ザーニアちゃん
シュザンナお嬢様は珍しく上機嫌で小学校から帰っていた。今日は長らく生業で隣国へ発ってしまっていた父様が帰って来るとのことで、いつもの眉間の皺も何処へやら。今日は全くおきゃんでも無く気風も上品でその上可愛げのあるお嬢が様になっていた。
黒いのに透き通るようでいて艶のあるロングヘアをファサ、ファサと靡かせていた。
歩調も軽やかに、気分が良いので整った小顔に笑みを浮かべて鼻歌を歌っていた。
逞しいリンデンバウムが均等に植えられた道は、夕焼けに染められて全ての影法師は、昼間の幾倍もあり、空には雲っ切れ一つ無く、まだとても美しく輝き明らんでいるが地面は大体が陰影に覆われている。そこはウンター・デン・リンデンの周囲から不要で機械的な造形物の一切を取り除いたような場所であった。
シュザンナお嬢様はそんな美しい道筋の中にあって、場違いに置かれている小さなゴミ捨て場の前を、鼻歌を歌いながら通りがかった。
「私ザーニアちゃん」とシュザンナお嬢様がゴミ置き場の真横まで来た時、いきなりゴミ置き場の方から明るい様子で女の子の声が聞こえてきた。
シュザンナお嬢様は、不意をつかれ鼻歌を止めて声のほうを見やった。
するとゴミ置き場の中で、シュザンナお嬢様の肩くらいまである木箱の上っ方に、可愛らしい女の子のお人形が座っている姿勢で置いてあった。
そのお人形が座っている場所は、リンデンバウムの長く伸びた影法師に覆われたゴミ置き場の中に在って唯一、木々の合間をすり抜けた夕日が差し込めている。
お人形は夕日に当たっているのにも関わらず瞳は蒼く、髪の毛はブロンドでそれは綺麗な量の多い巻き毛であり腰の辺りまで伸びている。そして、唇はその可愛らしい全体に不安定を齎すほど紅い。
「あら、何て可愛らしいお人形なのかしら」と上機嫌なシュザンナお嬢様は言った。すると女の子のお人形は「私ザーニアちゃん」と答えた。
シュザンナお嬢様何やら面白可笑しくなりゴミ置き場に入り込み、そのザーニアちゃんと言うらしい女の子のお人形の近くへ寄って行った。
「こんばんわザーニアちゃん」とシュザンナお嬢様はザーニアちゃんに挨拶をした。するとザーニアちゃんは「私と一緒に遊びましょ」と言って来た。
「今の時間からじゃちょっと無理ね。それに今日は父様が久しぶりに帰っていらっしゃるので私も急いでいるのよ」
「私とあなたはお友達よ」とお次はこんなことをザーニアちゃんは言って来た。
「あら、そうなの? 私と貴女はお友達なのね。じゃあ私のお家へいらっしゃる? 貴女を父様にご紹介して差し上げなくてわね」
「私ザーニアちゃん」とザーニアちゃんは答えた。
シュザンナお嬢様はザーニアちゃんをゴミ捨て場から抱えて一緒にお家へ帰りだした。
お家に帰る道すがらシュザンナお嬢様は、色々とザーニアちゃんに話しかけた。ザーニアちゃんは何事にも明るく答える。そこまでは良いのだが、ザーニアちゃんは答えるには答えるが「私ザーニアちゃん」「私と一緒に遊びましょ」「私とあなたはお友達よ」と三通りの返事しか持ち合わせていなかった。しかし、シュザンナお嬢様はそれでも上機嫌であった。
ザーニアちゃんはシュザンナお嬢様に限らず、音を出す物に対しては敏感だ。夕日の為に、車色がピンクからロゼワインへと変色したフォルクスワーゲン・VWT2が、ボン、ボンと錆枯れた音と共に、二人の横を通り過ぎて行くと「私ザーニアちゃん」と言って応えたし、夕暮れ時に鳴る、重厚な教会の鐘の音色には「私と一緒に遊びましょ」と誘った。
しかし、一旦機嫌を損ねるとなかなか喋らなくなってしまった。そんな時はシュザンナお嬢様は、ザーニアちゃんを揺すったり振り回したりした。そうするとザーニアちゃんは機嫌を直しまた喋りだす。
