72.空がカンバス。
※
イェソドはマルクスに指示された通り、ゲブラー医院にティファレッテの搬送を要請した。このような有事の際にこそ、医院は機能しているべきだ。怪我人が出た時にはすぐに治療できるように用意してあったのだろう、イェソドからの要請にもすぐに対応してくれた。
これで最低限やらねばならないことは済んだ。そのまま先んじて管理局へ向かった召喚士達に合流すべく、馬を走らせる。
その時だった。風の魔力に乗って魔術都市全体に響くその声が、彼の耳にも届いた。
「エアリィか?一体なにを……」
聞き間違えるはずもない。相棒であるシルフの声だ。彼女が、上空を見ろと声をあげている。
馬を止め、言われるがままに視線を上げるイェソド。その視界に映るものは。
色だ。
極彩色の光が都市全体を包み込むように上空を流れていた。
赤、青、緑、黄。とにかくありとあらゆる色が時に混じり合い、時に分かれながら四方八方へと塗りたくられていく。それが正常な自然現象でないことは一目瞭然のことだった。
「水の魔力に色をつけ、それを風に乗せて広げている。ということは、これをしているのはあのニルというウンディーネか」
上空で展開される色彩の饗宴。それは無作為で乱雑、規則性などなにもない混沌としたものに見えた。
しかしそれでいて、色合いも流れる方向もバラバラなその無数の水彩にはなんらかの目的のようなものがあるとも感じられた。なにかをしようとしているのだ。
よく眼を凝らしてみると、水の魔力はある一箇所から放出されていることに気づいた。監視塔だ。おそらくエアリィが風の魔力に乗せてウンディーネをあそこまで運んだのだろう。なんらかの目的を持って。
しかし、その目的とは一体。
分からないことが多すぎる。
しかしただひとつ確かなのは、魔術都市の上空にこれだけの魔力を流すなど、生半可な精霊では到底できないということだ。あのニルという水精には、それを可能とするだけの力があったというのか。
こんなものを見せられて、涼しい顔をしていられる召喚士はいないだろう。それはおそらく他の分野の魔術師にしても同じだ。イェソドは頭上で展開される色彩に釘付けになり、何もできなくなった。
そんな中、今度は先程のエアリィとは別の声が響いてきた。ニルの声だ。
「わたくしは、水精のニルと申します」
その声もまた、エアリィが操る風の魔力に乗って都市をあまねく響き渡る。
「わたくしは精霊としてヒトの―――正しくはホムンクルスの手によって召喚され、意思を、……心を持つに至りました。そしてそれからわたくしは、多くのヒトと出会い、文化に触れ、そして芸術というものを知りました」
その言葉に応じるように、今までバラバラに流れるばかりだった水の魔力の動きが、俄に変化した。緩やかでだからこそまとまりの見えなかった水流が、不意にその速度を上げ、さながら空を切り裂くように鋭く、かつはっきりと規則性を持ったものに変わった。
「絵画というのはとても素晴らしい文化です。本来ならば何の形もない水や油の塊を、紙や板の上に塗るだけで、そこに人や物を写し出します。そうすることで、本来ならそこにないはずのものをまるで目の前に確かに存在するかのように、手で触れることさえできそうなほどはっきりとわたくし達の前に見せてくださいます。時として、眼で見ることのできない、心というものの形さえも」
絵画―――そう、絵だ。ここでようやくイェソドにも分かってきた。
上空を流れる水の魔力は、絵を描こうとしているのだ。いうなれば空をカンバスにしている。
「みなさま、どうかこの絵を、不肖このちっぽけなウンディーネの描く絵をごらんくださいませ」
みるみる内に上空に水の魔力が走り、それが輪郭を形取り、色づけていく。さきほどまで何もなかった、ただ青一面の中に雲が意味もなく散らばるだけだった空に、この短い間で一枚の絵が完成しようとしていた。
※
戦うための魔術に心得の無い者達は、管理局が用意した避難場所へと集まっていた。本来ならば管理局内に避難させるべきなのだが、そもそも召喚士達の目的がそこなのだからむしろ危険が増すだけだろう。
そのため管理局から離れた場所にある別の建物に結界を展開し、そこをひとまずのシェルターとして運用していた。
美術館の館長もご多分に漏れず、そこに身を寄せてほとぼりが冷めるのじっと待っていたところだ。
今この時までは。
風の魔力に乗って、聞き慣れた声が響いてくる。そう、あの水精のニルだ。彼女の声が、魔術都市に住まう全ての住人に向けて呼びかけていた。
それを見ろ。その絵を見ろと。
そんな言葉を聞いて、シェルターの中に閉じこもっていられる館長ではなかった。
「危険ですよ!」
「中に避難していないと!」
そんな周囲の制止の声を振り払い、建物を出て結界を抜ける館長。
「なにをおっしゃいます。あれを、……あれをご覧なさい!空に描かれるあの絵を」
そう言いながら、彼は頭上に描かれたその光景に、瞬きすることも忘れてじっと眼を凝らした。
街だ。
そう、そこには今まさに自分達が立っている、この魔術都市が映し出されていた。




