叢雲 4
気が付けば朝。
秀二さんと全市さんがいなくなって、それきり一言も発しなくなった綾子さんと共に取り残されてからしばらくして、音も無く布団に仰向けに倒れ込む綾子さんはすぐに寝息を立てはじめた。
私も私でそれを見届けるとぐらりと頭が揺れるような睡魔に襲われてしまい、八重ちゃんに支えられながら横になった。その時目に入った時計の針が刺していたのは二十一時。現在は十三時なので丸半日以上眠っていたらしい。
隣に目を移しても既に布団すらなく、綾子さんはとうに起きて出て行ったようだ。
私も、と身を起こそうとして全身に電流が駆け抜ける。
枕から数ミリ頭を上げただけで起床は失敗に終わった。
首も手も足も、これが全く持ち上がらない。
「はっ。ったくやっとお目覚めかよ寝太郎が」
部屋の隅から刺々しい声がして目だけ向けると、そこには昨夜の形のまま取り残された金の衣とその一式。
「いい加減畳むくれぇしろや!別に体がどうとかの感覚はねぇけど一晩中変な姿勢で寝たような感じはしてむず痒いんだよなんとかしろ!」
そう言われても起きるに起きられないのだ。
だいたい私は着物の畳み方なんて知らない。
「あんたはなんともないの・・・・?」
「あるわけねぇだろ、大体あの程度の小僧にポテポテはたかれた程度でオレの体に傷なんざつかねぇよ。テメェがヤワ過ぎんだわザコ」
相変わらず罵倒を挟まないと言葉を紡げない難儀なヤツ。
視線を外せば、またも見慣れぬ天上が目に入る。
「ねぇ松割ぃ」
「あ?」
「昨日はありがと、これからよろしくね」
そういえば言えてなかった礼を改めて言う伝える。
このチンピラ妖怪、その態度は大変気に入らないものだけど、結局その助力が有って初めて昨日綾子さんを救うことができたのだ。
その点については全面的に感謝しているし、私は纏異とかいうお仕事を今後していくつもりでいるのだ。だから、「よろしく」とはっきり伝えておく。
何せ、文字通り一心同体で働くことになるのだから。
「・・・・・・・・」
当の松割は何も言わない。
・・・・なんか言いなさいよ。
「・・・・・・・っへ、どうも纏異をやるってのには変わりねぇんだな」
「何、なんか文句あるの?」
私の問いに、口の端を釣り上げる様がありありと浮かぶような喜色を浮かべて松割が応える。
「ねぇ、全く無いねぇ。結局目覚めてみりゃあやっぱこえぇわって手のひら反すんじゃねぇかって思ってたんだがなぁ、やっぱおめぇいい根性してるわ」
「へへへ、根性なら男の子にも負けないからね」
強がりではない。
さすがにここまでボロボロになるほどではないけれど、小学生の時と中一の時、何度か男子相手に取っ組み合いの喧嘩をしたことがある。勿論、いずれも私は負けていない。誰が何と言おうと負けていない。
奴らときたら、大人しそうな子を見つけては「菌回し」なんて下らない遊びに精を出したり、張り出してあるその子の習字の紙を縄跳びで叩いたり、女の子にしたって気に入らない子の机を蹴っ飛ばしたり本当に頭に来るんだもの。
特に中一の時の、いじめられっ子の本(その子の私物の小説だった)をビリビリに破った時はもう許せなくて大暴れした。あいつら三人もいる癖に寄ってたかってそういう事するもんだからぶん殴ったら全員で反撃するもんだから、結果私含め全員の骨折、一人は前歯を折ったし教室が血まみれになる流血沙汰の大事件になってしまった。なんかそのあと校長室で全員謝らされたけど、私はあの件については未だに許していない。
だって、あの子がダメになった本を呆然と見つめてボロッてでっかい涙を溢すのを見たら、とても正気じゃいられなかったもの。
