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わが心そこにあらず

頭書同タイトル(その1)ご参照

『聖書』大国アメリカ・・・人類の平和に向けて  メシアのように死のうとした大統領 わが心そこにあらず Oの福音書(その1)より続編



四・核戦争

<勝利なき戦い>…核戦争の恐怖

一九六一年五月十一日、ケネディは、前政権の引継として南ベトナムに四百人の特殊部隊を派遣し、北ベトナムに対してゲリラ作戦を行う決定をした。

自由主義を守るのだ。ベトナムを守れば、タイやラオスやカンボジアなども、共産ゲリラに勝てるはずだ。


『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』(ヨハネ第一:3-8)


ケネディは、ヨーロッパを訪問し、フランス大統領やソ連首相との会談では、友好関係を樹立した。

一九六一年八月十三日から、東ドイツが、東西ベルリンの境界線を完全分断する。二十五マイルのコンクリート・ブロックの塀を立て始めたのである。


『神は、一人の人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。』(使徒十七:二六)使徒パウロはアテネの人々にこう説明した。


ケネディは、西ベルリンを放棄する意志がないことを言明した。人間の境界は神が定めるゆえ、人間がきめた、それはいずれ消え去るだろう。一九八九年十一月、ベルリンの壁は自由に絶えきれず崩壊したのである。

黒人の平等を盛り込んだ「公民権法案」は議会で行き詰まっていた。司法長官の弟ロバートとともに、反対派勢力と闘った。

人種差別は遺憾だと言いながら識者のなかでも、公共の場でも事実上、差別をしている。世界における米国の大きな汚点だ。いよいよ南部では公民権運動は、一部暴徒と化していた。

黒人は、アメリカにおいて、象徴的な「死人」だ。息を与え、人間として正常の生活基盤と機能を与えられなければならない。


『マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります」イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります」(ヨハネ11一21-23)』。


九月二十四日、ケネディは、国連で、三段階完全軍縮を提案した。一方で時代は逆に恐怖感が広まる。十月三十日、ソ連は五十メガトンの核実験に成功した。

人類最終戦争『ハルマゲドン』は近づいたのか・・・。

一九六一年十二月十一日、米空母から四十機のヘリコプターがサイゴンに到着した。これら攻撃ヘリによって、南ベトナム軍は、翌年夏に向けて、初めて軍事的に有利に立った。これら援助によるベトナムの状況と結果を、国防長官は統計で表そうとした。

アメリカは本当に勝っているのか。別の報告では、このままいくと大規模な不毛の戦いが拡大する可能性を警告しているのだ。

一九六一年十二月十九日、ケネディの父親が脳出血で倒れた。しゃべることが不自由となった。

翌年一九六二年の主な出来事を見ると次のようなものである。

二月三日、キューバに対して全面禁輸を命令した。

二月八日、南ベトナムに軍事援助司令部設置を発表。

二月二十日、アメリカ初の人間衛星の打ち上げに成功した。地球を三周した飛行士はアメリカの宇宙支配をソ連から取り戻しのだ。全米で大歓迎を受けた。ケネディはホワイトに飛行士を招き勲章を自分の手から授けた。月に向けた計画は進む。

四月十一日、USスチールなどの鉄鋼値上げを「公共の利益」に反すると非難し、各社は値上げを撤回した。

四月二十四日、三年ぶりに大気圏内核実験の再会を命令。

七月四日、フィラデルフィアで「大西洋パートナーシップ」の演説。

九月三十日、ミシシッピ州オクスフォードで黒人学生の州立大学入学をめぐって暴動。

そして、世界の危機的状況は深く密かに進展していたのである・・・。


<ハルマゲドンー人類最終戦争>…アメリカ最期の大統領

一九六二年十月二十日、ケネディは、風邪を理由に予定の遊説先シカゴから急きょワシントンに帰還した。二十二日月曜、いよいよ極秘で検討してきたことを国民に明らかにする時がきたのだ。

全米に向けて午後七時、テレビとラジオを通して、宣言する。

「今晩は、国民のみなさん。前に約束したように、わが政府はキューバ島におけるソ連の軍備増強をきわめて厳重に監視してきました。・・」ケネディはいつものように冷静沈着である。

このとき既に、十三日間にも及び秘密のうちキューバのソ連が建設するミサイル基地の対応策が六つの選択肢において検討されてきた。その結果の発表である。

アメリカの『裏庭』ともいえるキューバに核ミサイル基地が内々に設営されているのだ。スパイ飛行機U2機の航空写真が決定的な証拠をとらえた。

なぜだ。暴挙だ。何が欲しいのだ。何のためにソ連はこのような愚挙にでたのか。ソ連首相の単なる誤算か。それともアメリカにキューバを攻撃させ、西ベルリンを襲う口実のためか。疑心暗鬼の世界がとてつもなく広がる・・。

ソ連製の長距離ミサイルやその他攻撃兵器がキューバに密かに搬入されている。それに対する奇襲攻撃案を検討する。だが完璧な空爆が可能だろうか。ミサイルの核反撃を招くかもしれない。奇襲が何倍にもなって返ってくるかもしれない。それでは海上封鎖か。

封鎖にも欠点がある。しかし、情勢を見極め相手に応じた慎重な次の対応が可能である。ケネディは強硬派、軍部の意見を引き延ばし、ソ連に再考する時間を与える封鎖案を採用したのだ。

ソ連首相とは軍縮を推進するはずであった。このため、ソ連とキューバ政府に対して、一切の攻撃兵器をキューバから撤去することを求めた。「キューバからのミサイル攻撃は、ソ連のアメリカに対する攻撃とみなし、全面報復行う」と全国民に決意を明らかにした。それは、米ソ二大強国が戦う「第三次世界大戦」は地球滅亡の人類最終戦争である。

