吹かれる風に身を任せ
吹かれる風に身を任せ
「自分の得意分野で応じなさい」
昼間言われた言葉が何度も頭の中でリフレインする。
冷え込む空気に抗うように、毛布の代わりに柔らかなリーリカの肩を抱き寄せて密着度を上げても、私の中に吹き荒れている冷たい風は一向に収まる気配を見せなかった。
それもそうだろう。マリスがその一言に込めた意味は今の私の弱さを的確に捉えたものなのだから。
人と対峙する事などほとんどなかった私は対人戦闘の経験が、全くと言っていいほどなかったのだ。緋眼であったマリスと対峙した時も、最初から実力行使など全く考えていないほどだったし、魔法という力はあまりにも大きい力だという事を無意識に自覚していた。
強すぎる殺傷能力を持つ魔法を生身の人間へ向けて放てばどうなるかなんて、考えたくも無かった事なのだ。
強靭な皮や、甲殻を持つ魔物でさえも簡単に切り裂く鋭い風。全てを貫き内側から燃やしてしまうほどの轟雷。よく使う二系統の魔法でさえも対人として使うには工夫が必要だろう。
「……寝付けないのですか?」
「リーリカ、ゴメン。起こしちゃった?」
ベッドの中に入ってまで考えに耽っていた私の胸元から掛けられた声に、慌てて毛布の中を覗けば僅かな光にリーリカの黒い瞳が小さく輝いていた。
「エリス様、今はあまり深く考えないほうが良いですよ。確かにあの者のいう事は道理に合っているのですが、それを気にしすぎて足を止めてしまうなら、それでは本末転倒となりましょう」
「うん、それも分かってはいるんだけど、ね?」
この暗がりの中で苦笑混じりに言い訳する私をリーリカが見たかどうかはわからなかったが、彼女は少しだけ布団の中から這い上がると白く柔らかい胸元に私の頭を抱え込んだ。
「今は何も……何も考える必要はありません。さあ、頭の中をからっぽにしてくださいな」
素肌の温もりを感じながら私はたちまちリーリカの匂いに包まれる。
嗅ぎ慣れた僅かに甘い彼女の匂いはゆっくりと私の頭の中から思考力を奪い取っていく。
耳を澄ませば高鳴りを増す鼓動の音が心地よく、オーバーヒート寸前だった私の脳を麻痺させてゆくのだ。
リーリカの身じろぎと共に耳を這う柔らかくも温かな感触に身を委ねれば、次第に自分の鼓動も釣られるようにその間隔を狭めていくのだ。
僅かに聞こえる水音が、囁かれる愛しみの言葉が、彷徨う細い指先の感触全てが二人だけのこの世界を加速させてゆくのだ。
互いの吐息が次第に切なさを増していけば、やがて絡み合う吐息は一つになった。
暗闇の世界は淡く白い世界に塗りつぶされて、果てなき虚空へと彷徨い出ると、私達は深く眠りに就くのだった。
◇ ◇ ◇
早朝から部屋を抜け出して、リーリカと二人だけで朝焼けの海を眺めながら入浴を済ませると、脱衣所にはアリシアさんが仏頂面……なんて言い方をしたら怒られそうだけど、少しばかり拗ねたように浴室から出てきた私とリーリカを迎えてくれた。
「おはようございます、エリス様」
「おはよう、アリシアさん」
「アリシアと呼び捨てにしてくださいといつも申しておりますわ。それよりも、です。湯浴みをされるならどうして一声かけてくださらなかったのですか。折角わたくしはエリス様のお世話をさせて頂くためにこの船に乗り込んでいるというのに、困ります」
「いや、ほら……こんな時間だったし、悪いかな、なんてね」
内心失敗したと思いながら、アリシアさんに朝から言い訳をする羽目になった訳だけれど、そんなやり取りの間にもアリシアさんは私たちへの気遣いを忘れない。
なにせ私とリーリカは素っ裸なのだ。そして今の季節は冬なのだから、当然すぐに湯冷めをしかねない。そんな私たちに彼女はバスローブを渡しつつも不満をいうのだけれど、こんなときリーリカが口を出すことは無く、淡々とすべきことをこなしているのだった。
「エリス様はもっとゆったりと構えられていれば良いのです。我が国王はエリス様への協力を惜しみませんが、それはまた別の話。わたくしたちがエリス様のお役に立ちたいと思っていることも、これはまた別の話なのですから」
一体私にどんな期待をかけているのか気になるところではあったけれど、アリシアさんは真っ直ぐに私の目を見て、告げてくる。そんな様子のアリシアさんに私がどの様に返事をするか迷っているとリーリカが珍しく相乗りするかのようにこんなことを言うのだった。
「エリス様が現れてから、およそ半年あまり。エリス様はまだ気が付かれていないようですが、新しい風が吹き始めているのは間違いなのです。それは何処に、というものではありませんが、これから世界が大きく変わる予感に繋がっているのでしょう。長らく停滞にも似た暮らしを享受していた者達が感じ取り始めている変革。既にノーザ王国に留まらず今後は西の大陸、ブランドル公国を中心に世界へ拡がって行くことでしょう」
さして自覚のない私には、リーリカの告げたその言葉の意味をとらえきれていないのだけれど、アリシアさんは共感を大いに得たようで、大きく頷きながらダメ押しのような言葉を投げかけてくるのだった。
「些事など周りの者に任せておけば良いのです。エリス様は思うがままに、ご自身がなさりたいことだけに集中していれば結果は自ずと付いてきましょう」
それもどうかと思う所はあるものの、力強い演説のように力説するアリシアさんに押し切られるよう反論の機会を失っていたのだった。
私はただ状況に流されているようにも思うけれど、ほんとにそんなんでいいのかなぁ?
