな笑顔をふりまいて残りの仕事にとりかかる彼女を、拓実は黙って見つめる。
店内に流れる本物のラジオのDJが、もう三十分で二十時になると告げていた。
「あのっ、そういえばさ」
気がつくと拓実は口を開いていた。
思っていたよりも、ずっと大きなその声に、振り返った彼女と目が合った。
ラジオが告げた残り時間に焦り、反射的に声をかけてしまったとはいえ、最初から誘いの言葉は頭の隅で考えていた。ただ、目が合った瞬間、頭が真っ白になり、空白を埋めるようにいつも通りの後ろ向きな自分が顔を出していた。
『きっと、断られるに決まってる』
情けなかったのは、指先が震えていたからじゃない。
長い沈黙のあとで諦めにも似た思いがかすめたとき、どこからか馴染みのある声が響いた。
『――奇跡を起こす、簡単な方法があるんだよ』
放課後の教室。風にそよぐカーテンとギターの音色。
その声が自分の心の中から聞こえてきたことには、すぐに気がついた。
そして、それが誰の声なのかも。
いつの間にか閉じていた目をあけると、そこには心配そうに見つめるかなの姿があった。
断られたら、遊園地は安藤先輩と二人で行って愚痴でもこぼし合おう。
浮べた苦笑いのあとで、差し出した二枚のチケットが暖房の風に揺れる。
その揺れを抑えるように、彼女の指先が優しく紙に触れた。