夏休み編
サンライズ 夏休み編
一学期が無事に終了して、夏休み。テストの結果は気にしないことにしたので、爽やかだ。はじめからヤバいのでは良くないとは思うけれど、高校だってギリギリ受かったところだろうし、頭の出来はこんな具合だろう。
夏休みは、今年こそはぐうたらしたい。中学校のときはめちゃくちゃ忙しかったし、なんとかして、必至にだらだら過ごしたい。
ぴりりりりり。そんなことを考えていると、ゆったりさせまいと電話が鳴る。出てみると知った声。
「やっほーひので君、元気?今日から夏休みらしいね、どこか行かない?高校のときの夏休みはいい経験になるよ、思いっきり人生経験しようよ」
九尾の狐はべらべらと話し出す。もしかしたら電話の使い方をしらないのでは、と思うほどのマシンガントーク。こんなに饒舌な人には会ったことは無かった。たぶんこれからもいない。
「で、どこに行くんだ?」
「私の友達のところ」
「友達?俺は会ったこと無い人か?」
「そうそう。だけど遠慮しなくてもいいよ、ひので君のことは話してあるから」
「それでいつ」
「明日」
「明日!?」
「着替えとかもって朝六時に駅ね、じゃ」
「着替えってまさか泊まりなのか!?駅って」
電話は切れていた。まったく。親しくなると遠慮が無くなる人なんだから。
「ねぇ、ひーくん旅行行くの?」
姉さんが聞いていたらしく、尋ねてくる。
一応行くことにはなったらしい。
「日程とかもまったく決まって無さそうだね」
「ちゃんと聞かないといけないな」
「そうだよね」
九尾の電話番号にかけてみる。しばらく鳴らしても出ない。また後でかけ直してみることにする。
「でも、ひーくんいいよね、九尾さんに旅行に連れってもらえて、私も誘ってほしかったなー、なんて」
「姉さんが電話に出てたら旅行に行けたのかもな」
「いや、そんなことないと思うよ、九尾さん、ひーくんのこと気に入ってるみたいだし」
と、その時電話がかかってくる。
「もしもし、ひので君?旅行の費用だけど、私が全部出すから、気にしなくていいよ、じゃあね」
「ちょっと待った、切るな切るな、何日くらいの旅行なんだ?」
「えーと、四泊五日、なんか用事でもあるの?」
「それならないけど」
「じゃあ決まりね、ばいび~」
電話はプツンと切れた。とりあえず日程がわかっただけでもよしとせねば。むしろ日程しかわかっていないのだけど。
翌朝五時五十分。最寄りの駅に行くと、九尾はすでにやってきていた。
「おはようひので君、元気?」
「ちょっと眠い」
「そっか」
よっこいしょ、と着替えの入った荷物をベンチに置く。そして肝心なことを聞く。
「で、今日はどこに旅行に行くんだ?」
「それはね、・・・・・・山形県!」
九尾はそれなりに遠いところの地名を発した。俺は今までに行ったことのない土地。
「どう?楽しみ?」
「行ったこと無いところだから、楽しみだ」
目的地がわかってしまえば、今までの不安が楽しみに変わってきた。もともと出掛けるのは好きだから、まだ見ぬ土地に興味が湧く。
「じゃあ、レッツゴーっ!」
九尾に連れられて、北国へ電車に乗り出発した。
午後五時。気の遠くなるほど電車に乗り続けて、乗り換えの駅ではなく、途中の駅で九尾が席をたったときは本当に嬉しかった。すべて普通の電車、こんな苦行させられるとは。
「だってさ、最近の若者は、我慢が無いっていうじゃん?たまにはこんなのもありかなって」
新幹線のありがたみをよく解ったが、こんなのに付き合っていたらたまったもんじゃない。
「悠くんにやらせた時は、もっと楽しそうだったけどね」
「電車に乗って楽しそうにしてるのなんてマニアくらいだぞ?」
「乗ってきたお婆さんと世間話してたね」
「なるほど・・・・・・?」
あの人はどうやら、話すのが好きらしいな、しかし年の離れた人と世間話して楽しいのだから、どんな趣味をもっているのかが気になる。
降りたのは浜辺の町。道の先に穏やかな日本海が見える。こんなところに住んでみたいなぁ、と思いながら、九尾のあとをついていく。途中でバスをつかまえ、やって来たのは、さっきの浜辺の町から少し山に入った温泉街だった。郵便局前のバス停で降りると、九尾はとある家をさして