なにより今朝の事だって、単純にリーリカと二人の時間を過ごしたかっただけだったのだし……もちろんそんな事を改めて口になんかできないけれどね。
そう、それは非常にプライベートな事なんだから。
◇ ◇ ◇
遠く離れた港から、船の入港を報せる早鐘の音が風に乗り聞こえていた。
デッキの先端から見る王都リオンの港はまだディティールこそは見えないものの、岬に造られた美しい都の全貌を望むには丁度良い距離だった。
「帰ってきたわね」
「無事に戻って来れて何よりです」
横に並ぶリーリカは長いメイド服のスカートの裾を時折吹き付ける横風に大きくなびかせながらまだ遠い港町を真っ直ぐに見つめていた。
リーリカのお気に入りと思われる濃紺のメイド服も、今はエプロンだけを外しているので頭に飾られたホワイトブリムが無ければ普通の洒落た洋服にも見えるだろう。
もうじき到着という事も有り、外套を襟元に固定した姿は、ローブでも着ているように見えるけれど、胸元を飾る大きな可愛らしいリボンとウエスト付近から左右に広がる贅沢なフリルの為か、重苦しい雰囲気は全く受けなかった。
私と言えば着た切り雀と言うわけでは無いけれど、この後王城へと登城するという事も有り結局はもっとも長く着ている深緑色の服を着ているけれど、この服を着ていると不思議と冷たい筈の海風もさして気にならないので丁度いい。
なによりベロニカさん曰く、エルフの王族衣装ということもあり模式的に "相応しい構成" となっているそうで一国の王の前に出ていくのにも何の問題もないのだそうだ。
「さて、エリス様。数日は王都で準備に追われるとは思いますが、その後はまずはどちらへ向かわれます?」
「そうね……」
私は地図を頭の中に思う浮かべながら、これから回ろうと考えていた各地の位置関係を思い出す。
まず聖地ラスティへは早めに行かなければならないのは間違いない。
純粋に種から育ったもっとも若い世界樹の原木が、今後の計画の鍵を握るからだ。
私が持ち歩いていた盆栽化した世界樹は、ウィリアさんの治めるエルフの隠れ里――ファージの里に生える古い世界樹の若芽を育てたものだ。
そしてこれからの世界に必要となる世界樹は、もっと若々しい世界樹より育てた苗木を使う必要があると私は確信している。
長い時を経て、ファージの世界樹の意識は朧気となっており、それに比べラスティの世界樹の意識は驚くほどにはっきりとしたものだったから。
流石に大地から離れたこの船上では感じることはできないものの、大地に根付く草木などを通じれば、その存在を感じられるほどの若々しい世界樹なのだから。
しかし、そこまで感じていながら、私はなぜか一度シリウスに立ち寄ってみようという気になった。
ほんの一瞬よぎった面影を思い出してしまったが故に。
「リーリカ。まずは王都から一度シリウスに向かいましょ。ベロニカさんのところにも随分顔を出していないし、グローリー男爵家にも一度挨拶に行きたいわ」
ミリア嬢の一件の後も顔を出していない、彼女の実家にあたるグローリー男爵家。娘を送り出した両親に一度会っておきたいと思ったのだ。リーリカが定期的に連絡は入れてる筈だけれど、それはそれ。たまには直接会ってもいいのではないかと思うのだった。少なくとも私と出会うまでの三年間はリーリカが暮らした屋敷なのだから。




