絹居さんのお家 1
美少女が音も立てずに板張りの廊下を進む。
その後ろをぎっしぎっしと不快な音を立てながら歩くのが私です。
たぶん体の素材が違うんだと思います。
前を行く細い背中が途中で止まり、すっとしゃがんで右手の部屋に肩を寄せると
「お父様。的井さんがお越しになりました。」
と告げるや、中から「どうぞ、入ってもらいなさい」と男性のしわがれた声が聞こえた。
失礼します、そう言ってそっと襖が開けられると、また掌で中へと案内される。
失礼しまーすと職員室に入るような心地でそっと足を踏み入れると、当たり前ながらそこは畳独特の鼻の奥の方に染み入る清々しい井草の香りに包まれた和室で、中央に据えられたツヤツヤの大きなちゃぶ台?アレだ、旅館の部屋の真ん中にあるデッカイ机、その左手の立派な床の間がある側に初老の男性が胡坐をかいていた。
「よくいらしましたな。まぁ、どうぞ座って」
そう反対側の座布団を指した。
言われるままその上に正座をする。
「あぁ、ソレが堅苦しい上に家も部屋もこんなですからな。
そう固くならずに、足も崩してくださいな」
とにこやかに笑う。ふっくらした大柄な体に細かな模様が入った茶色の着物を羽織った男性にソレと言われたのは、今まさにその隣にスッと腰を下ろした美少女の事を指しているらしい。
美少女は何も言わない。
こういう時はどうすべきなのか、所詮は親戚の家だしくつろぐべきか、日本指折りのお金持ちの家だしどうも気遅れして仕方がない。「はい」とぎこちなく笑ってそのままでいるのが精いっぱいだった。
男性もそれを察してか「まぁそのうちそのうち」と笑っている。
「改めて、絹居一房です。よろしくどうぞ」
と男性は頭を下げた。
「はい。あの的井依子です。はい、今日からお世話になります、すみません」
私も頭を下げる。謝りたくなるのは何故だろう。合ってるのかなこれ。
「何、気にすることはないさ。うん、話はお父さんから聞いてます。
まぁお父さんの気持ちも分かるよ。私だって娘一人だけ家に置いて当分他所へ行かなければならないとなるとさすがに心配が勝ちすぎて仕事どころでは無いからね」
ハハハ、と笑う。笑うと目が無くなる。人の好さそうな笑顔でこちらも安心する。
「しかしね、お父さんは「くれぐれもお願いします、母がいない分なにかと家の事をやってきましたので早々にご迷惑をかけない程度にはできた娘ですが、何かと抜けや奇行が目立つ節もございますのでその辺りはどうかご容赦ください」と深々と頭を下げておられた。なに、心配せずとも責任もってあずからせていただきますとも」
お父さんが他人に私を誉めてみせる事はそう珍しくないが、それを聞かされた人から又聞きするのはいくらなんでも面映ゆい。ただ、謙遜する体なのかもしれないけど、お化けを見たりした時の様子を「奇行」として伝えておいてくれたのだろう。「奇行」評される事についてはどこか釈然とはしないものの、あまり不審に思われないようにという父の配慮を感じる。
「で、遠かったろうに。疲れていないかい?」
一瞬「超きつかったです。都会にもあんなにお化けいるなんで聞いてない」と叫びかけるのもお茶で喉奥に流し込んで一呼吸置く事で落ち着かせてから答える。
「いえ、荷物もそんなに多くなかったですし、いや、最初にお話しした時間より遅れて
しまってすみませんでした」
改めて遅刻を謝罪しながら、道行きで遭遇したお化けが脳裏によみがえる。
運ばれてきたお茶に口をつけながら嫌な思い出を追い出して前を向く。
「いやいや、気にしなさるなよ。まぁしかし行き違いにならなくてよかったよ。遅れているようだから迷っていると困ると思って綾子を表に立たせたんだが、どうやらちょうどよかったらしいなぁ」
ふいに口にされた綾子という名前にドキリとした。
「あの、綾子さんというのはその・・・・」
「あぁ、もしかして、お前さん自己紹介してないのか?」
と黙って話を聞いていた美少女、綾子の方を向くと娘が口を開く。
「はい、いずれここでご紹介にあずかると思いましたので」
そそ、と細い指先で茶碗を取ると音もなく茶を啜る。
「あー、あーまったくなぁ。この通りの愛想なもんでなぁ。まぁ一緒に暮らしていけばそのうち打ち解けるもんだろう」
そういって一房さんは苦笑いしながら頭を掻いた。
一房さんについては、お父さんが話を着けてくれていたしネットで何度も名前を見たので一通りのことは私も知っている。
呉服店「絹居屋」の現社長で、想像できないくらい偉い人で凄い人だ。
百年以上も続くお店の数々を引き継いで何千人という数の人の生活を支えて、その何倍もの数の人を相手取って商売をしている。
調べた限りではこの人が社長になってから業績は横ばいから上向きになっているそうで、本当ならこうして私と談笑するような時間は無いくらい忙しい人だという事も分かる。
今まで会った偉い人なんてせいぜい校長先生くらいがいいところの私にとってはあまりにも大きすぎる人で、その人が自分の保護者になるというのもなんというか現実感が無い。
「あぁそうそう!日苑学院入学の件、いやぁお見事だよ!合格おめでとう!
恐れ入った、というのはなんというか失礼だしこちらから提示した条件とはいえ正直無理を言ってしまったと申し訳ない気持ちで、あいや、これも失礼だったかな」
「はい大変でした」
あんまりにあんまりだった記憶が甦ってこれには思わず即答してしまった。
これについては一年前に遡る。