絹居さんのお家 3
綾子、という名前にはどうしても胸の弾みを抑えられなかった。
「・・・・綾子さん」
口にすると胸の弾みが不気味に歪むのを感じる。
綾子は前を行きながら「はい」とだけ返事をするので、続ける。
「あの、お父さま、すごく優しいんですね!私なんかにこんなによくしてくれて」
「父は人が好いので。」
とだけ返ってきた。人が好いから私のような平民にも優しい、とでも言いたげな言いぶりである。
何かこう、淡白な対応の裏にチクチクと霜のような棘を感じるのは気のせいだろうか。
また少し黙って歩く内、節一つ浮いていない板張りの廊下からは渇いた木のいい匂いがして、少しだけおじいちゃんの家を思い出した。
久しぶりに耳にする名前と、微かに懐かしさの染み出してきて、意味の無い勇気が湧いてきてしまう。
思い切って言ってみようかと、
「綾子さんの名前って」
「はい」
「お母さんと同じ名前なんです」
そういうと、綾子は足を止めて半分だけこちらを振り返った。
思えば、目が合ったのは門で初めて会った時以来かもしれない。
「依子さんのお母様ですか」
特に感情の感じられない目で見つめながら綾子さんが言う。
そう、綾子というのは、私の母と。
四年前に亡くなった母と同じ名前で、胸の中がなんとも言い難い、ふわふわした感じになる。
「はい、なので、っていうのも変な話なんですけどね、綾子さんにとってはどうでもいいことだと思いますけど、名前を聞くとちょっとドキッとしちゃって」
自分でも余りにも栓の無いことを言っていると思い、恥ずかしくておでこを掻いた。
綾子はそんな私を少しだけ見つめてから視線を外し、歩きながら「私は気にしませんよ」とだけ言った。
後に続く間、変なことを言ってしまった事もあってむずむずする。正直後悔している。
物珍しげに、実際珍しい物なのでキョロキョロと辺りを見ながらついていく途中。
庭の奥に大きな一戸建てのようなものが目に入った。
「綾子さん、あれなんです?」
と話題の欲しさのあまり指を指して食いつくと
「蔵ですよ。この家で使わない物、稀に使うけれど普段邪魔になるものを入れてあります」
地元にも大きな家がいくつかあって、その中にはああいう蔵を持っている家もあったけど、こんなに立派な外観と大きさの蔵は初めて見た。真っ白な土壁が太陽の光を吸ってほんのわずかに橙色に染まっているのが、どこか懐かしさを感じさせた。
と、聞いてはみたものの「へぇー」以外の感想はなかなか出ないモノで。
このまま部屋まで特に会話が無いまま粛々と進む事に、いやもうこの際黙ってた方がいいのかもしれないし、綾子さん、おしゃべり好きじゃなさそうだし。でも黙ってるのってこう、落ち着かないのである。
視線を走らせて無意識に話題を探す。
たくさんの、一見質素な襖に描かれた豪奢な動物や風景の描画を通り過ぎる。
見上げれば欄間には緻密な彫刻が連綿と続き、室内から廊下に漏れ出る光が植物や竜などの繊細な様相を裏から照らして黒く影でもって刻銘に浮き立たせている。
と、突き当りに至って綾子さんが右に曲がる。
何気に行かない方の廊下に目をやると、少し奥にずいぶんと重そうな扉があった。
どう見ても普段開ける事を想定された造りではなく、どちらかと言えばそう、蔵の扉と言うべき重厚さだった。
取っ手もあの丸い輪っかが両開きの戸にそれぞれ付いているし、間違いなさそうで。
気が付くと足を止めていたらしく、綾子さんが振り返って私を待っていた。
「ごめんなさい!なんか気になって」
慌てて向き直って綾子さんに歩み寄ると、彼女が意外な事を言う。
「見てみたいですか?あの蔵」
さっきまで、あんなに素っ気なくて。私の意志はおろか綾子さん自身も義務の上でしか行動していないように見えていた分、急に提案してきたことも私の意志を確認してきたことも、唐突で奇妙な行いなように見える。
とはいえ、正直興味があると言えば興味はあるもので、
「あそこもさっきの蔵と同じなんですか?」
と、話題が広がりそうになった事がうれしくて聞いてしまう。
「いえ、あそこのは外の蔵と違って、母屋から直接入る事の出来る蔵で、私たちは「奥の蔵」と呼んでいます」
「じゃあ、さっきの蔵とは別なんですね。なんか母屋から直接入れるようになってるくらいだから、アレですか?やっぱり外の蔵よりよく取り出す物が入れてあるんですよね!」
「……いえ、そうではないのです」
と綾子さんはかぶりを振る。
「奥の蔵」の扉を見る目をすっと細めた綾子さんは、その眼差しのまま私を見て