「ここに泊まるの」
と言う。どう見ても宿とかそういうのではない。少しだけ落胆したけど、とにかく疲れたからそこで休みたかった。
「こーんにーちはーー!!!」
「おじゃまします」
九尾はノリノリで挨拶をする。なんだこのテンション、全然疲れていないと言うのか。さすが妖怪。そして、家の中から出てきたのは、自分とちょうど同じくらいの年の女の子だった。
「よこちゃん久しぶり!大きくなったね、ところで吹浦ちゃんは?」
「用事で出掛けました。あと三十分で戻ってくるらしいです」
「そっか」
「そちらの方は」
「こっちは東海ひのでーっていうの」
「東海ひのでです。はじめまして」
「荒海よこです。はじめまして」
ほんの一言だけ挨拶して、それからは沈黙。荒海さんは表情が読み取れないから初対面だと何を考えているのかさっぱりわからない。どうしようかと考えていると、誰かが帰って来た。
「ただいまー」
「吹浦ちゃん久しぶり」
「九尾ちゃんもう着いてたんだ、久しぶり~」
九尾とめっちゃ仲がよさそうな感じの人が入ってきた。吹浦というらしい。下の名前は挨拶してもわからなかった。
夜ご飯は四人でお寿司の出前を取った。九尾と吹浦は異様にうまそうに食べている。俺はその勢いに押されあまり食べられていない。荒海さんはもともと少食なのかもしれないけど、あまり食べていない。無口、無表情が少食と結び付くわけではないのだけど、何故かそんな印象を持った。
「食べないの?ほら、あーん」
「しないよ」
「ノリが悪いねぇ、そういう男、モテないよ」
「そうそう」
九尾&吹浦はめっちゃ仲いいな、と思ったのはこういう会話での相槌の自然さだった。長年の付き合いがあるのだろう。しかもかなり離れた土地でなかなか会えないのだろうから、さらに凄い。
夜九時。だらだらと酒を飲み続けている九尾と吹浦は相変わらずだった。荒海さんはさすがに時間なのか一時間ほど前に帰っていったので、ひとり俺がシラフで残されている。
「ひのでくん、布団敷いてきて~」
「押し入れに入ってるよ~」
やはりここで寝ることになるらしい。別の部屋に適当に布団をしいて、その上でぐうたらする。今日は何もなかったが、明日から何かをさせられるのだろうか。わざわざ連れてきたのだからそうなのだろうけどいまだに知らされていない。
思えば今朝も早起きだったし、さっさと寝るか。騒がしかった酒飲み会場から急に出たせいで、耳が急な自然的情景に対応するまでに時間がかかる。あちこちから聞こえる多様な種類の虫の声。遠くを走る車の音。そして風の音。蚊の羽音。
蚊。蚊。蚊。蚊が多い。蚊取り線香を吹浦ならもらって、十分に設置してから眠りについた。明日はどうなることやら。
見知らぬ天井。という謎のタイトルが浮かぶが、まさに今俺は見知らぬ家の天井を見ていた。記憶を巡らすと、なんでもなく、九尾に連れられて遠い東北の地にやってきたのだ。そしてこの家にやってきて、一夜を過ごした、というわけ。空は既に青かった。時計を探して見ると六時半を指していた。普段と同じくらいの時間で、習慣というものは強いのだなぁ、と感激しながら布団を出る。伸びをして部屋を出ると、何か、料理をしている音が聞こえる。その音のほうに向かってみると、昨日の巫女さん、荒海さんが味噌汁を煮ていた。
「おはよう荒海さん」
「おはよう」
荒海は振り返って挨拶をすると、何事もなかったかのように調理に戻った。何か手伝うことがあるかと聞いてみても、あっちで座っててとの返事。おとなしく座っていることにする。居間のようなところで座ってテレビをつける。普段と違う天気予報が映しだされる。聞いたことがあるような地名からまったく知らないところまで様々だ。今日は快晴の予報。
「へー、東海は早いねえ」
吹浦さんが起きてきた。珍しそうに俺を見る。ネボスケに見えたのだろうか。まあそんな感じもしているかもしれない。九尾はまだ起きてこないが、七時過ぎに先に朝食が運ばれてきた。
「冷めちゃうから食べちゃおうね、いただきます」
「いただきます」