テレビの中の大統領を全米の多くの国民が食い入るように見入る。一言も聞き漏らすまいとする。静寂がある。しかし、あるところ、いや、多くの場所、家庭で、恐怖に震え泣きだしものがいた。ケネディ得意のジョークなのか。大統領の演説は淡々としている・・・。

世界のアメリカ全軍に、待機命令が下った。全世界が驚愕し震撼とする。NATOや西側諸国の指導者に相当以前に連絡されている。地球全体が核戦争の恐怖におののき奮え始めた。

『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。』ケネディは、イエス・キリストのその言葉をソ連とキューバに送り付けた。果たしてこの真理が通用する国なのだろうか。しかし一方で、自分の剣をかざす、この矛盾。


その背後でパウロはこうせまる。『愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」・・・・悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい』(ローマ12:19)。

この時の善とは何だろうか。全ての人と平和を保つために、パウロは自分で復讐することを止め神に任せることを勧めた。真のクリスチャンならそれに従うべきである。神の下僕なら、そうすべきである。

アメリカの殆どキリスト教徒と言われながら全国民が、この道を真実選ぶだろうか。ソ連の攻撃になされるまま、座して全国民が死を待ち、神のみ名を叫び呼ぶのか。それはありえないことだ。世界大戦を経験し、日本には終戦を早めるという大義名文を掲げ原子爆弾を二発投下した。

ケネディも、かってイエス・キリストの使徒ヨハネが見た幻を、現実に垣間見る。


『また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。』(ヨハネの黙示録19:11)


それは、ベトナムでの自由の戦いである。ゲリラ戦に過ぎないはずである。ところが、今、自分の大統領就任時おいて、人類の最終戦争となるハルマゲドン、神の復讐の日、【万物の支配者である神の大いなる日の戦い】が始まろうとしているのか。(ヨハネの黙示録16:16)

「・・不必要に、全世界にわたる核戦争の危険をおかすつもりはない。そのような戦争では勝利の果実も口中で灰と変わるだろう。・・」ケネディは自重するが。

ケネディは、来るべきものが来るかも知れない、と恐れおののく。神の教えに反して世界強国が動く・・・。


神への反逆ゆえに、『また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。』(ヨハネの黙示録19:19)

 イエス・キリストと天の軍勢が地上の王らと戦うのである。

その地上の王の最高指揮者の一人として、今、自分がいる。その後は、誰も記憶する人々が存在しない世界。自分が【最期の大統領】として死ぬことになるのか。


『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』(マタイ6:6)

イエス・キリストは祈りの仕方と場所についてこのように教えた。

ケネディは何度も一人になった・・・。


<対決>…核兵器のボタンを押す(悪のみの滅び)

十月二十三日火曜、国連安保理事会で米ソが激しく対立した。ソ連軍の休暇が取り消される。ワルシャワ条約加盟国も警戒体制に入った。

二十四日水曜、アメリカ海軍の、航空母艦、巡洋艦、潜水艦など、百八十隻が集結し、キューバ洋上を固める。海上封鎖を開始した。キューバ上陸二十万の上陸部隊が控える。ソ連との全面戦争のために、水爆を搭載した千五百機のB五二爆撃機が出撃に備える。百基以上の大陸間弾道弾他ミサイルを発射準備に置く。

大西洋上を、二十五隻のソ連貨物船団が相変わらず、カリブの静けさへ向けて航行を続ける。約六隻のソ連潜水艦が船団に合流する。

U2型機の補完偵察では、地上では突貫工事が進行している写真が確認される。封鎖も失敗策か。・・全面対決に迫る。

世界は終わりだ!! ちまたでは、刹那的な快楽に走る風潮が現れる。どうせ死ぬのだから。持っていても仕方がない。好きにやろう。思い残しがないように。

アメリカとソ連の間で、緊迫したメッセージが飛び交う。そこへローマ教皇が調停役としてかって出る。国連事務総長が調停を呼びかける。キューバのソ連ミサイルと、トルコの米ミサイルの相互撤去と不侵攻の調停が進む・・。ソ連船団は航行を停止するのか・・。

ソ連は船団を止めるのか。それとも全面核戦争か。それは人類最終戦争ーハルマゲドンの始まりか。アメリカ全軍のレーダと諜報機関が全神経を集中しソ連の動向を追う。全人類の生と死を懸けた政策の検討が、ホワイト・ハウスとクレムリンで続き、全世界が経緯を見守る。

『大統領はみなの見てる前で、手をあげ、口に手を当てた。拳を握ったり、開いたりした。顔はやつれ、目は苦悩に灰色のように見えた。』と司法長官の弟ボブはこの緊迫状況を記した。

ケネディは会議の休息の一時を、一人大統領執務室にこもる。背骨が痛む。疲れきった体を縦に窓辺に立ち、頭を垂れ目を閉じる。

『全知全能の神よ! 天にあるもの地にあるもの、すべての命を養い支配される、栄光の神。真実の神よ。

あなたは眠り、今この時も、人類の愚かさを黙って見ておられるのですか。太陽の光輝、月の明かりは、あなたの栄光です。それを認め告げ賛美する人類を、あなたを認めぬ者ゆえに、すべてこの地から拭われるのですか。

どうか、目を覚まして下さい。命を人類が喜ぶように偉大な力を示して下さい。もし、この戦争があなたのご意志なら、邪悪な人間だけを滅ぼして下さい。地上では善意の人々だけが生き残る永遠に戦争のない、あなたの王国が到来しますように。そのためにまず私から裁いてください。私を最期の大統領に・・・』自己超越をしたはずのケネディは絶叫し絶句し嗚咽した。

なぜ神は眠ったのか・・。ケネディの祈りが天に向かう。全世界が固唾を飲んで見守るなか、ソ連船団が進む。


『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。』(ダビデの賛歌 詩編8:3-4)


二十五日木曜午前八時、封鎖ラインを最初のソ連の輸送船を発見。タンカーで石油だけだと申告。(空爆だ! 戦闘開始だ!)

