泡沫の夢
泡沫の夢
聖地ラスティの領主城館を居として過ごすようになってどれくらいだったろうか?
エリス様と共に起き、食卓を囲み、同じ時間を重ねていく。
当たり前の繰り返しがどれほど幸せなものであるか、これまでの私には想像するのも難しいものだった。
虚無に虐げられるような虚ろな日々をただ無知蒙昧と過ごしていたあの頃、それこそ生きる目的を見失い屍人のようにただ呼吸し、食事をし、目の前の物だけをみて過ごした三年間に終止符を打ってくれたのはエリス様なのだ。
手を重ね、肌を重ね、心を重ねていくうちに凍てついた私の心は少しづつ氷解していったのだ。
そして今日もいつもと同じ、日常が過ぎてゆく――筈だった。
突然降り注ぐ重圧感。得体の知れない何かがこの身の上に落ちてきたような、そんな説明しがたい感覚を受けた後、彼女は血の気の引いた表情を浮かべたまま突如気を失った。
私の叫びに部屋番の者が執務室を飛び出して、ほどなく数名の者を引き連れ部屋に駆け戻ってくる。
「一体どうされたというのですか!?」
「先程突然意識を無くし、倒れ掛かったところをすんでのところで抱き留めたのですが……」
部屋に真っ先に飛び込んできたアリシアに答えながら、とりあえずソファーへ横たえたエリス様の方を見ると、その顔色はまだ優れず意識も戻る様子はなかったが、ほっそりとした手首から規則正しい脈拍が感じる事で、辛うじて正気を保っていた。
「リーリカ、とにかくエリス様を寝室へ運びましょう。誰か担架を、急いで!」
アリシアの声に弾かれるようその場に居た者が動き出す。すぐに用意された担架に力なく横たわるエリスの姿に我が身を抉られるような幻痛を感じながらもほっそりと長い手をしっかりと握り寝室へと急ぐと先回りした数人の手によって既に準備されていた寝台へと慎重に移すと空気を察した男性従者達は部屋から出て行き、私と数名のメイド達のみとなった。
「熱は無いようですし少し様子をみてみるしか」
ようやく暖房の効き出した室内はまだ肌寒く、灯かりを用意すると少しでも冷気を入れないようにカーテンは閉められて隣接した給仕室では水の張られた鍋が火にかけられ鍋の内側いっぱいに気泡を張り付かせはじめているが、もどかしく思いつつも現状でこれ以上出来る事は無いという事で部屋番とアリシアを除いた者達も持ち場に帰された。
「いいですか、エリス様はお疲れになられて休まれているところです。本日の面会は中止としますからそのように」
彼女たちが部屋を後にする際にアリシアが実質的な箝口令を遠回しに指示するのを聞く間も、私はただ身じろぎ一つせず眠り続ける彼女の手を握り、説明しがたい祈りを捧げていた。
神にというよりも、むしろ彼女に対して祈りを捧げていることに気が付くのは、それが半ば懇願に近い私の願いであったことも、後々の事だった。
◇ ◇ ◇
船に切り裂かれる波の音が聞こえた気がした。
空に響き渡る霧笛の音は、どこか物悲しく、或いは誰かの心の叫びにも聞こえ、暗く立ち込めた灰色の雲の中を彷徨う心中を代弁しているかのようだった。
どこか鼻をつく刺激臭の混じった空気に眉をひそめながら、私は自分のおかれている状況をいまだ呑み込めていない。
「ここは……リオンの暁号……ではありませんね」
まともに船名を知っている船と言えばそれ位しかないのだが、今私がいるのはどう見ても見覚えのない――推定船らしきものの中だった。
床こそ絨毯が敷き詰められてはいるものの、白い塗料で塗られた壁が木材でないのは明白であったし、所々に設置されている小さめの格子の中に灯る明かりは一切の揺らぎを見せない上に、不思議と冷たく白い光を発している。
無意識に触っていた壁の冷たさにうんざりとしながらもそこからなかなか手を離せないのは『未知への不安』と言う名の自身の弱さゆえだろう。
「これは、船内図?でしょうか」
壁に直接貼り付けられた得体の知れない薄く白い板には船を縦に割ったような図案が書かれており、読めそうもない文字らしきものが所々に書かれていた。
唯一の救いと思ったのはどうやら現在位置らしき場所には赤く丸で囲われており、ここが中層の船首付近であることを示していた事だろう。
「さて、どうしたものでしょう」
薄々感じているのはこれは恐らく夢なのだろうということ。
随分と現実離れした夢ではあるが、夢の中の世界が不可思議であるのはよくある事で、気にするだけ無駄というものなのだから、それ以上に考えても仕方ない。
どうしたものかと思案している間にも環境音楽のように波を鋭く切り裂く音や、不気味な唸りにも似た低音が微かに聞こえるものの、不思議とあまり揺れは感じないのは夢である為だろう。
「とりあえずあちらに移動してみるしかないようですね」
目の前に張り付けられている船内図によれば船首方向は周囲に比べ大きめの部屋があるだけで行き止まりとなっている。つまり後方へと真直ぐに続く通路を進むしかないのだか、廊下の両側に等間隔に並ぶドアに、無限迷宮にでも迷い込んでしまったかのような気分にさせられて、少々辟易とした気分で歩き出した。
――どれくらい歩いただろうか?
突然開けたその場所にはおおよそ柱という物がなく、ちょっとしたパーティーなら充分開けそうなほどのホールともいえる空間が広がっている。船首側の壁面には今歩いてきた廊下を挟んで左右にそれぞれ赤と黒の形の違う意匠の付いた通路の先に折れ曲がるように階段があるようで、逆に船尾側には二本の廊下が見えていて、その間にはよく見ればバーカウンターのようなものが備え付けられていた。
さらに両舷には別の層へと続く階段が左右対称にあるようで進むべき道の選択肢が一気に増えてしまうと、先ほどまではただ廊下を進むか戻るかだけの単純な選択であっただけに余計に迷いが生じてしまう。
「まずは後方への廊下ですが……」
漠然と船尾を目指すという考えはあるものの、先ほどの図ではこの辺りの細部の図面は描かれていなかったためにどちらを進めばよいのか分からない。
とはいえこの場で目覚めるまで待っているという気分にもなれず、なんとなく左側の通路へと歩みを踏み出すと、奥の方で何か影のようなものが横切ったように見えた。