吹浦さんが食べ始めたので俺と荒海さんもそれにつづく。焼き魚と味噌汁、そして白いご飯の古典的朝食。荒海さんの腕は確かなようで、この部門なら優勝、といったところ。あっという間に平らげてしまったところで九尾が起きてくる。
「私がビリかぁ」
そういって、ゆったりと朝食を食べ始める。時間がいつもよりゆったり流れていた。せわしい普段の朝とはまったく違う世界。姉さんとはるかは今頃何をしているかな、と頭をよぎる。姉さんはしっかりしているから起きているのだとは思うけど、もしかしたらすやすやと寝ているかもしれない。家族でも知らない側面があるのか、と疑問にも思ったりする。
九尾は朝食を食べ終わったあと、横になりだらっとしてテレビを見ているので、さっそく俺は手持ちぶさたになってしまった。何かしら用事なり仕事なり、そんなものがあるから呼ばれたのではと思っていたのに。
「九尾、おれはどうすればいいんだ」
「ん、なーに、人生相談?」
「違う、俺はここに連れてこられた以上、何かしら用事があるんだろう」
「あるけど・・・・・・今はないの、よこちゃんの買い物でも手伝ったら?」
ずいぶん適当な答えだが、何かしら用事があるのは間違いないらしい。少し安心した。荒海さんのところに手伝いに行く。
「買い物に行くのに、荷物を運んでほしい」
「まかせろ」
そんな成り行きで近くのスーパーに行く。まだ開店したばかりの早い時間で、こんな時間に行ったことないな、とか、見慣れない納豆や牛乳が売ってるな、とか、最近スイカバー食べてないな、とか余計なことを考えながらどんどん重くなる買い物かごを持つ。会計をすませて、二つのマイバッグを持って歩く。
「右手が私の家の分。左手が神社にもっていくぶん」
「神社にこんなにもっていって何があるんだこれ」
意外というか、ありえないことにというか、神社に持っていく分のほうが多い。供えるにしても、誰かひとりが食べるにしても多すぎる。
「ムダにしてるわけではないから大丈夫」
「よこちゃーーーん!!!」
推理してると後ろから元気のかたまりのような声が聞こえる。なんだなんだ。
「ひさしぶり、あれ、君は?そっか、例の彼氏だね」
「しーっ、余計なこと言わないの」
返答がおかしい。彼氏ってなんだ。
「あたし、湯田川しぐれ、っていうのよろしくね!」
「俺は東海ひので、よろしく」
「よろしくね!」
湯田川さんは荒海さんの友達らしい。そんな雰囲気はやたらと漂っていて、荒海さんはさっきまでと違う人のように湯田川さんと喋り始めたのだ。それでねー、でさー、だよねー。さっきまでは大人びているように感じたが、やはり自分と変わらない年なんだな、と思う。
「またね」
「ばいばーい」
分かれ道で湯田川さんと別れると、再び静かな荒海さんが戻ってきた。 すごい二面性を見て自分まで静かになる。
「ここが、私の家」
そう言って、荷物の少ない方の袋を持って家に入っていった。俺は外で待ちぼうけ。蝉の声が頭上から降り注ぐなか、だらーっとぼーっと待つ。あの山の向こうはどんなところなのだろうか、この川を上るとどんな町があるのだろうか、などと考えていると荒海さんが戻ってきた。神社の敷地内の謎の家に戻ってくる。
「ただいま」
荒海さんがただいまと言っているので結構出入りしてるのだろう。九尾はだらだらとテレビを見ていた。そろそろお昼。日差しもかなり強く、部屋の中にいるのは懸命な判断かもしれない、と涼しい部屋で休もうと体が動くなか、吹浦さんに「ちょっと外でやってほしいことがあるんだけど」などと声をかけられたからたまったもんじゃない。しかし、どんなことをやらされるのだろうか、と暑さから気を紛らわせるように興味を少し持って外に出る。
「ここの花に水を上げて、あとこっちの洗濯物を干して、それから・・・・・・」
別に九尾についてきて、特別なことは無いんだなとか思いながらもくもくとこなす。終えたあと遅いお昼を一人で食べて、町に出掛けてみる。
見知らぬ町角を、迷わないように注意しながら進む。川沿いに出る俳句の碑を見たり、珍しいとんぼが横切ったりしていくのを見たりして、ますます異郷の地に来てしまったのだと思う。温泉旅館が立ち並ぶ地域を抜けて、ひとまわりして神社に戻ってきた。