「待て、見逃すのだ」と大統領。「まだモスクワから指令を受けていないかもしれない。」

午前十時三十二分、二十隻のソ連船が海上で停止した。 六隻、・・加えて十二隻が向きを変えた。


二十六日金曜午前七時、レバノン船籍のソ連チャーター船。貨物船を停泊させる。検問を求める。始まる。荷物はトラックの部品だ。通過を許可する。

キューバでは相変わらず急いでミサイル発射の工事準備が進んでいる。あと数時間で完了する。神に祈る。迫り来るソ連船団だ。海軍は迎撃することを大統領に望んだ。ケネディは冷徹にそれを押さえる。

水面下で米ソの諜報機関が動き続ける。午後六時、ソ連首相よりキューバのソ連ミサイルの存在を認め、撤去の条件が示された。

二十七日土曜、ソ連よりトルコにあるNATOのミサイル基地撤去の要求が持ち出された。アメリカの安全のために他国を犠牲にすることは名誉においてできない。

そこへとんでもないニュースが飛び込んできた。U2機一機が撃墜された。キューバ上空で撃墜されたとの情報。ああ、なんと!! 神よ。ケネディの顔は青ざめた。

キューバのミサイル基地が稼働始めた。ソ連の攻撃が始まる。危機感が高まる。いよいよミサイルが飛んでくる。さらに問題が突発する。別のU2機がアラスカから計器の故障でソ連領を侵犯したという。悪い事が度重なる。八方塞がり。絶対絶命。ソ連はどうでるのか。最悪の事態に対処する。空爆に続く攻撃の段取りを確認する。

ネブラスカ州オハマの戦略空軍司令部のミサイル・サイロの蓋は開けられた。


<核の標的>…永遠の平和に

『わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答になりません。夜も、私は黙っていられません。』(詩編22:1-2)

ダビデの賛歌。処刑されたときのイエス・キリストの神への信頼の叫びとなった。


核兵器が飛び交う。ヒロシマ・ナガサキの阿鼻叫喚、その何十倍、何百倍・・焦熱と惨烈が「青い地球」を真っ赤な星に変える。

実際、大規模な核戦争が起これば地球上でどの程度の影響があるのか。一九八八年五月、国際連合の専門家グループが「米ソの核戦争」によってもたらされる世界の影響を分析し「核戦争の気候、その他の地球的規模での影響に関する研究」と題する報告書を発表した。それは米ソをはじめ、日本、中国、豪州など十一カ国の学者らによって纏められたもので、「もし米ソ両国が核攻撃をしあって、周辺諸国を巻き込むとしたら」との大ざっぱな仮定のもと、大規模な核戦争での気象面や食糧生産、生体系への影響を考慮している。

煙が地球全体を覆い、太陽光線が遮られ、地球温度が摂氏十五度ないし三十度低下し、降雨量が激減する可能性を予測する。その結果は、小麦やトウモロコシや大豆あるいは稲作など基本的食糧生産に大きな打撃と被害を与え、一年間は食糧生産は回復不能であり、十億ないし四十億の人間が餓死するという。勿論、自然や生態システムの破壊だけでなく経済や社会のシステムも壊滅的であり、人類社会が再起できるかどうかは予測困難としている。これ以前にアメリカのカール・セーガン博士らの「核の冬」としての環境破壊報告もある。


「神のかたちに創造された人間」が、神の力である核を誤用している。今だ経験のない核戦争の恐怖を招く。人類滅亡の危機一髪。一触即発の窮地。地球最大の危機。地球最期の回避を!


『【主】よ。立ち上がって下さい。人間が勝ち誇らないないために。国々が御前で、さばかれるために。【主】よ。彼らに恐れを起こさせてください。おのれが、ただ、人間にすぎないことを、国々に思い知らせてください。』(詩編9:19-20 ダビデの賛歌)


ケネディ大統領は、最新のソ連提案を受諾することを前提に、アメリカの要求回答を世界に発表した。世界の終わりは、五分と五分だ!!

国防長官は大きく呟いた。

「あと何回ぐらい日没がを見られるのか」

ある高官は家族と落ち合う場所を考えた。


十月二十八日日曜、モスクワ放送が現地午後四時(アメリカ午前九時)に重大発表を行う、という。そして、ソ連首相は、キューバにあるロケットとミサイルを撤去する声明を発表した・・・・。


世界の終末、人類滅亡の危機を擁した、緊迫した七日が終わった。『神は目覚めたのか・・』ケネディは、ソ連首相の譲歩の困難性を評価した。アメリカの勝利を主張してはならないと全員を諌める。

ケネディの勇気と決断の勝利だ。偉大な大統領だ。西側諸国に生気がよみがえった。『神が勝利した・・』とケネディは考えた。

その夜、ケネディ兄弟は、危機の十三日を振り返った。最期に兄大統領が言った。

「今夜あたりは劇場へ行くべきだな、リンカーンのように」

リンカーンは南北戦争の勝利を迎え安堵し、くつろぎと安心のうちフォード劇場へ出向いた。そこで暗殺されるのである。ケネディはフォード社の車リンカーンの上で暗殺されるのである。


核戦争の恐怖、キューバ危機を契機に、ケネディは、ソ連と核実験停止条約に向け、平和のための努力を傾ける。ソ連首相への手紙をこう締めくくった。

「・・われわれは、地上と宇宙とを問わず核兵器の拡散に関する問題と、核実験禁止に向かって最大の努力を重ねることを優先すべきだと考えます」

一九六三年六月十日、ワシントンのアメリカン大学の卒業式で、ケネディは平和についてスピーチする。

「・・平和はアメリカの武力によって押しつけられるパックス・アメリカーナ(アメリカの平和)ではありません。また最終的な墓場での平和でもなければ、単なる奴隷の安全性でもないのです。私が言及しているのは本物の平和であります。人生が生きるに値する、人生を生きたいと思う真の平和であります。それは、すべての人々や国々を発展させ、夢を抱かせ、子供たちのためによりよき生活を打ち立てさせる源となる平和です。それはアメリカ人だけのものでありえず、全人類の共通の平和であります。そして、われわれの時代だけ平和でなくすべての時代の平和なのです・・」