「依子さん。もし、とても気性が荒くて、放っておくと手当たり次第にひっかき、人に噛みつくような犬がいるとして、あなたならこの犬、どう管理します?」
唐突に質問をしてきた。
意図がよく分からず、ただそのまま思った事を
「えぇ?!えーーっと、危ないし、やっぱり家で鎖に繋いでおくしかないんじゃないですか?それに人が入ってきた時に飛びつかないように檻に入れるとか。そうそう!近所のマルチーズがもうタチが悪くて、遠くから見てる分にはかわいいのに、近づいて撫でようとすると途端に吠えながら噛みついて来るんですよ!あれはあれで臆病だかららしいですけど」
「あの「奥の蔵」はこの屋敷のほぼ中心にあるんです」
遮られた。
脱線はお好きでないらしいので今後は控えます。
「仰る通り、危険なモノなら檻に閉じ込めておくしかないんですよ」
と先ほどと似た視線を「奥の蔵」に向けている。
その瞳の色は、どうもさっきまで私に向けていたモノとは少し違っていて。
もっと冷ややかなものに見えた。
「あの、具体的に何が入ってるんですか?」
もう思い切って聞いてみる。なんというか、こういう冷淡な態度の人がこんなにもったいぶった話し方をすることには違和感があるし、もう普通に気になってきた。
「ええ。何がという事はありません。着物が納めてあります」
着物。
ここは呉服屋さんのお宅なわけで、何も不思議では無いし単なる巨大なウォークインクローゼットみたいなものってことじゃあないのか。
剛毅な事ではあるけれど、それ自体はそれほど特別な事のようには思えないかな。
「そして」
冷たく沈むような瞳もそのままにほとりと呟く。
「そしてね、とても怖いモノが出るんですよ」
そう付け加えた。
正直な所を言えば、少しだけ呆れたというか、こんな聡明そうで綺麗なお嬢様も、そういう話題が好きな物なのかという、拍子抜けのような、やはり女の子なのかという安心感もまた感じられた。
思わず漏れる笑い声もそのまま、
「またまたぁ、私よっぽど怖い話じゃないと怖がりませんよぉ?」
沸いてくるケラケラとした笑い声を抑えることなく告げる。
普段巷で聞く怪談以上の体験をしている身としてはこれは正直な感想です。
以前テレビでやる恐怖映像や心霊ドラマを友達と観ている時に、開けた扉を閉めた時にその扉の裏側にさっきまでいなかった恐ろしい姿の霊がいた!なんてビックリ映像が流れた際に、みんなが一様に悲鳴を上げる中で「あーーあるあるーーー」と思い出し笑いをしてしまってヒンシュクを買った事があるくらいなのだ。
「興味があるなら、中をお見せしますよ?」
と綾子さんが続けるも、私はこれを謹んで辞退する。
ほとんどの場合、火の無いところに煙は立たないモノで、怪談の舞台になる場所にはいつもいつもそういう連中がいる物なのだ。これから住む家にもまた訳の分からないモノが住み着いているという確信を持つには早すぎるような気がする。
もう少し時間が欲しい。
私が愛想笑いで気が進まない旨を伝えている事に察したのか、綾子さんはふっと前を向きなおすとスルリと歩き出す。
「まぁ、いずれあそこに足を踏み入れることになるでしょうが、当面必要になる事も無いでしょう。この家には、あなたが踏み入れてはいけないところなんて特にない。ということですから、あまり気になさらないで」
こちらを振り返らずにそう告げると、綾子さんはさっさと進んでいく。
綾子さんになりに、何か打ち解けるきっかけを作ろうとしてくれたのだろうか。
その為の話題が怖い話というのも、なんというか思いのほかミーハーというか、その口から自然と転び出るにしては軽薄な話題で、もしかしたら私に合わせてくれようとしてくれたのか。女子高生の話題と言えば恋と怪談、とは言い難いけれど。
ともあれ、先ほどの一房さんとの談話の時には特に関わりを持てなかった分少しだけ距離を詰めることができたかもしれないので、良しとしたい。
この春休みの間に少しでも親しくなって、学校が始まる頃にはもっとたくさんお話ができるようになっているといいな。
せっかく一つ屋根の下に暮らす級友なんて中々経験できなそうな関係になるのだから、その仲は良い方がいいに決まっているもの。
先ほどより軽い足取りで綾子さんの後に従う。
その後、部屋までの間にトイレや風呂場、普段ご飯を食べているリビングや今夜一房さんが催してくれるという歓迎会の場所になるという広間の場所などを簡潔に教えてくれた。
…実際のところ、そう遠くない未来に彼女とはそれなりに多くの言葉を交わすようになるが、その内容が自分の生活を大いに変えていくことになるとはさすがに、この時の私にはわかりようもない。