「この町いいところでしょ、気に入った?」
吹浦さんがにこにこして言う。
「気に入りましたよ、雰囲気がいいところですね」
「でしょ?」
その日の晩は荒海さんの作ったカレーだった。姉さんの作るカレーとも、俺が作るカレーとも違う不思議な味がした。
翌朝。今日は雨。しとしとという感じで、近くの山のかなり低いところに雲がかかっている。
今日も何をするでもなく、だらっとして午前中を過ごしていると、巫女の荒海さんが「あれ?」と一言。
「どしたの荒海さん」
「お茶を切らしちゃって」
なるほど、高そうな器はほとんど空だった。吹浦さんはこのお茶じゃないと嫌だとか、そういう理由があるらしくて、買いに出掛けることになった。
「電車にのって行くんだけど来る?」
「そんな遠いのか」
「好きなお茶っ葉がそこにしか売ってなくて」
「そうなのか」
せっかく遠くに来たので、部屋にこもっているより有意義だと思ってついていくことにする傘をさして駅まで。こちらに来るときはバスだったから解らなかったけど、駅までがわりと遠く、三十分はかかってやっと到着。そこからは赤い列車で何駅か進む。トンネルの隙間から海がちらちら見える。疲れはとれたから、やって来た日より天気は悪いけどきれいに見えた。
大きな駅で列車を降りると、五分ほど歩いてショッピングモールに着いた。ここの中のお茶の専門店で荒海さんは慣れた感じでお茶を選ぶ。こういう専門店に入ったのははじめてなので、いろいろな茶葉を見比べる。
「もう済んだよ」
茶葉を持ち、さらに他の店もちょっと見たあと、そのショッピングセンターを後にした。天気がよければ、もっと町を見たかったが、今日はとりあえず帰ることになった。
町でも列車の中でも、聞きなれないことばを話すお年寄り、見慣れない制服を着た学生たちを見かけた。自分にとっては旅先の見知らぬ町角、しかしその人たちにとっては故郷、そんな当たり前といえば当たり前だけど、ちょっと不思議な感覚が好きだ。
再びネグラの家のもよりの駅に降り立つ。雨は小雨になり雲の隙間から青空が見えはじめた。駅から見える日本海は日差しを受け輝いていた。
今日も夜は、九尾と吹浦さんは酒が入ってどんちゃん騒ぎ、荒海さんは明日は補講がありますから、と言って家へ帰っていったのでふたりの酔っぱらいの世話をさせられた。二人が寝た頃には自分ひとりが静かな中に取り残されていた。川の流れすら聞こえてくる、そんな静かな中ではかえって眠れなかった。星を三分ほど眺めてみたあと、布団に入る。入ってしまえば眠れるだろう。
・・・・・・
何か気配を感じる。カツンカツン!窓を叩く音が聞こえ布団から出てみると、そこには・・・・・・人影。窓を開ける。
「こんばんは」
「誰?」
「夜風が涼しいですよ、遊びましょ」
なんだこいつ。頭の中にハテナマークが浮かんでいると、そのハテナマークが爆発することが。
「東海ひので君」
「なんで名前知ってるのさ」
「知ってるものは知ってるからね」
・・・・・・なんだよなんだなんだ。
「遊びに行こう」
「今から?夜中だよ」
「行こうよ、ほら」
とか言って無理やり手を引いて連れていかれる。なぜか山にさしかかる。どこに連れていくつもりだ。ごつごつしていてこけそうになる。しかし彼女の腕の力はやたらと強い。振りほどいて逃げるのも無理だ。それに土地勘のない夜の山は遭難しかねない。
「大丈夫?ついてこれる?」
「ちょっと休ませてくれ」
いったん休憩。山の中、まわりはやたらと静かな環境だった。さっきとはちがい彼女は何か考えているのか、静かだ。
休憩を終えさらに拉致される。山の上のほうに開けたところがあった。寝静まっている町がそこにあった。ここはどこだろう。何をされるのか。
「さっそく何かしましょ、縄跳び?竹馬?」
何を言い出すんだこいつ。
「みんな寝ているじゃないか、それに俺も眠い」
「それじゃ私の家に泊まっていきなよ」
「そうするか」
もうなんでもいい。だるい。適当に答えて建物に入る。あらかじめ敷かれていた布団に寝る。
彼女とほんのすこし話すとすぐ眠ってしまった。