別にその子から感謝されたわけでもないけれど、私はそれでよかったと思う。
だって、暴力がいけない事だっていうのはよく分かっているから。
「へっ、まぁオレとしちゃ久しぶりに体が動かせて随分楽しかったぜ。また頼むわ」
「いいけど、私あくまで人助けっていうか、綾子さんのお手伝いの範囲でしかやらないつもりだからね。もしまたあんたの事着る事になってもさ、もっかい私の体乗っ取ろうとした本当に承知しないからね」
「しねぇしねぇ、埋められるのは流石に勘弁だからな」
イマイチ信用できないけれど、今は機嫌がいいのか悪態もつかずに了承してみせた。
本当のところはともかく、昨夜も私に空の飛び方を教えてくれたり、松割の力の使い方をザックリながら指導してくれた事もある。纏異の仕事に協力するって部分は信頼できる。
そういえば、とチンピラめいた妖に問うてみる。
「そういえばさ、松割ってどんな妖怪だったの?」
「あ? なんだ急に」
「だって、これからは私と一緒にやってくわけでしょ? 相棒になるヒトがどんなヒトなのかって、ちょっと興味あるじゃない?」
正直、鬼縫に封印されて今に至る妖怪にこんなことを聞けば怒鳴り返されるんじゃないかというのが大方の予想だった。というか、前に怒られたもんね。
しかし、意外にも松割はこの問いに嬉々とした反応を示した。
「おぉ? 聞きてぇか? ん?聞きてぇかぁオレの武勇伝聞きてぇかぁーそーかーしゃーねぇーなぁそうだなぁテメェにゃあまぁ聞かせといたほうがいいわなぁ」
聞きたくなくなってきた。
ただまぁ、このお喋りなチンピラがこんなにご機嫌でいるのも多分珍しい。
どうせ体も動かない事だし、寝物語として聞くのは良いかもしれない。
「なんせアレぁ千年妖怪だからなぁ、鬼縫にとッちめられてこんなナリになってから入れても千五百年は大暴れしてる大妖怪様だからよぉ」
「そんな大妖怪がなんでそんな形にされちゃったの?」
「・・・・てめぇまずそこから聞くのかよ・・・・」
さっそく松割の声がしぼむ。どうやら彼にとって自分が討たれた時の話は特に急所らしい。
「じゃあその前から聞かせてよ、その方が面白そう」
「ナァニがオモシロソウだタコ、まぁいいけどよ」
語りだす彼曰く。
松割が、古くは平安京の成立より前から生きてきた事にまで話は遡った。妖はそんなに長生きなものなのか。
「オレ達妖は大抵寿命なんざねぇよ。食うモンと楽しみがありゃあ幾らでも永らえるもんだ」
とのこと。
古くから“雷獣”と呼ばれ恐れられてきたのが松割という妖の種別なんだそうだ。雷雲と共に日本中を渡って悪さをしてきた松割は、散々人々に迷惑をかけては飛び去り、喧嘩を売ってきた妖怪を殴り殺してはまた別の土地へと飛び退りを繰り返していたそうな。彼の語る武勇伝には特に中部から関西あたりの地名が良く出てきた。
「――で、そこいらの妖怪全部ぶっ潰しちまってよぉ、それから何十年かは暇なもんだったなぁ。流石に誰も喧嘩売ってこねぇでやがる」
「そりゃ遭う奴遭う奴黒焦げにしたり八つ裂きにしてたら手下になろうって連中も寄ってこないでしょうね」
「別にお山の大将になりてぇ訳でもなかったからよ、気ままに暴れられりゃあそれで良かったからな。だから大江山の連中にはさすがに度肝抜かれたわ、あいつら妖の癖に群がりやがってよぉ、一個のデカイ妖相手にしてる気分で楽しかったぜ、結局決着つく前に飽きて東に上っちまったがな」
そうして全国で残虐の限りを尽くし、今でいう兵庫県にある赤松を叩き割って降り立った時の姿から「松割」という仇名で呼ばれるようになった自称大妖怪。
