10.むかしむかし
あるところにいた、平凡な夫婦。研究者気質ではあるものの、妻子を何より愛する男と、お嬢様気質で大人しく少し世間知らずな女。
そんな二人に子が産まれた。一人目は父親によく似た長女。そして、二人目は。
「あ、あら。奥さんいらしたの」
先程までくすくすと盛り上がっていた会話は波が引くように終わり、井戸周りはあっという間に誰もいなくなった。噂の主の彼女を残して。
『あんなに大人しそうな顔をして不倫だなんて』
『ああいうのの方が案外裏では色々やってるもんなのよ』
『やだやだ、うちの旦那なんかすぐに騙されそう』
唇を噛みながら水を汲む。ただ、そこへ落ちる雫だけは、なかなか止められなかった。
「不倫なんて……してないのにっ」
していようがいまいが、家へ帰れば現実が待っている。自分に似た容姿を持っているというのに、家族の誰にも似ない、深い蒼色の瞳を持つ赤子。
これが、この前産み落とした彼女の二人目の子供だった。
「どうして……どうして」
夫が調べてくれはしたものの、二人の先祖を遡ってみてもそんか瞳の色を持つものは誰もいなかった。となれば、考えられることは一つではあるものの、彼女はそのような不貞行為はしていない。
「あぅ、あー……」
それでも。子は何も分からない。分からないまま、母親を求めて手を伸ばす。それを、彼女は反射的に振り払った。
「触らないで!」
言ってすぐ、気付く。
「あー……」
「ごめんね、ごめんね。フィー。貴方は悪くないのに。ごめんね……ごめんね」
我が子を抱きしめて、自分が守らなければと思い直して。それは分かっているのに。それでも。
気持ち悪い。
深い蒼色の瞳に見つめられて、彼女の心に巣食う歪な想いは、形を変えながら日に日に増していった。
◇ ◇ ◇
「ここを出よう」
あれからしばらく経って、子の瞳の色はますます不気味なものに映り、それを見た隣近所の噂話が過激さを増していく中で、彼女の夫は提案した。
「でも……家も、買って。貴方はずっとこの街で暮らしてきたのに」
「そんな些細なことはどうでもいいさ」
それにね。と夫は優しく微笑む。
「この歳になって呆れるかもしれないけれど、僕は冒険もしてみたかったんだ」
自分を気遣ってそう言ってくれる夫が愛しくて、彼女は泣きながら、一年振りに笑顔を見せた。
その頃、彼女はすでに赤子の世話をできる状態にはなかった。代わりに、夫と三歳の姉が頭を下げて分けてもらった山羊の乳やパンをお湯に浸してすり潰したものを与えて、なんとかその子供は生き長らえていた。
そして、子が母親から愛情を注がれていないことに気付くまで、そんなに時間はかからなかった。
◇ ◇ ◇
「本当……ですか?」
「ええ。私も実際に会うのは初めてです」
家族で旅をする中で、その老人に出会ったのは四年目のことだった。
先見の瞳。
老人が語った特殊な瞳。遺伝せず、突然変異で現れるが故に知るものは少ない。我が子がその瞳の持ち主だと知ることができた頃には、母と子の溝は修復不可能なほどに広がっていた。
誰も悪くはなかった。
悪くはなかった、はずだった。
ただ、間違えただけで。拗れて、拗れただけ。それをすぐに直すことができない。それだけだ。
「君、フィーくんと言ったかな」
「はい」
極端に笑顔が少なく、この歳ですでに独りで生きているような不思議な少年に、老人はある魔法を伝えた。
一つは認識阻害魔法。
目立つ瞳の色の認識を阻害することで、先見の瞳を隠すことができる魔法。普通の少年として暮らすことのできる魔法だ。そして、もう一つ。
「先見の瞳は幼い頃には安定しないものらしくてね。簡単に言うと見えたり見えなかったり。自分の思い通りにならないし、見たいものも見えない。別に見なくても良いものが見える時もある。そんなものだ」
そんなもの、なのに。
「未来を見て、それを変えられるような力を欲しがる者も多い。……同じくらい、迫害する者もいる」
「もし、よろしければ」
齢五歳の少年は、会ったばかりの老人に希う。
「独りで、生きていける方法を教えてください」
平凡な夫婦にそれに見合った子供。異物がただ一つ紛れ込んでいることは、彼が誰よりも分かっていた。
その言葉に、今すぐにでも家族の下を離れそうな少年に、老人はただ首を振る。
「君は、独りになんてなれやしないよ」
愛に飢えた少年に、老人は優しい魔法を教えた。
人から愛される魔法。
唱えるのは五文字の言葉。それを言うことができれば、きっと、彼は幸せになれるだろうと。
彼がその言葉を唱えるのは、それから三年後のことになる。
◇ ◇ ◇
調べさせた内容は、あまり後味の良いものではなかった。ため息の代わりに資料の最後の頁を机に投げる。
「彼の母親の様子は?」
「変わりありませんよ……まだ、父親と姉と三人で暮らしている、ように振る舞っています」
修復をしようと、なんとか忌み子を愛そうと努力していたらしい彼の母親は、聖女急死後の山火事で夫と長女を亡くしてからずっと、夢の中で暮らしている。
毎日自分と夫と子供の三人で暮らし、親を亡くした『近所の二人の子供』の世話をしている平凡な母親として、生活を続けている。
「一応様子を見に行くこともあるのですが、こちらがおかしくなりそうでしたよ。一人分の配給を毎回もういない夫と子供に取り分けて捨てているんですから」
それでも、夢の中で暮らす彼女は果報者だ。現実に取り残された者の存在など、露ほども気にしなくて良いのだから。
「リアン様がいなければ、彼はどうしていたんでしょうね」
「さあな。ただ、今は聖女の近衛騎士だ」
十二歳で成人している。とはいえ、あの知識量はそう簡単に身につくものではない。きっと、先見で見えないものも見えるように、独りでも生きていけるようにと必死に足掻いて得たものなのだろう。
「正式に私の配下に加える。彼には明日にでも伝えよう」
「勝手に決めて第二王子に怒られませんかね」
「構わん。どうせ当分こちらには帰ってこないだろうしな」
「避難先の視察でしたっけ。第三王子が分担してくれればもっと早いでしょうに」
聖女急死以前から部屋に閉じこもる第三王子。彼には彼なりの考えがあるのだろうが。
「丁度良いな。少し刺激してみるか」
「俺の部下になるんですから、あんまりいじめないであげてくださいよ」
そうして、段取りを考えていく。負担を与えてはいけないが、ある程度負荷はかけておいた方が良いだろう。そろそろ扱いにも慣れてきた。彼はこの先も役立ちそうだ。鍛えておくに越したことはない。
「と、こんな感じでどうだろうか」
「三日で過労死させたいならこのままで大丈夫かと」
「なるほど。三日も余裕があるのか」
「話聞いてました?」
「無論。聞いた上での発言だ」
顔を引き攣らせる彼に追加で第三王子の件も伝えておく。
「近衛騎士の業務の範疇を超えている気がしてならないのですが」
「案ずるな、これは遊びの範疇だ。気楽にやってもらって構わない」
一通り業務内容を伝えた後。
「とはいえ、休暇も必要だろう。城から出ても良いが」
「いえ、部屋で寝かせていただければ」
いつもの挑発するような言い方もせず、はっきりと帰らない意思を示す。
そうだというのに、彼の瞳を見れば。
深い蒼色を隠すだけで良いはずの色は、
彼の母親と同じ色をしていた。