『主は国々の民に、判決を下す。彼らはその剣をすきに、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。』(イザヤ2:4)

終わりの日に、新の平和がくるというイザヤの預言である。国際連合本部の玄関にソ連の彫刻が寄贈した「剣を鋤に変える」銅像とともにの聖句が掲げられているのである・・・。


ケネディの演説は続く。

「・・あまりに多くの人々が真の平和は不可能だ。非現実的だと考えています。しかし、それは危険で好戦的な敗北者の宣言です。なぜなら、それは人間の意志や英知の力の無力さを表わします。人類は自分たちでコントロールできない力によって抑えられていることを認めることです。戦争は絶対避けられない。結局、人類は滅亡するという定まった結論に導くからです・・」

ケネディは、心底ではハルマゲドンを信じてはいないのか。聖書は、力ある霊者として、神と、神に敵対するサタン悪魔の存在を明らかにしている。悪魔はイエス・キリストを誘惑した。同じように、人を誘い神を無視させ“パンに生きるもの”として結局、堕落と破滅、戦争に導く。ケネディはこのため、個人としての人間一人一人がどちらにつくかを問うているのである。

サタンに味方するものが武器をとり人間を殺す。それらが集団として平和を破壊し、戦争を生むのである。キューバ危機は、人間が「剣を挙げず」神の側に立ち、一発の弾も発することなく解決できたではないか。

「・・そして、もし今相違点を克服できないとしても、少なくともお互いが多様性を認めるような世界を作る努力はできるはずです。なぜなら、最終的には我々誰もが最も基礎的な共通点を持つからです。

みんながこの小さな惑星に住み、みんながこの同じ空気を吸い、みんなが自分ら子供たちの未来を大切に思っているからです。そして、皆誰でも死んでいく身ではありませんか」宇宙からの視点であり、宇宙飛行士の予告であり、神の思いである。


このケネディの飽くなき平和の願いのスピーチは、カットなしでソ連の新聞に掲載された。ラジオでも放送され米ソ対立の時代にソ連の扱いとして異例なものとなった。

一九六三年七月十五日、米英ソが、モスクワで核実験停止会議を設け、八月五日、部分的核実験停止条約の調印を行った。ケネディはその条約を「平和への第一歩」と呼んだ。

この後、米ソの冷戦はソ連邦の崩壊で終わり、一九九四年一月十四日、クリントン米大統領は、モスクワを訪問、エリツィン・ロシア、クラフチュク・ウクライナの各大統領は、クレムリンでウクライナに配備された戦略核兵器の全面廃棄に合意し文書に調印した。

加えて東欧や旧ソ連諸国のNATOへの漸進的加盟構想「平和のためのパートナーシップ」へのロシアの積極的参加の意志を確認した、と発表した。また「モスクワ宣言」に調印し、五月三十日までに双方の戦略核の攻撃標的を相互に外すことに合意したのである。


<死人の復活>…あってはならない奇跡

一九六二年八月五日、マリリン・モンローが睡眠薬を飲み過ぎ、ハリウッドの自宅で死亡した。


『ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。ダビデは人をやって、その女について調べた・・』(サムエル記二 11:2-3)

ダビデは人妻を愛し、神の前に罪を犯した。その後、正式に妻とし、その子がソロモン王となるが、ダビデの家族は多くの問題困難に満ちていた。


一九六二年九月三十日、一人の黒人学生のミシシッピ大学への入学を、州知事が阻止する。黒人学生が入学を申請したのが一年前。訴訟は最高裁判所で大学が受け入れるよう命令がでた。しかし知事ら大学側は公然と無視したため、連邦政府に強制執行の指示がでていた。

この間、ケネディは司法長官ロバートと、水面下で黒人学生入学のための手をうってきた。知事の行動を信じたがミシシッピ大学に二千人以上の群衆が、暴徒と化し群がった。執行官らは防備し、どうにか二万もの軍隊が投入され平静を取り戻した。

十月一日、ケネディは通学権を保証し一人の黒人学生の権利を守るため、数百人の連邦保安官を派遣して、登校を実行した。

今でこそミシシッピ大学に多くの黒人学生が在籍し、キャンパスでの差別はなくなったはずが、このような愚かしい歴史が秘められている。

ケネディにとって、南部の暴徒や官憲の暴力的反応は、自己の正しさを確信させるものである。ミシシッピ州と連邦政府の対決は、南北戦争以来の深刻な事態である。しかし、人種平等と法の遵守を実行し大統領の権威を高めた。勇気ある人々は、民衆に動じない、真の正しさを実行するのである。

ケネディがミシシッピで示した強気の姿勢は、他の南部の州でも、連邦政府の権力を知らせる結果となった。黒人を閉め出していたサウス・カロライナ州やジョージア州などの大学で渋々、彼らを受け入れ始めた。


『イエスは言われた。「その石を取りのけなさい」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」

イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」・・

そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。

「ラザロよ。出てきなさい」すると死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出てきた。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」』(ヨハネ11:39-44)。

イエス・キリストは既に数々の奇跡ー神の仕事を果たしていた。その頂点が、死んで四日たった人間を生き返えらせることだった。


死んでいた黒人青年は生き返った。それは神の目から見れば、月に人類が降り立つ以上に価値のあることである。


イエス・キリストが、死んだ人間を神の栄光のため復活させた結果、使徒ヨハネはこう記している。

『そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「・・もし、あの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる」。

しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何も分かっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えにいれていない」。

ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。(ヨハネ11:47-53)


