12.専門家っていうのはやっぱすごいね。
「え?」
気がついた時には、マルクスの隣に一人の初老の男がいた。
本来なら赤い色をしているであろう短く切り揃えられた髪は薄く色落ち、深い皺の刻まれた顔はそれそのものが生きてきた歳月の長さを証明する証のようだった。
その男は、瀕死のザイーネの傍らに立つなり魔術を発動した。
「《エア・コンダクト》」
その詠唱に呼応するかのように、周囲に小さな結界が展開された。ちょうどザイーネとマルクス、そして初老の男の身体が十分に収まる程度の範囲の結界だ。そして結界内の空気が外に吐き出されつつ、同時に新しい空気が生成される。
つまり空気の入れ替え、それがこの魔術だ。これにより空中に浮いている細菌類が排出され、結界内に“菌のいない空間”が生み出される。
それがどれだけ重要なことであるかは、マルクスには分かっていた。
初老の男はその場にしゃがみこみつつ小さく痙攣するザイーネのうなじに軽く手を添えながら、ぽかんとしているマルクスに説明するように語った。
「“無菌状態”は外科治療における原則。緊急を要する事態に際してやむを得ない場合はともかくとして、可能であるなら必ずそうするべきだ。衰弱した身体に対しては、細菌による感染症は千本のナイフよりも恐ろしい凶器にもなり得る。例え空気中、体表面上に存在する微細な菌であってもな。
あのまま施術を開始していたとして、この患者が助かる可能性は低かったぞ。それが分かっているのかね」
それを聞いて、マルクスは思わず反射的にかしこまった返事をしてしまう。
「す、すみません!」
そうしてここで初めて、この初老の男は傍らにいるマルクスの方へと目を向けた。
「とはいえ、其方の声が聞こえなければ此方も駆けつけることはなかっただろう。人命救助を優先しようとするその意思は称賛に値するものだ。なにより、器具を用意してくれていることについては素直に助かった。ありがとう。
だが、施術については此方にやらせてもらう」
マルクスにはこの男にどこか見覚えがあった。
……いや、それどころの話ではない。見覚えどころか、何度も眼にした記憶がある。管理局発行の学会誌に、この男の顔が度々掲載されていた。
他人のことをロクに覚えられないマルクスであっても、さすがに忘れることもない。もっとも、相変わらず名前が思い出せないのだが。
魔術都市において指折りの実力を持つ魔術師は、その実力に対する称賛の証として管理局よりあるものが送られる。
“命位”と呼ばれる称号だ。
その魔術師の残した功績や生き方を讃え、それらを形容する二十二の命位のいずれかが与えられる。そしてそれは魔術都市に生きる全ての魔術師の中で最上位の存在であることを示す、まさしく名の通り命の位となるのだ。
その内の一つ、《教皇》を与えられた者。それがこの老紳士だ。
傷ついた者を治し、病を癒し、喪われゆく生命を救う。魔術が人々に与える恩恵の中で、もっとも色濃いもの。
彼はそれらを執行する者達―――“医師”という名で呼ばれる職業の人間だった。
マルクスは思わず驚嘆の声を上げそうになるところを、ぐっとこらえた。
まさかこれほどの大魔術師が、運良くこの場に居合わせてくれるとは。この医師の手腕は相当なものだ。なにせ彼は以前、身体が半分なくなった人を、延命措置と再生医療を駆使し完全に治癒してみせたという伝説じみたことをやってみせたという記録を読んだことがある。
この老紳士が腕前を振るう場においてのみ、死とは最早恐れる対象ではなくなるのだ。
それほどの医師が来てくれたのなら、もう安心だろう。ということは、こちらの出番もなしか。
ほっと安堵するような、それでいてどことなく口惜しいような、そんな気分に胸を撫で下ろすマルクス。
と、ザイーネの首筋から手を離した医師が続けて呼びかけてくる。
「首筋を通して中枢神経を一時的に遮断した。全身麻酔だ。
しかし、見たところ其方もまったくの素人ではないらしい。器具出しの役ぐらいはしてもらえると助かる。そのために無菌空間に入れたんだからな」
「……へ?」
あまりに突然の申し出だった。つまり、こちらに手伝いをしろと言っているのか?大魔術師の外科処置に手を貸せと。
そんな責任重大な役目を、自分なんかが負えるのだろうか。途端にマルクスの身体が強張る。先程までの、自分ひとりで怪我人を助けようとした威勢は何処へやらだ。
よく見てみると、周囲の空間が無菌になっているだけではない。マルクスの身体の表面にも(いうまでもなく医師自身も)薄い膜のような結界が展開されていた。これなら体表面に存在する表在菌が接触することもない。切り開いた腹の中に直接手を突っ込んだとしても、感染が起こる危険はないだろう。
たった一瞬の内にこれだけの用意を。
これが正真正銘、医師という職業を極めた者の業前というやつか。
「(そうだ。これはいい機会だ)」
魔術都市にその名を轟かす大魔術師にして医術の専門家。その手技を間近で眼にし、それに関わることまでできる。これは魔術師としてこれ以上にない経験になるのではないか。
このチャンスを逃すという手などないはずだ。
「……わ、分かりました!」
マルクスは意を決して応えた。
そうしている間にも、医師の男はザイーネの衣服を剥ぎ取った。何も身に着けていない裸の肢体があらわになるものの、内出血により赤黒く変色した腹部を見て欲情を感じる者など、異常性癖だから今すぐなんとかした方がいいだろう。
その痛々しい患部に、医師は眉一つ動かすことなく手を触れる。
「《ディスインフェクション》」
細菌などの微生物だけを死滅させる“弱い毒”を放出する魔術を発動する。処置を行う部分も無菌状態にするというのは、外科処置の初歩も初歩だ。
「術野の消毒も完了。施術を開始する。
メス」
続けて医師はそう短く言いながら、マルクスの方に手を差し出した。すでにこちらにはわずかにも眼を向けず、じっとこれから救うべき者の身体のみを見つめている。
その迷いも恐れも見えない落ち着いた所作に、危うく反応することすら忘れそうになった。どうやら向こうは待ってなどくれないらしい。
これから処置が始まる。ここからは一分一秒、瞬き一つの時間すらも無駄には出来ない極限の作業だ。やると決めたからには、こちらも何がなんでも喰らいつかねば。
マルクスはすぐにケースを開封し、中の器具を取り出して医師に手渡した。
「はい。よろしくお願いします」
「うむ。傷ついた人を救おうというその願いに応えよう。まぁ、其方はそう身構えず気を楽にしたまえ。
余程おかしな真似しでかしたら、受け取ったメスで切り裂いてその場で殺すけどな」
「(こっっわ!医師って怖っ!)」