シュザンナお嬢様は嬉しくなりザーニアちゃんと手を繋いだ。手を振るとザーニアちゃんはよく揺れ、ブロンドの巻き毛が前後左右に乱れる。シュザンナお嬢様がその様子を見て尚嬉しくなり、フフフと微笑するとザーニアちゃんも「私ザーニアちゃん」と言って嬉しそうだった。シュザンナお嬢様はそれに応えて手を繋いでいる右手をより勢いに任せてブォン、ブォンと振った。
すると、スポンッという音と共にザーニアちゃんの左腕が、肩からすっぽ抜けてしまった。ザーニアちゃんはそのままの勢いで、左手をシュザンナお嬢様の右手に残したまま宙に舞い、リンデンバウムの枝分かれたY字の部分に、右手がすっぽりと嵌って、更にはブロンドの巻き毛も幾らか絡まり宙ぶらりんになった。
「まあ、大変だわ」とそう言ってシュザンナお嬢様はザーニアちゃんの足をどうにか掴もうとするが、逞しく伸びたリンデンバウムの枝はシュザンナお嬢様が爪先を立て、手を限界まで伸ばしても尚高みに在った。
「ああ、ザーニアちゃんが。一体どうしましょう」とシュザンナお嬢様はほとほと困った。もうあまり時間を要すことも出来ない。夕日はもうじきに大地との交わりを終えようとしていた。せめて日が暮れる前にお家に帰らなくては、折角久しぶりに帰ってきた父様を失望させてしまうと、シュザンナお嬢様は憎らしげに枝を見やった。シュザンナお嬢様は、本当は今すぐにでも急いでお家に帰りたかった。だが、枝に引っかかり逆立ったブロンドの巻き毛やら、だらしなく掲げた右手やらを見ていると、あんまりにも彼女が、惨めで愛おしくもあり、置いてけぼりにしてしまうのは、不憫で仕方がなかった。
シュザンナお嬢様は、決心したように枝を一層睨むと「ザーニアちゃん少し待っててね」と言ってザーニアちゃんに背を向け元来た道を走り出した。ザーニアちゃんも「私ザーニアちゃん」と言って応えた。
それから一体どれ程経ったのか。日が完全に沈みザーニアちゃんもそよ風に煽られるのに飽き飽きしてきたのではという頃になって、シュザンナお嬢様は先ほどザーニアちゃんが座っていた木箱と共に戻ってきた。自分の肩位まである木箱を、でかいサイコロを転がす様に一面を地面に着けては、また力の限りに手前側を持ち上げ次の一面を地面に着けてザーニアちゃんの元へ向かっていく。ガタン、ガタンと、その様といったらお嬢様と言うよりは、麦狩りを手伝う農家の小娘に近かった。
「待っていなさいザーニアちゃん。今助けてあげるから」とそう言いながらシュザンナお嬢様は可憐なロングヘアを乱しつつ、木箱の片一方を力の限りに持ち上げ少しずつザーニアちゃんの下へ近づいていった。
ある程度の所まで来ると、ザーニアちゃんも気が付いたのか「私と一緒に遊びましょ」と喜びを露わにした。
「ああ、ザーニアちゃん。よほど寂しかったのね。でももう大丈夫、私が今助けてあげるから」とシュザンナお嬢様はザーニアちゃんの声を聞けば、細やかな右手の人差し指に刺さった木箱の欠片などまるで気にならなくなった。
そしてとうとうシュザンナお嬢様は木箱をザーニアちゃんの真下まで持ってきた。シュザンナお嬢様は呼吸を整える暇も惜しんで急ぎ木箱に乗り上がる。何とかザーニアちゃんに届いた。シュザンナお嬢様はザーニアちゃんの両膝を両手で掴み「もうすぐよザーニアちゃん。ああ、ザーニアちゃん」と言いながらグイグイと体重を掛けて引っ張った。
右手は案外簡単に外れた。しかし、ブロンドの巻き毛が枝に幾重も絡みついて全くとれず、いくら力強く引っ張ってもシュザンナお嬢様の腕程ある枝が僅かばかりに揺れるだけだった。 ザーニアちゃんはトランポリンでもしているかの様に、それはそれは楽しそうに闇の空中をヒョン、ピョンと跳ねている。シュザンナお嬢様は楽しそうに見えなかったし楽しくなかった。シュザンナお嬢様にはザーニアちゃんがリンデンバウムに蹂躙されている様にしか見えなかった。
シュザンナお嬢様は怒りに任せるようにザーニアちゃんの両足にもう殆どぶら下った。するとまたスポンッという音と共に今度はザーニアちゃんの両足が抜けてしまった。シュザンナお嬢様は歯軋りさせながら枝を睨んだ。瞳から涙を流しつつ両足を何処へと構わず雑に投げ捨てた。