ケネディは、「来年の今ごろは、誰が大統領になっているか、誰にも分からない」と側近たちに、話し始めた。


<反対と勇気>…正しい戦いか

アメリカの奴隷解放が発布された。

『一八六三年一月一日に合衆国に対し謀反の状態にある州、または州の一部で奴隷として保有されているすべての人は、以後永久に自由となる。

合衆国政府はこれらの人々の自由を認め保護することとし、これらの人々が実際の自由を得るために行う努力を抑圧するようなことをしてはならない。』

新聞発表して三カ月がたち、宣言文に正式署名するリンカーンは生涯で、今ほど自分が正しいことをしていると感じたことはなかった。喜びに手が震えた。

『この法令は米国憲法の保障する正義の法令であり、軍事上の必要にもとづくものであり、全人類の慎重な判断を仰ぎたい。また全能の神の慈悲ある恵みを願うものである。

一八六三年アメリカ合衆国第八七年一月一日 ワシントン市にて アブラハム・リンカーン

国務長官ウィリアム・H・シュワード』


今だ、南部との戦争は続いている。この戦争に北軍が勝利しなければならない。三百五十万人の哀れな奴隷の解放のためにも。

奴隷解放宣言は、制度反対者を喜ばせた。黒人たちは与えられた自由に涙を流し、神に感謝した。海外からも奴隷解放は讃えられた。

しかし、この奴隷解放宣言は連邦に忠実な各州の奴隷はそのままであり、完全な解放ではなかった。

翌年一八六四年四月八日、リンカーン大統領の合衆国全土における奴隷制度の廃止憲法修正案は、否決された。しかし、次の年一八六五年一月三十一日、修正案は再上程され、可決される。リンカーンは『奴隷解放の父』となった。

いよいよ勝利を目前にした四月三日、リンカーンは北軍が進攻したリッチモンドを訪ねた。多くの黒人がリンカーンをとりまき、メシア、あるいは神様のように彼に膝まづく。

「私にお辞儀してはならない。崇拝は神にのみ向けられるべきだ。自由を与えられたことを神に感謝しなさい」。

「戦争はまだ続いている。私の考えた通りにできたのなら、この戦争はなかった。しかし、神はご自分のもっと賢明な目的のため許しておられるのだ、と考えねばなりません。私たちの知恵は限られており、この全地を創造された神がやはり世界を支配しておられるのだと信じぜざるをえない」。


『「見よ。わたしはすぐ来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである」。これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい』(ヨハネの黙示録ニニ:七-九)。

ヨハネは神の御使いを崇拝しようとした。御使いは神だけをその対象にすべきことを教えた。『この世全体が悪い者の支配下にあるのです』(ヨハネ第一五:十九)


四月九日、南軍のリー将軍は、北軍のグラント将軍に降伏し、南北戦争は終わった。


一九六三年二月二八日、ケネディは、公民権関係の法案を議会に提出した。

三月、ケネディはベトナムが泥沼の大惨禍になりつつあるのを予感し、米軍の撤退を考えていた。

四月二日、アラバマ州バーミンガムでキング牧師らの人種差別反対デモをはじめ、五月、六月、公民権に関する暴動が、バーミンガムから、北上し広がり百カ所近くで発生する。

弟ボブはいずれ神父になる。弱いものに対する愛をもっているからだ。家族の誰もがそう思っていた。差別の苦しみにある黒人を助けなければならない。そうする政治家こそ真に『勇気ある人々』に数えあげられる。弟の司法長官ロバートは兄ジャック大統領を懸命に説得した。

ケネディら司法省は、法案を修正し、人種的障害のすべてを弾劾するようにした。

六月十一日、ケネディは、黒人入学を認めていない最期の州、アラバマ州知事に対して命令を出した。二人の黒人学生を拒んでいたアラバマ大学の学籍簿に加えるよう命じた。加えてアラバマ州兵を連邦軍に編入した。テレビを通し切実な訴えを全国民に行う。

「We are primarily confronted with a moral issue. It is as old as Scirpture and as clear as the American Constitution.-私達は今、道徳の問題に直面しています。それは『聖書』に同様古くから記され、アメリカ憲法に同様明かにされています。・・」

「リンカーン大統領が奴隷を解放して既に百年が経過しました。しかし、いまだに彼らの子孫は、完全に解放されていないのです。・・」

「すべてのアメリカ人は人種や皮膚の色に関係なく、アメリカ人である特権を享受するのです。・・」


『これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国のひとであっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。』(使徒十:三四-三五)

ユダヤ人の使徒ペテロにとって、別の人種と近づきにはなれないなか、初めて異邦人を神が受け入れられたことを知った。


ケネディのスピーチは国民に大きな反響を巻き起こした。リンカーンに継ぐ『第二の奴隷解放宣言』とも言われるものである。黒人差別は大学だけでない。一般社会での差別がもっと大きいのだ。人種差別問題はアメリカが直面する最大の国内問題である。取り分け南部出身の議員は民主党も共和党も一斉に法案反対の体制をとった。ケネディは黒人の「復活」を願い、法案の議会通過に全力をあげる。それは次期の大頭領選挙で南部の票田を確実に失うことでもあるのだが・・。

『我々がどのような職に就こうとも、その正否を決める判断基準は、次のような四つの簡潔な質問に対する答できまると思います。

第一は、我々は真に勇気ある人間でしょうか、ということです。本当に敵に立ち向かう勇気があったでしょうか。また、自分の同胞のために必要なら自分を犠牲にして立ち上がる勇気があったでしょうか。世間の圧力に屈しない勇気、そのうえ自分の私利私欲にも屈しないという高潔な勇気があったでしょうか。

第ニは、我々は真に判断力ある人間だったでしょうか、という質問です。

第三は、我々は真に誠実な人間だったでしょうか、ということです。

最期に、我々は真に献身的な人間だったでしょうか、という質問です。』


『「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が私に対して何ができましょう。」』(ヘブル十三:六 伝道者パウロが語った言葉)。


