冬の陽炎
年末前にクラッシュしたSSDがデータ復旧サービスからやっと戻ってきました。
現在PC環境再構成中ですが大型連休前と言う事もあり本格的に構成戻せるのは4月末頃になる見込みです。
冬の陽炎
夜のうちに咲き誇った氷の花が木々から溶けてなくなる頃、人々の動きも活発になっていく。街路のそこかしこに張り巡らされた水路の水はまだ凍ったままではあるものの、厚さ数センチの氷の下には清らかな水が水草を揺らしていた。
街中に数十か所はあるはずの湧き水の付近では流石に凍っていないものの、風通しの良い表通りの脇にある水路などはすっかりと表面を氷に覆われているのだ。今はさざめく人々にかき消されている水音も、夏場であるなら涼し気な音色でこの街を飾り、名物の一つになっている。
「マチルナどうかしら?」
「おかしいですね……ありません」
数メートル先で水路を覗き込んでいるのは氷にぼんやりと映る自分――ではなく、同じ日に生を受けた双子の姉だった。そんな姉から視線を戻し、迂闊にも氷を踏み抜かぬように足元に注意を払いながら凍った水路の上をゆっくりと移動して、おそらくこの辺りにあるであろうある物を私は探していた。
「仕方ないわね、そろそろアーレス様達に報告に行かねばなりません、お戻りなさい」
そう言いながら近くまで来るとこちらに向けて細い手を伸ばしてくる。私はその手を取り水路の側面の石垣の隙間に足を掛けると一息に道路へと飛びあがり、やや先にある路面に視線を投げて、謎の襲撃者との戦闘を思い出していた。
何度かそちらと水路を見比べて、水路周辺の路上にも注意を払うものの、残念ながら私達の探すそれは見当たらず、後ろ髪を引かれる思いで屋敷の方角へと歩き出す。
「マルチナ姉様はあれを何だと考えますか?」
進む先に視線を据えたまま横に並び歩く姉に問いかける。
「さあ。良からぬものであることは確かなんでしょうけど、ただの吸血鬼ということはないでしょう。朝にも話しましたが確かに灰となったのは下級の吸血鬼であったはずですが、這い出してきたアレには霊銀が利かなかったのだからもっと別の何かとしか今は言えないわ」
折角出直してきたというのに目的のものは見つからず、新たな発見も無かったという事で姉の言葉は硬い。無論私も、いや、むしろ実際にナイフを投擲していた私の方が悔しさが募っているのだが、それを顕にしても姉に気を遣わせるだけだろうと思い口を噤むが、黙っていれば猶更頭の中ではあれこれと思考してしまうというもので、何度も行動を思い起こしては虚を突く為に投げた一投の行方が重い帳を心の上に垂らしていくのだ。
せめて普通のナイフを投げれば良かったのかなどと後悔しても、虚を突く為にはそれが真であると思わせてこそ虚となり得る訳で、あの場面で何の変哲もないナイフを投げていれば敵の注意を惹くことは適わなかっただろうという結論に達して一つ嘆息するのだった。
「らしくありませんね」
「そう……ですね」
いくら霊銀の短剣が高価なもので、それを回収できなかったと言えいつまでも気持ちを切り替えられないでいるのは確かに自分らしくないだろう。いや、私自身実際には霊銀のナイフが見つからなかったから落ち込んでいる訳ではないのは気が付いてはいるのだ。ただそれを認めるのが癪だというだけで見つめるべき部分から目を、意識を逸らしているに過ぎないのだろう。
つまりは、コントロールに絶対の自信があったにも関わらず、ナイフはターゲットから大きくずれたという事実から。
動線を封じつつ、後に回収を容易にするために狙ったのは丁度対角にあった樹木だった。確かに手ごたえはあった筈なのにそこにある筈のナイフはなく、突き刺さった形跡すら見つからず、周囲の路上にも凍り付いた水路にも見つからなかったのだから一体霊銀のナイフは何処へ刺さったというのだろうか。
すっかり晴れた朝霧と裏腹に、私の心にはどこまでも深く霧が立ち込めるのだった。
◇ ◇ ◇
「それで……我らが姫君の様子はどうなんだい?」
「どうもこうもまだ便りは二通だけだよ。今のところはまだ大人しくしているようだ」
「なんだ、てっきり到着早々に暴れて逃げ出すと思っていたんだけどね」
大袈裟な身振りを交える弟の表情は本気とも冗談ともとれない曖昧なものだった。些か元気の良すぎるうちの姫が近頃発生している不穏な事件に巻き込まれないように少々強引に見合いという名目で北の大陸へ送り出してからまだ半月程しか経っていない。
いくら独自の情報網をもつ王家と言えど正規の行程で急いでも五日ほどかかる距離をあけて、そう頻繁に情報のやりとりをすることはできない上に、サラ達の移動日数を考えれば到着後に二度も連絡を寄こしている諜報員は充分過ぎる仕事をしていると言えるだろう。
「まあ、あいつだって王家の人間だ、いくら冒険者として名を馳せたところで、そのしがらみは簡単に切り離されない事位理解しているという事だ」
とは言ったものの、果たして本当にその自覚がないのは自分たちであることに決して言及しないように、そっと僅かに頭をもたげる罪悪感を押しやった。
「しかしそうなるとかの地へ派遣した者は待ちぼうけをさせてしまうな」
「いや、あれもなかなか忙しい身だろう。暇を持て余しているとも思えないが……そうだな、事が万事解決したならまた少しばかり便宜を図ってやるくらいの事をしてやれば充分だろう」
言いながら件の人物を脳裏に想像し、猫科の獣を思わせる蠱惑的な瞳を身震いしながらかき消した。
とうの本人が遠く離れた地でくしゃみをしているなどとは想像もせず、ただ些か歪んだ性癖が齎す一種独特の威圧感だけを脳裏に感じて、本能の告げるままに考える事を止める事にする。
嘆息しながら気持ちを切り替え辺りを見回せば、ここ数日ですっかりと様変わりしてしまった執務室の様子が嫌でも目に入り、壁に貼られ街路図は既にいくつもの記号や注釈が書き込まれ、それでも足りない注釈は別紙に書き留められて地図の下に置かれているテーブルの上にまるで貼り絵の様に並べられていた。
「……?」
「兄上何か気になる事でも?」
長年共に過ごしてきた弟が、僅かな空気の変化を目ざとく見つけて問いかけてくる。
「そういうわけじゃないんだが……いや、ブレスト注釈の貼られている箇所に随分と偏りがあるように思わないか?」
「そりゃ事件のあった近くは重点的に聞き込みを行っているんだ、そんなことにもなるだろう」
「そうなんだが、いや、そうでなくてだな、何かこう引っ掛かるというか、連想させるんだが、それが一体なんなのか自分でも分からないのだ」
普段ならここで軽口でも叩く弟も流石にこの状況では弁えているようで、こちらの視線の先にある地図を凝視してはなにやらぶつぶつと呟いている。
ついに何かを閃きそうになったその時、不意に鳴り響く時告げの鐘によりその閃きが霧散してしまうまで、二人だけの執務室には不思議な空気で満たされていたのだった。




