宵が口を開ける 3
父は大変元気そうであった。
開口一番が
「ロンドンな、飯まずいっていうけど今んとこそうでもねぇぞ」
と今まさに堪能しているフィッシュ&チップスについて食レポされたものの、お父さん、それは別に日本でもそう変わらないんじゃないかな。まぁとにかく安いらしい。
国際通話ゆえ、あまり長い通話はよろしくないのでさっさと近況報告を済ませてほしい。
こちらも一応落ち着いた事と、「蔵」の話をした。
お父さんは黙って聞き終えた後、
「うーん。確かにいきなりそんな話しても気味悪いしなぁ、何より自分ちに幽霊がいるなんて話されて良い気持ちがする人もいないだろうしな。黙っときたいならそうするといい。
ただし、もし身の危険を感じたら直ちに相談しろ、まずは俺でもいいんだから」
そう真剣に応えてくれた。
正直これからの事は不安ではあるけど、何かあればまた相談しよう。
当面、何事も無いようにと互いに祈り通話を終えると
〈ビッグベン〉
とだけ本文に書かれた、曇り空の下に悠然と聳える時計塔を顔の真横に来るようにして変顔と一緒に撮ったらしい写メが送られてきた。
観光してるんじゃあるまいしと苦笑しながら、なにかと私が安心できるように配慮してくれているのだろう、という事だけは伝わってきたので、〈まだ仕事中でしょ〉とだけ返信して自転車にまたがった。
夜になるとまだまだ冷え込む。少し薄着が過ぎた事を後悔したが、地元に比べれば随分と温かい。地球温暖化の影響なのか、最近どんどん季節がずれこんで二月にドカ雪が降ってエライ目に遭ったもので。
コンビニで買ったスナックをカゴにセットし、ペダルに足をかけ二~三歩地面を蹴って走り出す。カゴに手を伸ばしてスナックを摘まみながら岐路を急ぐ、昨日初めて訪れた時にもなんとなく思っていたけど、どうも絹居さん邸の周辺に近づくにつれてお化けの出現率が随分と低い。実際、このコンビニは家から自転車で五分程の距離だが、夜にも関わらずお化けの姿はあまり見かけない。
それが分かったおかげで、帰りは心持ちペダルが軽い。
カゴで揺れるスナック袋に手を突っ込んで摘まみながら夜の道を急ぐ。
一つ目の角を曲がる直前、道の奥から「きゃっ」っと短い悲鳴が聞こえた。
訝しむ間もなく原付が角から出てきて右折、手には真っ黒な見た目に似つかわしくない小さなカバンをぶら下げて、視界の端に躓いたように半身を起こして伏せる人影、走り去る原付。
(ひったくりか!)
そう思った時には既にペダルに全体重をかけて立ち上がっていた。
幸い相手は右折からの立ち上がりでそこまで加速していない。
ハンドルを胸の方に強く引くように握り締め、思いっきり前傾姿勢になってペダルを踏み込み一気に加速をつける。
追いかける私の姿に気付いたのか、一期に加速する原付。
しかし目の前の大きな通りは車の往来が激しく、今から振り切る程加速すれば車の列に突撃する危険があるんじゃないだろうかと脳裏によぎる。
悪いことをして天が味方をしてくれるわけもない。
ひったくりはテールランプを赤く残しながら通りの直前にある十字路を左折。私もなるたけ減速しないように車体だけをギリギリまで傾け、かなり危ういコーナリングを敢行して一瞬で同じ路地へ侵入、ギジャリリとタイヤが地面を削る音がして危うく車体を起こし損ねる。
ハンドルが暴れるのを体重をかけて何とか態勢を維持、せっかく買ったスナックを路上にまき散らす羽目になったものの、相対距離は先ほどより縮まっている。坂の多い地元で男子に交じって友達ん家まで競争した愛車をなめるな。
追跡の続行を確認したひったくりはエンジン音を唸らせるが、路上駐車のワゴンやお店が出しているらしいカゴなどが路にいくらか出張っているせいで思うように加速できない様子だった。この機を逃すまいと、必死でペダルを漕ぐも、距離はなかなか縮まらない。
もうこのまま追っても離される一方になりそう、だって、結構きついのだ、これが。
運動神経は悪くない自負があるけど、別に、運動部だったわけでもないの、だから、当たり前だ。
そろそろ道が開けてしまうし、一度でも引き離されれば多分、見失う。
次の小さな十字路に差し掛かる。
あそこを曲がられて障害物の無い直線に入られたら、きっと届かなくなる。
ナンバーは暗くて見えない。
絶対逃がさない。
女の人を襲って、自分だけ得しようなんてふざけたヤツ、絶対許さない!
私の渾身の睨みもひったくり犯の背に届かず、原付が角を曲がろうとした時、その車体が大きくグラついてついには倒れた。
距離が詰まる中で良く見れば、どうやら角から乗用車の頭が覗いていて、あわやぶつかる寸前で転んで回避したらしい。車の方も無灯火、たぶん今まさに車庫を出たとかだろうけどどうだっていい、千載一遇のチャンスだった。
肺が軋むのを圧してペダルを回し一気に肉薄しようと加速する。
気づいたひったくりはカバンを投げ出してその反対側へと自らの足で逃走を開始した。
「ばかめぇ!」
私が追いかけるのはお前だ。
さすがに人の足をいくら回しても車輪の回転にはかなわない。
ぐんぐん肉薄する。
と、ふいにひったくりが急停止した。
勢いづいてるのを利用してオーバーランしている内に振り切ろうという魂胆らしいが、
「なめんなぁ!!!」
ひったくりが道を逆走し始めるのと同時に急ブレーキをかけた愛車を蹴り飛ばして自転車の脇を抜けようとした体に思い切り叩きつけた。立ち漕ぎしてなければ間に合わなかったろう。
上手い具合にペダルだか車輪だかが足に絡んだらしく、ひったくりはもんどりうって転倒。
私もうまく着地できずに膝を盛大に擦りむいたが、愛車が拘束を引き受けてくれた為ひったくりが起き上がる前に立ち上がる事ができた。
足に覆いかぶさる自転車を退かそうともがく犯罪者の背中に飛び乗って携帯を取り出す。
コール音もそこそこにつながった。
「はいこちら110番。事件ですか事故ですか?」
「事件です!ひったくりです!犯人も捕まえました!場所は・・・・」
目印や住所を探してあたりを見回した一瞬の間、
「どけこらぁ!!」
「!!うわああぁあぁあああ!??」
足元でもがいていたひったくりの男が私の足首を掴んで引き摺り倒した。
もんどりうって転がってすぐに男の立ち上がる気配がして、一瞬殺されるかと身を竦ませた時には男はもう走り出していた。既に通報されているのでは敵わないと判断したらしい。
「ッツ!逃がすか!」
もつれながらも手で地面を思い切り突いて強引に体勢を整えて後を追う。
先ほどの原付での転倒でか自転車をぶつけた際にか、足を捻りでもしたのか逃走する男の足取りは精彩を欠き、私の足でも十分に追随することができた。
しばらくの間追いかけっこを続けて何分経ったか、公園のような開けた敷地の見える交差点を通過してすぐ、その背中に手が届いた。