平穏な朝
2018年10月4日改稿
平穏な朝
「結局お戻りになりませんでしたね」
朝支度をしながら彼女はそんな事を言っている。
「別に……泊まりになる可能性は聞いていたかしら」
私は妹ちゃんの言葉を思い出しながらそう切り返すと、この広すぎる部屋を改めて見回した。
毛足の長い特上の絨毯の敷かれた大きな部屋には、天蓋付きのこれまた大きな寝台が二つほど置かれており、部屋の隅には見事な彫刻の施された箪笥も据え付けられている。
おもむろに三つあるうちのドアのうちの一つに手をかけて開ければ、そこは控えの間となっており、ずらりとこれまた立派な箪笥が並べられていた。
手近な箪笥の一つを開けてみれば、整然と立派なドレスが掛かっており、私は思わずため息をつくのだった。
「凄い宿ですね、ここは。そのドレスも宿の備品でしょうか?」
「まさかなのよ。でもこの状況を見れば備品だと言われたほうが納得するかしら」
背後から覗き込むように、ちゃっかりと一緒に覗き見していたマイアにそう言って、早々に控えの間を後にすれば、反対側のドアの前には一人の女性が行儀よく控えていた。
「おはようございますお嬢様方。昨夜は良くお休みになられましたか?」
「えぇ……」
とだけ答えて私は慌てて記憶を探り、彼女の名前を頭の中から引っ張り出す。
そう、彼女は――
「リフィルです」
まるで心の中を覗かれたような気分になりながら、絶妙なタイミングで改めて名乗った彼女に内心舌を巻いていた。この特別室付きの給仕係として事ある毎に世話を焼こうとする彼女とは、昨夜もひと悶着あったのだ。かろうじてその魔手から逃れるために、私は大事な自分の眷属まで犠牲にしたほどだ。
そんな事を考えながら昨夜のマイアの状態を思い出せば、それもまた仕方ない、必要な犠牲だったのだと自分に言い聞かせ、次なる魔手が伸びる前に私は先手を打つことにした。
「そう、リフィルさん。少し喉が渇いたかしら? なにか用意できて?」
「冷たいものと温かいものどちらがよろしいでしょうか?」
「そうね、では温かいものを戴こうかしら」
「ではお寛ぎになられてお待ち下さい」
言いながら背後のドア――給仕室へと続くドアへとリフィルが消えるのを確認すると、私は自分でも呆れるほどに素早い動作で夜着を脱ぎ捨て、黒を基調とした服へと着替えを済ます。なぜそこまで急ぐ必要があるのか? そうしなければならない理由はあのリフィルという給仕の少しばかり歪んだ特殊な嗜好にある訳だが、生憎と私にはそのような趣味は無く、その機会をふたたび与えてやるほど愚かでもないのだ。
そんな私の行動にマイアが疑問の視線を投げかける中、香ばしく薫る湯気を立てるカップを銀の盆にのせてリフィルが給仕室から戻ってきた。
「お待たせいたしました」
ほんの一瞬何かに鋭い視線を向けたと思った彼女は直ぐに何事も無かったかのような表情に戻ると、窓辺のテーブルへカップを置いて、椅子を引くと私に座るように促した。
「ありがとう。頂くわ」
返事の代わりに深々と頭を下げた彼女は音もなく寝台の方へ移動すると、手早く私が脱ぎ散らかした服を拾い上げると深めの網籠に入れた。
「それではお飲みになられてる間にわたくしはこちらの洗濯の手配をして参ります。では」
そういって速足で部屋を出ていく彼女を見送りると、私は嘆息するのだった。
◇ ◇ ◇
『ちゃ……とえ……ね』
頭の隅に僅かに残る声に首を傾げながら、私は眠りの世界から帰ってきた。
既に外は明るく、耳を澄ませばどこからともなく忙しなく準備を行う物音や掛け声が聞こえてくる。
「おはようございますエリス様」
不意に開いたドアのほうから声を掛けるのはすっかりと身支度を整えたリーリカで、今日も美しい黒髪が彼女の僅かな動きに合わせて揺れていた。
「おはよう、リーリカ。今日も可愛いわね」
「エ、エリス様……その、褒めてくださるのは嬉しいですが、突然言われても困ってしまいます」
綺麗な白い肌を僅かに朱に染めながら身をよじるリーリカは可愛らしい。それだけで半日は余裕で眺めていられるくらいだ。
リーリカは実際には私より年上だけど、童顔の黒髪の彼女は少女の面影を色濃く残しており、そこがまた行動とのギャップを生んでおり、心をくすぐるのだ。
「ほら、そんなところでモジモジしてないで早く傍に来て」
「はい」
寝台の上に薄い夜着のままで座るとリーリカは静かに私の横に座り、僅かにつられて沈むマットに身を任せリーリカに身体を寄せる。
「おはようございます、エリス様」
「……ん」
柔らかく温かい感触が私を包み込む。
僅かばかりのその時間を楽しんで、薄く瞼を開ければリーリカの長い睫毛の奥に、潤んだ黒い瞳が揺れていた。
「今日は如何なさいますか?」
少し名残惜しそうに目を伏せて静かに離れると、すっかりいつものリーリカに戻ってそんな事を聞いてくる。
「そうね、朝食の後は領主城館へ行きましょうか。でもそう言えば私シリウスの城館ってまだ行った事なかった気がする」
「そう言えば……確かに出向いていませんね」
「そもそも城館に行くなんて最初は思ってもみなかったし、前にシリウスに立ち寄った時は緊急時だったからしかたないよね」
自分でも言い訳じみた言葉に苦笑を浮かべながら、私はまだ会ったことのないシリウス伯爵の事を考えていた。
「少し、驚くかもしれませんね」
「どういうこと?」
「ふふ、すぐにわかりますよ」
私の問いに思わせぶりな事を言うリーリカは悪戯っぽく笑って、ポケットから綺麗な銀の櫛を取り出した。
「さあ、御髪を整えましょう」
優しく髪を梳かれながら、私はリーリカの言っていたことを少しばかり考えていたけれど、すぐにリーリカの動作に意識を切り替えて朝支度を進めるのだった。




