宵が、口を開ける
思い切ってアスファルトに向けてダイブするつもりでジャンパーの襟首を掴みかかる。
男がぐぎょぁ、と形容しがたい声を上げて、掴みかかった私と諸共に転倒。
ドジャっと地べたに倒れ伏して痛みに悶える。さっき擦りむいた膝小僧がモロにアスファルトの凹凸に突撃して「ひぎゃっ」となんとも奇妙な悲鳴を上げてしまった。カラカラと硬い何かが舗装された道を転がる音がする。
手だけは絶対放すものかと手に力を入れるも、ぬめって力が逃げてしまう。
走ったからか緊張からか、手汗がひどく出ているようで、全力疾走の疲労もあり抵抗されたらまた拘束を解かれてしまいそうだ。
痛みに耐えながらなんとか握る力を際限なく込め続ける。
どうにか顔を上げ、もう片方の手でひったくり犯の肩を掴んで、一向に抵抗の気配を見せない男に対してはたと違和感を得る。
首が締まった程度で気絶はすまい、まさか倒れた時に頭の打ちどころが悪くて?!
はっとして顔色を見ようと手を放して起き上がる。
顔を探す。
暗く、数m間隔に立った街灯の間にいるせいか、そういえば黒いヘルメットを被っていたからなのか。男の顔が見当たらない。
手を這わせるとぴちゃりと思わぬ感触が伝わってきた。
男の体がイヤに濡れている。
確かに随分走った気がするけど、三月のまだ肌寒い夜にこんなにぬめる程汗を掻くものか?
よほど汗かきなのか。
ヘルメットのフェイスカバーを外そうと肩から伝って顔の方へ手を伸ばすと。
ぱしゃり
と思わぬ落差を以て探る掌が水たまりに落ちた。
感触はアスファルトの凹凸ととても暖かい、おしっこのようなぬくもりのある黒い液体が手にかかる。
顔があるべき場所に
その液体のついた手を街灯の明かりに照らす為少し掲げ
視界の端に黒く丸いモノが先ほどからカラカラと転がっているのが目に入った。
手は見たことの無いほどの赤に染まり
すぐそばでは赤い断面を覘かせたままカラカラカラカラと不規則に揺れながら回転する
フルフェイスのヘルメットが街灯の薄ら白い明かりを反射して転がっていた
・・・・・・・・
耳を劈く、何かの騒音が聞こえて、すぐそれが自分の口から出た悲鳴だと分かった。
慌てて心許ない足取りで立ち上がる。
目が慣れてきて自分と男の様相がはっきりと見えた。
どちらも血に塗れている。
心臓が爆発しそうなほど内側から胸を叩き、いまさらのように鼻の奥を突いてきたむせ返る程の血の匂いに喉の奥を穿かれて胃もまたビクビクと痙攣しその場で胃の中のモノが全て噴出した。
何が。
何がどうなったの?
私のせい?
わたしがおいかけたから?
わたしが ころした?
真っ白になっていく頭を抱えて呆然とする私はふらふらと近くの壁に手を置いて俯く。
「あー運がいいや。潮時ってやつだしなぁ」
ふと頭の上から声がした。
壁の上から?と顔を上げて気が付いた。
壁だと思って手を突いていたのは悠に2mを超える大男の腹で、
その男がバットのようなモノをがじがじと齧っていて、
その熊を思わせる大きさの口から滴る色が赤黒く、先刻見てしまったものだと。
「追い立てられてここまで来ちまったが、まいいや。この女で最後にして行方眩ますか」
反射的に飛びのいて反対側の塀を背にして大男に向き合う。
距離を取ってみれば今度ははっきりと目に映る。
大男が齧るバットは黒い包みが剥がされ真っ赤に染まっている。握りの部分、男の掴む手の小指側からはみ出しているのは、人の手のように見えた。
男はそれを放り出してべちゃりとアスファルトに落とすと同じ手で地面に転がって静止していたヘルメットを掴むと上を向いて「んがぁ」と大口を上げると、蟹の甲羅を向くようにばかりと割り開いて中身を口の中に放り込んだ。
バキ、バキバキと石膏を割り砕くような音の後、ぐちゃぐちゃと不快な音を立ててソレを咀嚼する男の様を目の当たりにして再び胃が痙攣を始める。
咄嗟に口を抑えて吐き気を抑える。
今、嘔吐して男から視線を外すのはいけない気がした。
目を逸らしたら、きっと同じ目に遭う。
「ふぅぅ。へぇ~いい根性してるじゃねぇか」
男が口元をぬぐってイヤらしい顔で笑った。
体が動かない。
目の前で人を食って見せた男が、今ははっきりとヒトでないことが分かる。
口から覗く異様に尖った不揃いの歯も、私をまっずぐに見る黒目しか無い光を吸い込む瞳も。
明らかに人間のソレではなかった。
「こいつは残しとくか、目眩ましくらいにはなるだろ」
転がる人の形を欠いたモノを蹴飛ばして私に近づいてくる。
「お前で最後にして、当分は姿隠さねぇとなぁ」
ゆっくりと、野球グローブよりも大きな掌がこちらに近づいてくる。
おとうさん
もう