ケネディは議会に法案を送り、こう言った。「・・ただ、なりよりもそれが正しいことだからなのだ」。

六月十七日、アメリカ最高裁は、アメリカの公立学校で、主の祈りや聖書の一節を読み上げることは、憲法違反にあたるとした。

公民権法案の実現に向けて、ホワイト・ハウスで、ケネディと弟ロバートは、財界、労働界、法曹会、教育界、宗教界などの援助をとりつけた。公民権運動の指導者の会合の終わりに、ケネディは自分の心情を、シェークスピアの「ジョン王」のなかから表す。スペインのブラーンシュのせりふを引用して苦悩の自分の姿を読み上げる。

『太陽は血の色に染まっている。美しい日よ、さようなら。

私はどちらの側に味方しなければならないのか。

実際、私はどちらの側にもついている。どちらの軍勢にも手を伸ばしているのだ。

だから、両軍が激しく争えば、両方につながっている私の体はばらばらになる。心も引き裂かれてしまうのだ。』

夏の暑い日。ホワイト・ハウスに学生連邦議会ボーイズ・ネーションの一行が訪ねてきた。ケネディは挨拶するため出て、青年らと握手した。そのなかの一人の学生は、バプテスト教会の牧師か、ミュージシャンか、教師になろうと思っていた。しかし、ケネディは、その青年が自分と一緒に写った写真を大切に持ち、自分との握手で政治家を決意し、三十年後に自分の死について「単独犯だ」と語る大統領になるなど夢にも思うことはなかっただろう。


<幸いなる民とは>…自由による壁の崩壊

一九六三年八月二十八日、マーチン・ルーサー・キング師ら穏健派の黒人指導者たちがワシントンに集まった。ケネディの法案通過をめざしデモを始めるのだ。ワシントンで人種差別反対の「大行進」をこれから仕掛けるのだ。

行進は白人も加え二十数万人の黒人が参加した。整然とした奇跡の行進。小競り合いがみられない。勿論、傷害者もない。騒乱がない大行進がいよいよその日のクライマックスに達する。

リンカーン記念堂の前の大群衆。集まりが秩序あるなか、十人の代表がスピーチを行う。後に暗殺されるマーチン・ルーサー・キング牧師は、瞳を輝かせた多くの同胞に向かってこう語る。

「・・・私は夢見ている。四人の小さな私の子供たちがその皮膚の色ではなく、その中味の人格で判断される国を。そこに住める日がくることを。・・・自由の鐘を鳴らす。その時、私たちはすべて神の子となる。黒人も白人も、ユダヤ人も異教徒も、プロテスタントもカトリックも、手を取り合って共に黒人の歌を歌うことができるよう、その時を早めることができる。

『やっと自由になった! やっと自由になった! 神に感謝する。私たちはやっと自由になった。』と」。

二十数万の聴衆は感動する。泣きじゃくる者もいた。熱い夏の日は頂点に達した。

九月に入り、大行進とは別にアラバマ州バーミンガムで人種暴動は続く。十五日、バーミンガムで教会が爆破され、黒人青年が射殺される。各地で抗議集会がもたれた。

この二ヶ月後、また、公民権法案が下院法務委員会を通過し、下院規則委員会にまわされた翌日であった。ケネディの暗殺が起こったのである。

ケネディの死は地球的な悲嘆を産みだした。それが「見えない力」となり、公民権法は一九六四年七月に成立した。ここに法による黒人差別待遇はアメリカ歴史上、初めて撤廃されたのである。黒人は<復活>したのである。

約百年前、一八六四年四月八日、リンカーン大統領の合衆国全土における奴隷制度の廃止憲法修正案は、否決された。そして、翌年一八六五年一月三十一日、修正案は再上程され、可決された。この時、奴隷は解放されたのである。しかし、実際は今まで『死んでいた。』と言えた。


一九九五年十月十六日、クリントン大統領のもと、ワシントン議会の広場で黒人イスラム団体主催の「百万人大行進」が行われた。主催者「ネーション・オブ・イスラム」の指導者、ルイス・ファラカンは「いまなお二つのアメリカが存在する。黒人と白人に隔てられた不平等な社会だ」と指摘し「黒人社会の犯罪や麻薬中毒や家族虐待と決別し、経済的に精神的にも自立する生活」を訴えた。反ユダヤ主義などで知られるファラカンはユダヤ人に対して対話を呼びかけた。

このとき、テキサス州を訪問中のクリントン大統領はテキサス大学で演説した。その先に世紀の裁判とまで言われた「0・J・シンプソン裁判」はテレビ中継で全米が釘付けとなりニューヨーク・タイムズ紙が「国が止まった」と伝え、無罪判決では白人と黒人の間で評価が真っ二つに分かれ国家的亀裂が生じたことにも言及した。そして「人種問題は、黒人みずから勝ち取った進歩にもかかわらずなお存在する」と認め、黒人と白人の融和を訴えた。

しかし、相互が相手を批判する場面も人種問題の真の解決はなお遠いものであることが理解された。この「百万人大行進」は一九六三年のケネディ政権下の「公民権大行進」を上回る規模で、警察当局の集計発表では約四十万人であった。人種間の融和を訴え、白人の指示者も多かったキング牧師と異なり、人種対立をあおるイスラム伝道師ファラカンの人気を必ずしも示すものではないといわれた。


一九六三年の、この間、六月ニ十日、米ソ間で直通ホット・ライン協定を調印した。

同二十三日、西ドイツ・ベルリンを訪問。西ベルリンの市役所の外で、十五万人の群衆が集まった。


『・・群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。』(マタイ十:三六)イエス・キリストは真理を知らない彼らを哀れに思った。


ケネディはベルリン市民の大歓迎をうけ彼らに演説をする。

「二千年前、最も誇りを持てる身分といえば、『キヴィス・ロマナス・スム(私はローマ市民である)』ことでした。今日、自由世界で一番誇りを持てる身分は、『イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー(私はベルリン市民である)』ということです。・・」大歓声とケネディ・コールが起こり中断する。涙を流す人もいた。大音響の合間をみて、すべての人にベルリンにきて現実をみるように呼びかけた。そして自由について説く。

