雷雲は窮を告げる 4.5
しばらく呆然としてしまい見送ってしまったことを悔いながら、必死で走る。
納戸を飛び出した依子さんを追って廊下を行くのだけれど、依子さんの足が早すぎてあっという間に見失ってしまった。
(たぶん、きっと「奥の蔵」だ・・・・っ)
こういう時、父様も赤谷さんもいない時の私はやっぱり無力だ。つくづく、未熟な自分を痛感する。
緊急の時にどうしたらいいか全然わからない。
依子さんのように、とにかく飛び出す事もできず、ただああして取り乱すしかできないなんて、本当に恥ずかしい。鬼縫一流の当主を担う一人にしてなんとも情けない。
どうにか息を切らして走るうち、依子さんの声が聞こえてきた。
何かを、頼んでる?ようやく蔵の見える廊下まで出たけれど、戸の開け放たれた蔵の中では思った通り、依子さんが行李にしがみついて
(蓋を外してっ)
中から金色の着物を引っ張り出していた。
「待ってください!本当に何が起こるか!」
精一杯声を張るも届いていない。
いや、それどころではない。
蔵の中からは私の声などかき消すほどの轟音と閃光、そして凄まじい暴風が唐突に吹き出してきて思わず顔を覆う。
どぅわあああぁぁぁあああっと吹き荒れる旋風に目を顰めながら、一歩一歩、なんとか蔵の入り口に辿り着くと、蔵の中は薄青く照らされて、暴風によって壁面の抽斗がいくつか飛び出して中身が床に散らばっていた。
その中心、金と黒の豪奢な衣を纏い、紅の帯を立て矢結びに派手極まりなく仕上げた、あまりの華美さに目も眩まんばかりの依子さんが立っていた。
ふわふわだった癖っ毛は前髪から揉み上げまで全て後ろに流されて、僅かに夕焼け色を落としたように柔らかな色を湛えた茶髪も薄っすらと青く染まり、毛先からバチバチと紫電が迸って着物を伝いその全身に纏っている。帯紐の代わりにしては太すぎる、まるで横綱が化粧まわしに着ける注連縄の様な綱を帯の上からギシリと締め、その背で蝶のように広がっていた。
絢爛極まる色留袖の裾から覘いているズボンは、確かに依子さんの履いていたものだけれど、そのあまりの変貌に絶句する。
「よ、依子さん・・・・?」
初めて目にする、我が家に伝承だけ残っていた、纏異、その姿。
それは確かに艶やかで、
それも極めて苛烈で、
とても、美しいと、私は思ってしまった。
私の声に首を傾けて目線だけを寄越す依子さん、その瞳の冷たさに、その鋭さに思わず竦み上がってしまう。
「よ、より」
『・・・・おー、この家にゃ禿がいんのか?いつから娼館になったんだぁここはよぉ?』
その唇から発せられる声は、先ほどまで私を気遣って、優しく宥めてくれた依子さんのモノではなかった。
野太くガサついた、凡そ人の温もりの感じられない男の声が、あの優しげだった依子さんの口から出てくる事が恐ろしくて、それが何を意味するのかを考えるのが怖くて、膝が笑う、立っていられない。
『はー・・・・あぁ、やっぱ肉の感触は良い、息するってよぉ、やっぱ気持ちがいいぜ。此処は埃っぽくて敵わんが、なぁ』
恍惚とした表情で手をニギニギと開いたり閉じたり、体の動かし方を確認するように、色んなところを回し曲げ伸ばしを繰り返している。まるで履いたばかりの靴を鳴らして足に合わせるように、下し立ての手袋の隅々まで指を馴染ませるように。
「あぁん?あったりめぇだろが、おめぇから纏異が来るって話聞いた時から決めてたぜオレはよぉ。コイツんこと騙晦かして乗っ取るつもりだったさ、ケケケ」
誰と話しているのか、行李を見下ろしてその一つに乱暴に足を乗せた依子さんは、下卑た笑みを浮かべながらそう語る。
私が恐れていたことが目の前で顕在して、あまりの絶望感に膝から崩れ落ちる。
それでも、それでも何言わないわけにはいかない、しないわけには。
「あ、ああ、あ、ああああ」
『ん?あーんだよまだいんのか、せっかくだし最初に食うのはガキでも悪かねぇなぁ』
こちらを振り返ると、私を見降ろしながら目元を下品に歪ませてみせる。
怖いっ、怖いっっ!