両足が無くなってしまうと流石にシュザンナお嬢様が木箱に立っているだけではザーニアちゃんには届かなくなった。しかし、跳び跳ねればザーニアちゃんの腰まで届いた。
ザーニアちゃんは何とも捉え難くスカートを夜風に舞わせている。
「ザーニアちゃん今度こそ助けてあげるからね」とシュザンナお嬢様は意気込む。
「私ザーニアちゃん」とザーニアちゃんは言う。
「この忌々しい枝め。明日にでもなれば父様に言いって、切り落として燃やしてやるんだから」
「私ザーニアちゃん」
「ああ、ザーニアちゃん」
「私ザーニアちゃん」
シュザンナお嬢様は少し間を置き呼吸を調えると膝を曲げて勢いをつけ跳び上がった。シュザンナお嬢様の両手はザーニアちゃんに腰をがっちりと掴んだ。するとシュザンナお嬢様までもが宙ぶらりんの状態になってしまった。シュザンナお嬢様は風に煽られながらも負けじと両手を離さずに力んで体重以上の力を加えて引っ張った。
力を加えるごとに僅かだがザーニアちゃんがリンデンバウムから引き離れるような感触がシュザンナお嬢様に伝わってきた。シュザンナお嬢様は今しかないと振り子のように体を勢い良く一心不乱に揺らす。シュザンナお嬢様の瞳には今やザーニアちゃんしか映っていない。ザーニアちゃんの辺りだけが黄色で怪しく輝き、蒼い瞳がこちらを伺っていた。リンデンバウムが先程よりも強く軋んで悲鳴を上げている。
その時、地面を揺るがすような重低音の唸り声がシュザンナお嬢様に聞こえてきた。長い間木霊すその声はリンデンバウムが叫んだ断末魔の様で、シュザンナお嬢様は止めとばかりに渾身の力でザーニアお嬢様を引っ張った。
麦の成長を妨げる雑草を根から引き抜くような音が聞こえた。それと同時に枝に絡まっていたブロンドの巻き毛を残してザーニアちゃんは枝から逃れた。
シュザンナお嬢様は反動で地面に落っこちて尻餅をついたが痛みなど、どうでも良かった。そちらに気を取られてザーニアちゃんを手放してしまうなんてことは決してしなかった。
「ザーニアちゃん。もう大丈夫よ」とそう言いながらシュザンナお嬢様は腕に抱えたザーニアちゃんを見た。しかし、そこには見知ったザーニアちゃんは既に居なかった。ザーニアちゃんは片腕がもげ、両足を無くし、ブロンドの巻き毛も大分が失われてしまっていた。
シュザンナお嬢様は一瞬、自分の腕の中に在る物が一体何か分からなくなった。
「ザーニアちゃん?」とシュザンナお嬢様は言ってみる。
腕の中の物は何も答えない。黄色い輝きは絶えずに瞳だけはまだ蒼い。
「ザーニアちゃん?」とまたシュザンナお嬢様は問いかける。
だがやはり沈黙は破られなかった。一言でも答えがあればシュザンナお嬢様はいいのだ。腕の中の物はザーニアちゃんに生る。だがそれは起きなかった。黄色い輝きだけが眩しいくらいになっていた。
シュザンナお嬢様は泣き崩れた。
腕の中の物をリンデンバウムに叩きつた。
そしてさらに泣いた。
「シュザンナ・・・ シュザンナじゃないか!」といきなり車道の方から男の声がした。一体いつからいたのかすぐ横の車道にはメルセデス・ベンツ300Dが停めてあり、ライトはシュザンナお嬢様を照らしていた。
男はライトのすぐ脇にいてシュザンナお嬢様に寄ってきていた。男は見目の良いスーツを着た紳士で髭がよく似合っていた。
シュザンナお嬢様はそちらを見向きをせずに泣き続けている。シュザンナお嬢様は男にも車にも気付いていないようだ。
「シュザンナ! シュザンナ!」と男はシュザンナお嬢様の肩を揺さぶり強い口調で呼んだ。
シュザンナお嬢様はやっと男の存在に気付いたらしく、男の方を向いた。そしてその男を見るとより声を荒げて男に泣きついた。
「一体どうしたんだこんな時間に。何があったんだい」と男はシュザンナお嬢様を抱きながら言った。