「・・ベルリンの壁は、共産主義体制の最も明かな失敗です。それを全世界にみせつけています。・・歴史に対する罪です。それだけでなく人間性に対する罪です。家族を引き離し、夫や妻、兄弟姉妹を隔離しています。共に生きたいと願う人々を引き裂く。これを人間性への挑戦と言わずして何と言えるでしょうか。・・中略・・

自由というものは決して分割されえないのです。一人の人間が奴隷としているなら、すべての人が自由ではないのです。

すべての人が自由になる時、このベルリンもドイツ国家もそしてこの偉大なヨーロッパ大陸も、平和と希望に満ちた世界でひとつになる日がやってくるでしょう。その日は必ずやってきます。・・」


『この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「心の貧しい者は幸いです。その天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。・・』(マタイ五:一-五)イエス・キリストの山上の垂訓である。人類史上最高の“演説”とされる。

イエス・キリストは自由について後でこう説明する。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら…弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』(ヨハネ八:三一-三二)この自由とは何か。


一九六三年七月ニ十五日、米英ソ三国はモスクワで核実験停止会議の後、部分的核実験停止条約に仮調印した。

その二十六年後、一九八九年八月、東ドイツ市民が、ハンガリーやオーストリアから西ドイツに集団脱走した。同年十一月、東ドイツは国民の移動制限を全面撤廃した。ベルリンの壁は撤去を開始され崩壊した。一九九○年十月、早くても西暦二千年と言われた東西統一が予想を超え、統一されたのである。『柔和なものが地を相続した』。

しかし、後で触れるがイエス・キリストの預言において国が分裂すべき時代に、急いで逆に民族の統一をしたドイツは、内部に多くの問題を抱えることになった。そして、ヨーロッパの統合を目指したEUも二〇一六年国民投票でイギリスはEUからの分離独立を選択した…。


一九九四年七月十ニ日、ベルリンの壁が崩壊して初めてアメリカ大統領として訪問したのはクリントン大統領だった。「自由を封じ込めることは誰にもできないことを証明した」とベルリン市民の勇気を讃えた。人種、民族、宗教で分断するものを拒否する自由と民主主義の尊さを訴えた。それはケネディ大統領の演説を意識したものであり、ドイツ語で米国は常にベルリンの市民とともにあると締めくくり市民の喝采を浴びた。


<崩壊と勝利>…真の勝者は誰か

一九六一年一月二十日、ケネディが大統領に就任したとき、ベトナムには四千人以上のアメリカ軍事顧問が駐留していた。

一九六三年六月十一日、サイゴンの繁華街で一人の老僧が抗議の焼身自殺を遂げた。炎に全身を包まれている僧侶。見る人自身の肌を焼け焦がす凄惨の写真が世界を熱くして掛け巡ぐる。この衝撃的で言語に絶する、劇的な写真は、国際的な注目を集めた。正にこのためある筋が事前に画策した、ということであると言われた。

一人の僧侶の焼身自殺を契機に、サイゴンの街に火が付いた。学生やカトリック教徒も人民の抗議行動に加わり、火に油を注いだ。にも係わらず政権の座にあるゴ一族は、アメリカ政府の警告を無視する。横暴な政治支配を少しも改めようとしない。

一九六三年八月七日、ケネディに三番目の子供が生まれる。呼吸障害をもっていた。保育器に入れられる。ケネディは急いでボストンの病院を訪れた。夜は父となり子供の側で眠る。起こされた。真夜中だった。

深夜の悲しみが深まる。三十九時間十二分の命だった。涙した・・・。墓地に葬る時も、涙を見せた。妻を優しく慰める。次男の棺を揺すってケネディも泣いた。


『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。』(伝道者の書三:一-二)ケネディが好むソロモンの書を口ずさむ。


ケネディは、大統領の栄光においてさえ我が子を救えなかった。『この地上では、神の仕事は、まさしく、我々自身の仕事でなくてはならないのです。』大統領の就任式において強力な神の力を手にいれ発揮することを宣言したのではなかったのか。わが子の命さえ救えない。死んだものを復活させることができない。地上の最高権力とは何なのか・・・。

ソロモン王の言葉の意味を噛みしめる。神、そして神の子イエス・キリストに頭を垂れる。わが子次男の儚い命に、ケネディ自身が以後「死」に取り付かれたようになったのである。

ケネディは半年前、長男ジョンが二歳半のとき、訪問客に「タカイ、タカイ」をしてくれるよう仕切に頼んだ。長男ジョンが好きなのだが、自分は背中が痛くてできないからだ。そのときこう言った。

「わからないが、この子をおんぶしてやれる前に、この子が自分をおんぶしてくれるだろう」。

ヨットの上でも弟ボブと親友と三人でいると、突然「私が殺されたら、ジョンソンはどうすると思うか」と尋ねた。

その後、卒中で倒れた父親の話で「死ぬとしたら、どんな死に方がいいか」と友人の質問に少し考えて、こう答えた。「そう、銃だ。何が当たったのか分からないから。銃撃されるのが一番だよ」。


百年程前、一八六二年二月、リンカーンの三男ウィリアムは、十一歳だった。

人形にジャックという名を付けていた。子供らの遊びで、その人形が死刑の宣告で射殺されることになった。植え込みに墓を掘ったところ園丁が「大統領閣下の恩赦」を提案した。実際、ホワイト・ハウスの事務官に子供らは恩赦を求めた。事務官は大真面目にその頼みを聞いて便箋に書いてやった。

「人形ジャックを赦免する。

大統領A・リンカーンの命により」

その後、ウィリアムは風邪を引いた。それが原因で死んだ。リンカーン夫婦は次男に続き三男も失った。夫人の心は病み、リンカーン自身もこの悲しみから立ち直ることが出来なかった。