翌朝。目が覚めたのは朝の五時すぎだった。ここ数日でまた知らない天井を見ながらの目覚めだ。同じ部屋に立っていたのは、白いワンピースを着た美少女。不覚にも目を奪われる。そしてこの美少女が俺を拉致したのだと理解した。
とりあえず顔を洗う。やたらと冷たい水。そして目を完全に覚ますと、窓の外を見る。ここはいったいどこなんだ。しかし解るような目印は無かった。木々の海が広がるのみ。
美少女が扉をあけてどこかへ行ってしまった。ついていってみる。朝御飯の匂いが漂ってくる。どうやらこの家にはほかにも住人がいるようだ。と、廊下を歩いているとふすまがするりと開き、おじいさんが顔を見せた。一瞬ぎょっとして顔を見る。
「新入りさんか?」
例の少女がつれてきたことを伝えるとお爺さんは咎めるような表情で、
「勝手に連れてきて騒ぎになったらどうする。帰してやりなさい」
と言う。
「大丈夫」と少女は言う。何が大丈夫なのか。純和食朝ごはんを済ませると少女と二人で部屋に戻る。少女少女と、まだこいつの名前を聞いていない。
「俺はまだお前の名前を聞いてないぞ、自己紹介してくれ」
「そういえばそうだね、私は湯殿たもと。よろしくね」
「よろしくな」
湯殿たもとというのか。しかし、ここにいると、何をされるか果たして、まったくわからない。
「何かしよう?」
「竹馬と競争はやだぞ」
「ボードゲームは?」
「ボードゲーム?」
「まあそれなら」
「超次元オセロで良い?」
「なんだその超次元って」
「イカサマオセロ?」
「せっかくだしそのイカサマとやらを見てみようか」
どうやら敵対心はないらしい。脅迫の材料や食事の材料にはならないらしい。敵対心をこのまま持たれないようになんとか合わせるか。
・・・・・・とか考えていたのはほんのちょっとで、正直ここで湯殿といて悪い気はしなかった。あっという間に夕方。
「湯殿さん」
「どうしたの」
「どうして俺を誘拐したんだ、何をさせるってわけでもないのに」
「どうしてだと思う?」
「見当つかないな」
「高校生の男の子からは特に美味しい鍋が出来るんだよ」
「鍋の時期じゃないだろう」
「冗談だよ」
「だったら何でだよ」
「寂しかったからね」
「・・・・・・」
湯殿さんは、どこか悲しそうな目をしていた。さっきからしていたのだけど、今気がついた。友達がいないのだろうか、そういえばこの家に他にいる同居人は年齢もバラバラだった。そうか・・・・・・。
夜ご飯を食べて、湯殿の部屋に戻ると何故かいない。どこかに行ったのか。ひとり部屋に残され、手持ちぶさたにしていると、ここはよく考えたら、近い年の女子の部屋にいるということに気がついてしまった。意識しなければなんということはなかったのに、その机の引き出し、押入れの中、すべて気になる。机に手を伸ばしたそのタイミングで湯殿さんが帰ってくる。ぐおっ!
その表情を見ると、やたら悲しげ。いったいどうしたのだろうか。
「ひので君」
「どした?」
「あした、九尾の狐がひので君のこと迎えにくるらしいよ」
「そうなのか」
「そしたら、私はひので君を誘拐したわけだから、真っ先に逃げるからね」
「わかった」
微妙に不思議なところがあるが、こんなものなのかもしれない。そして
翌朝、湯殿さんのいったとおり、九尾の狐が迎えに来て、丸1日いた謎の家を出て山を降りた。来るときは夜なので解らなかったが、深くて美しい山だった。
そして下の温泉街に戻ってくると、旅行は取り止めだね、と九尾は言い、その日のうちに電車で家に帰った。
「おかえり!」
はるかときぼう姉さんを顔を四日ぶりに見る。なんか落ち着くのは、家族だから。
「旅行どうだった?」「なにか美味しいもの食べた?」「写真みせて」などとたくさんはるかに聞かれる。誘拐されたときはケータイは置いていってしまったので、その前の荒海さんと出掛けたときの写真や、行き帰りの九尾との写真は残っていた。
「いいなー、私も今度連れてってほしい」
楽しそうな写真や話はもちろんあるけれど、誘拐された一日は、不思議で、どこか悲しげな女の子と一日いた、妙な一日だった。あいつとまた会うことは、あるのだろうか。俺はそのことを一週間は頭から離れなかった。
夏休み編 おしまい