「父様。ザーニアちゃんが、ザーニアちゃんが」とシュザンナお嬢様はそう言うばかり。
「シュザンナ。落ち着いて、ほらよく深呼吸をして」と父様は言いながらシュザンナお嬢様の背中を擦ってやった。
父様に背中を擦って貰うとシュザンナお嬢様は幾分か気が楽になった。そして言われるがままに数回深呼吸をするとそれなりに落ち着いた。
父様は内ポケットからハンカチーフを出してシュザンナお嬢様の顔を拭ってやり鼻をかませた。
「どうだいシュザンナ。少しは落ち着いたかい?」とシュザンナお嬢様の背中をポンポンと叩きながら父様は言った。
シュザンナお嬢様は声には出さずに一回だけ頷く。
「さあ、一体何があったのか話してごらん。ゆっくりでいいからね。何も焦ることはないよ」
そう言われるとシュザンナお嬢様はつい先ほどまでに起こった一部始終を話し出した。最後の方は少し涙声になりつっかえてしまったが父様に宥められ何とか最後まで話した。
「ザーニアちゃんが死んでしまったの。何も話さないの」とそこまで言い切るとシュザンナお嬢様はまた泣いた。
「そうかい、そんなことがあったのかい」と父様はリンデンバウムに寄り掛かっている物に見向きもせずに言った。シュザンナお嬢様を抱きかかえて車の助手席に入れてやった。そして、自分は一回車の後ろに回りトランクを開けて、何やら物を取り出して運転席に座り、持ってきた物をシュザンナお嬢様に渡した。それは、とても丁寧に包装された箱型の物で、かなりの大きさがありシュザンナお嬢様の前が見えなくなるほどだった。
「シュザンナ、それを開けてごらん。本当は家で渡すつもりだったんだけどね」と父様は言った。
シュザンナお嬢様はまだ少し愚図っていたが正確な手つきで丁寧に包装を解いた。
次の瞬間、シュザンナお嬢様は思わず声を上げてしまった。そこにはザーニアちゃんがいたのだ。
「父様、これは・・・」
シュザンナお嬢様は何と言っていいのか分からなかった。
「シュザンナへのお土産さ。ちょっといいかい」とそう言うと父様は首の付け根にあるプラスチックみたいなものを引き抜いた。
父様は何も言わずに手振りでシュザンナお嬢様を促す。
「ザーニアちゃん・・・」とシュザンナお嬢様は恐る恐る口にした。
「私ザーニアちゃん」と返ってきた。
「ザーニアちゃん」ともう一度言った。
「私とあなたはお友達よ」
シュザンナお嬢様は先程までとは打って変わってとても美しい涙を浮かべた。
「父様、ザーニアちゃんが生き返ったわ」と言いながらシュザンナお嬢様はザーニアちゃんを抱きしめた。父様は何も言わずに数回頷いた。ザーニアちゃんの漆黒になった瞳はただ車の天井を見つめていた。
「さあ、ウチへ帰ろうかシュザンナ。皆も心配しているよ。お前の指も手当てしないとけないしね」と父様は言いながらエンジンをつけた。
「ええ、父様」とシュザンナお嬢様もザーニアちゃんを抱えながらに言った。
そうして車は走り去った。
車が去った後は外灯が地面も照らせないほどに滲んでいるだけでそよ風も止み、木も草も眠りに落ちたかのように暗く、揺れることも無かった。
そこに一匹、中型の野良犬がひょこひょことした足取りでやってきた。どうやら後ろの左足が上手く動かせないようであった。
「私ザーニアちゃん」と犬がリンデンバウムを横切ろうとした時、木に寄り掛かっていたザーニアちゃんは犬を呼び止めた。
犬は歩くのを止めてそちらを向いた。そしてザーニアちゃんに寄って行ってスンスンと嗅ぎついた。
「私と一緒に遊びましょ」とザーニアちゃんは言う。
すると犬は一声鳴いた。
「私とあなたはお友達よ」とザーニアちゃんは言う。
すると犬はザーニアちゃんの残り少ないブロンドの巻き毛を銜えて歩き出した。
ザーニアちゃんは髪の毛を犬に銜えられながらブラブラと揺れた。
ザーニアちゃんは犬の涎が髪の毛を伝って頭に浸み込むまで喋り続けた。
二人はとても仲良さそうにその場を後にした。