一九六三年八月二十一日、南ベトナムで、南ベトナム軍の特殊部隊が、仏教寺院を襲う。仏像を壊し、仏教徒を殺し、千四百名以上を逮捕した。

アメリカから新しい大使が送り込まれた。新大使は、弾圧を止め経済や社会改革に取り組むケネディのメッセージを伝えたが、無視した。

新大使は着任早々、本国にクーデターの可能性を打電した。しかし、南ベトナム政府は、弾圧政策を続け、それに対抗する力は容易に結集されることはなく、結局予定されたクーデターは起きなっかった。

一九六三年九月二日、ベトナムの戦争について、ケネディはテレビの記者会見でこのように答えた。

「現地の政府が人民の支持を得ようともっと努力しなければ、あそこでの戦争は勝てる見込みはないと思います。究極的には言えば、それは彼らの戦争なのです。・・・そして、私の意見では、この二カ月の間にベトナムの政府は人民から遊離してしまった状態にあります。・・・」

これは、かつて就任早々起こしたキューバ侵攻を見限った見解と本質は同じと言えるだろう。


 『悪を行うことは王たちの忌みきらうこと。王座は義によって堅く立つからだ。正しいことばは王たちの喜び。まっすぐ語るものは愛される。王の憤りは死の使者である。しかし知恵のある人はそれをなだめる。・・・高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』(箴言十六:十二-十八)

 過去この諭しの通り多くの国家主権者が倒れていった。


ケネディはいつも義と公正を求めようとしてきた。

九月二十七日、南ベトナムの国会選挙はゴ・ジ・ジェムの圧勝に終わったが、その南ベトナム政府はいずれ必ず崩壊する。しかし現政権を切り捨てることは、今以上の混乱を招く恐れがある。建て直しの新しい体制と方策が必要であることが認められた。

やはり南ベトナムの将軍達は再びクーデターを画策し始めた。

十一月一日、正午、南ベトナムの軍隊が集結し、クーデターが開始される。二日、政府側の要人ジェムらはあっけなく逮捕された。装甲車で統合参謀本部へ運ばれる。その途中、射殺されたうえ、遺体は憎悪を以て切り刻まれたのである。

一九七一年、アメリカのマスコミで、ジェムらの殺害は、ケネディ大統領が命じたと情報が流れた。しかし、一九七五年、上院ウォーターゲート調査委員会は、ケネディのイメージ・ダウンを図った陰謀であることを明かにした経緯がある。

サイゴン市民は、独裁者の死を歓呼して迎えた。横暴な支配は終わった。ゴ一族が人民を虐げて築いた建物は破壊され、一掃されていく。四日、希望を持たせる新しい臨時政府が成立された。しかし、南ベトナムは、既に人心は乱れ荒廃していた。以後、混乱が増し加わっていく。実に、二十カ月に十三回ものクーデターが起こる。それに乗じて敵勢力ベトコンの攻勢は急激に拡大していった。

ベトナム戦争は、ケネディが殺された後、アメリカを密林のなかへさ迷わせ誘い込んだ。後任のジョンソン大統領は、限定戦争から、泥沼の果てしない戦争へとエスカレートとさせていった。アメリカ全体がどっぷりと火の中にはまり込んだようになった。

これは、聖書の記録ではイエス・キリストの教えを拒み死に追い込んだ、時のユダヤ体制者が自らの体制崩壊、ローマ帝国の反撃の悲劇を招いていったユダヤの歴史と同様、ケネディを殺害したアメリカの歴史が受けるべき『体制崩壊への道筋』だったのか・・・。


一九六五年二月、アメリカは勝利を確信して、大戦闘部隊を投入し北ベトナムの爆撃、いわゆる“北爆”を開始した。

一九六二年、六五年、六八年、六年間に三回宇宙から地球見た、宇宙飛行士は、大気や海洋が汚染され、地球の青さが汚濁変化していく状況を憂いた。

地球の青を象徴する海。大洋を航海している船の航跡がくっきりよく見える。ベトナム上空では、戦火が見える。闇夜の死闘がまるで花火のようだ。その美しい輝きのなかで多くの生命が奪われ自然が破壊されていった。

ベトナム戦争は、アメリカの現代史の悲劇であり、汚点である。今なお、枯れ葉剤の毒性は、DNAを破壊し、奇形や異常の子供を生み出しているのか…。九年後の一九七三年一月の終戦の後も、両国の人々の心と歴史に悩み深く刻まれている。戦時中の間、死者五万五千人、負傷者二十万人、総出費二千億ドル、米国の国内経済は破綻した。小国によってアメリカは初めての敗北感に打ひしがれたのである。

宇宙飛行士は実感として語る。神のように、神の使いのように、この地球という惑星から間違いなく三度も離れた人間が言った。

この地球以外、我々人間はどこにも住む所がない。それなのに、この地球のうえでお互いに戦争し合っている。これは実に哀れなことだ。


一九九五年四月、「ベトナム戦争は完全に誤りだった」と当時の国防長官マクナマラは『回顧・ベトナムの悲劇と教訓』のなかで終戦ニ十年目に告白した。ケネディ大統領に請われ高給を振り捨て国防長官となり、一九六八年のジョンソン政権に至るまでベトナム政策の中心的役割を果たしてきたが「もっと早く撤退すべきだった」と反省回顧した。ベトナム戦争に反対し徴兵忌避をしたクリントン大統領は「わたしの行動の正当生が証明された」と発言し戦争で犠牲を強いられてきた人々が激怒した。

一方、太平洋戦争終結五十年目にあたるこの年、クリントン大統領は時期を同じくして、テキサス州のダラスで講演した。そのなかで、広島、長崎への原爆投下について米国は謝罪する考えがなく、投下を決定したトルーマン大統領の判断も正しかったと見解を表明したのである。このときは会場から大きな拍手がわき起こった。

 二千一六年五月、G7伊勢志摩サミットで訪日したオバマ米国大統領が初めて広島を訪問した。しかし謝罪はなかった。



五・暗殺-勝利

(追って掲載)

頭書同タイトル(その1)ご参照

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