それもついに年貢の納め時が来た。
「それで、そんなにお強い大妖怪様はなんで負けちゃったの?」
「・・・・ちっ、まぁ正面切って負けたかんな。恨みはあるが納得しちゃあいるよ」
曰く、まだ徳川幕府成立前。相模の国―今の神奈川県の辺り―で随分と暴虐を働いていたという松割は、南下して京の辺りで遊ぼう(松割談)といつものように雷雲に乗って悠々と天を渡っていた時の事。纏う雷雲が何かに反応し、嘶いては地表に向けて勝手に雷を落とし始めたそうな。
それ自体は普段からよくあることだったそうだが、やたらと喧しいので怪しがりて下を覗けば、先端に鋼の短刀を括りつけた、恐れ知らずにも高く天を突くように据えられた竹竿が伸びており、雷雲はこれに反応してしきりに雷を落としているようだった。
「一発でピンと来たぜ。こりゃあどこぞのバカに喧嘩売られてるってな」
見るからに自分の進路上に向けて突きつけられた、気合を入れていないとはいえ雷撃を受けて燃えぬ謎の竹竿。その長さにして十丈に及び、つまり30m近い長大な物が海岸線立てられていると分かった。
これを挑発と受け取った松割がその竹竿目掛けて稲光をお伴に降り立てば、竿を取り囲むように居並ぶ退治屋、総勢二十名。
「結界で結ばれてよぉ、「これで飛んで逃げる事も儘なるまい」とか神妙な顔して言いやがる、そら頭にも来るわっ!オレがなんで人間如き相手どって尻尾巻いて逃げなきゃならんのじゃ!」
「あれ?でもさっき鴨長明からは逃げたって」
「あんな化け物みてぇな坊さんと一緒に住んなダァホ!歌聞くついでに食ったろって油断してたっつっても危うく死にかけたんだぞ!」
ともあれ、意気揚々と退治屋の挑戦を受けた松割は、それはもう激しい戦いを繰り広げる事丸三日。ついに鬼縫謹製の縛り糸で括られ、切り刻まれて動きを封じられたそうな。これは後で全市さんに聞くことになるのだけど、その時の戦いで当時の鬼縫指折りの精鋭を含めた二十名の内、十余名が死傷するという被害甚だしい大勝負だったそうな。
「で、糸くずにされてからもいくらか抵抗したんだがよ、腕が千切れようが首が飛ぼうが何とでもなるはずの体が全く元に戻りゃあしねぇ。バラバラにされて別々の着物に縫いこまれたんだが、着たやつ憑り殺したり妖気で頭乗っ取ろうとしたりで何とか元に戻ろうとしたんだが、あいつらもあぶねぇってんで結局今の通りに一個の着物に纏められたって訳よ」
そう語る松割の口調には、先ほどの大立ち回りを語る時のような熱は無い。
「でも、申し訳ないけど仕方ないでしょ。散々人間を食い散らかして色んな物壊して、妖怪にも迷惑かけたんじゃない。」
「やかましい。ま、それから徳川が将軍家になってしばらくして、纏異が現れるまではマジで度し難ぇ退屈だった。纏異が消えてから昨日までの百年も似たようなもんだ、またぞろン百年もほったらかしになんじゃねぇかってちょっと諦めてたからよぉ。ケケ、だから昨夜は楽しかったぜぇ。そうそう、あん時もこんな気持ちいい殴り合いしたっけなぁ」
その後も、雷雲と共に天を駆け、電光を纏って地に降りては人を食う。彼の話のほとんどは誰を食っただの何を殺しただのの話ばかりでだいぶ辟易とさせられたけど、その節々に先日まで頭に詰め込み続けた歴史的偉人や地名が度々登場してきて、正直なかなか興奮させられた。
思いの外面白い話についのめり込んで聞き入ってしまい、腹から信じられない音量で虫が鳴ったのとほぼ同じ頃になって八重ちゃんがご飯を運んできてくれた。