どうしてこんな、姉さんも全市さんも父様もいない時にッ!
「あ、ああなた!よ依子さんの体を、どどどうするつもりですか!今すぐ離れなさい!」
私の精一杯の声もこの妖には何の痛痒にもならないのだろう、つまらなそうな顔をして耳の穴に小指を突っ込んでいる。
『何って、そらおめぇ、コイツの体で好き放題すんに決まってんだろ、昔の通りよぉ」
「そ、そんな、それはっ」
『あったりめぇだろぉ!なんか知らんが今ぁ!当主も「裁ち」も出払ってんだろ?!ねぇよ!これ以上にねぇ状況だろうかよぉ!ほんでなんも知らねぇ莫迦が纏異と来た!望外だぜぇははははははっはははははははは!あん時よか人間も増えてんだろぉ?食い放題じゃねぇか最高だぜこりゃ、笑いがとまんねぇよ!がっはっはあはははあはははあああああああああああああああああああああああ』
妖が笑う度に室内に紫電が迸って床を壁をと焼き焦がす。聞く処のこの妖の力はこんなものではない、私など、全力で抗っても瞬く間に引き裂かれてしまうだろう。
それでも!
「ゆ、許しません!ここに「裁ち」は居らねど「紡ぎ」は居ます!依子さんを解放しないというのでしたら、わ、私があなたを捕えますッッ!」
蔵の戸に凭れ掛かりながら必死で立ち上がる。
私が懐から糸切鋏と糸巻を取り出したのを見て一瞬ポカンと口を開ける妖は、すぐに大口を開けて笑い出す。私を恫喝するように雷光がピシャアッと迸る。
『おいおい、あんま笑かすなよ!術の素養があんのは分かるぜ、だがよぉ、オレ様を捕えるってのはさすがに冗談がきついぜ』
「うるさい!い、命に代えても、よ、依子さんは返してもらいます!あああなたをそのまま街に放すくらいなら、わ、私は!私は!死んでもあなたを止めます!!」
しっかりしろ私、震えてる場合じゃない。
何か、魂の引き剥がし?憑依の解除ならやったことはある、でも纏異に通じるかわからない、憑き物とは根本的に違うかもしれないし第一動きを止めないと、せめて全市さんがいてくれれば、でも今は私しかいないのだから
「あっそ」
依子さん・・・・ごめんなさい、命に代えてもあなただけは・・・・
「やっぱそういうこと」
妖の口が動いてボツボツと何事かつぶやく。
「実は結局協力してくれるとかかと思ったらこれか・・・・人は見た目によらないって思ったから黙ってたらこれかよ・・・・もうほんっと最低・・・・」
依子さん・・・・・・・・ぇ?・・・・依子さん?
紫電を撒き散らす依子さんの姿はそのまま、納戸の時と変わらぬ声が蔵に静かに響く。
ぐいんぐいんと回していた肩がビタリと止まる。合わせて、迸っていた雷もなりを潜めた。
『あんっ!?ば、バカな?!』
口からはまた妖の声がするが、体は微動だにせず、むしろ上げられていた手はゆっくりと降ろされてお腹の辺りで止まる。
硬く硬く握られた拳は真っ白になるほど強く握られ小刻みに震えていて、
それが怒りに因るものと分かった時
「あっっっっっっっったまきたあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」
その日、台東区にて急激に発達した雨雲から雷雨が発生、原因不明の事態に気象庁も情報を集める中で、御徒町周辺の一角で落雷が発生、その直後に猛烈な轟音と共に雷樹現象の発生を観測し、気象庁では大変な騒ぎとなった。




