隠された怖れ
隠された怖れ
見上げる空に浮かぶ疎らな雲を眺めながら、私は艦橋から張り出した庇の上で転がっていた。
別にそこでなくとも良かったのかも知れないが、直上とまではいかないものの、大分高くなった太陽に照らされながら、ただぼんやりと時間を過ごしていたに過ぎない私は波を切り裂く音と、船体が時折発する木のきしむ音を子守歌に昼寝と洒落こんで居ただけなのだ。
ともあれ――先程から加わった騒音のおかげでこうして浅い眠りから引きずり出された私は、半身を起こしてその発生源を確認すると、再び庇の上で空を眺めるように仰向けとなると、再び目を閉じたのだが、タンッという音と共に軽く伝わる振動を感じた直後に、身体に掛けられた毛布に再び瞼を開けると漆黒の髪のメイドがこちらを覗き込んでいる。
「何か用かしら?」
「吸血鬼が日光浴とは珍しいと思いまして」
「それは残念だったわね、別に珍しくもなんともないかしら」
「そうですか」
「……まだ何か用があるのかしら?」
外れない視線を辿れば相変わらずこちらを観察するような無遠慮な漆黒の双眸が向けられており、立ち去るつもりは無いようだった。
「別にそこに居るなら居るで構わないから、せめて座ってくれると嬉しいのだけれど。突っ立ってられても落ち着かないったらありゃしないのよ」
「そうですか、では失礼して……」
スカートの裾を直しながら庇の上に座るリーリカに倣うように、再び半身を起こして座り直すと甲板の上で行われている訓練が目に入ってくる。
二本の船体の間に渡された頑強な梁の上に創られた、まるで舞台のようなデッキの上では妹ちゃんとブランドルの姫がそれぞれ得物を手に飛び回っているのだ。
殺陣という程の気迫はないが、なかなかに速度感溢れるその光景を眺めている船員も少なくない。
長い髪を風に踊らせながら、妹ちゃんが飛び掛かる。
しかし折角小回りの利く短剣をそのように振り回しても動線が単調となり簡単にその軌跡は読まれてしまい、上半身を半身に引くついでに弧を描くように軽く払われたロングソードによりあっさりと打ち払われる。
そして打ち払ったロングソードはそのまま反対側に弧を描き続け、短剣を払われ態勢の崩れた妹ちゃんの左側面を上段から斬り付ける――ところで寸止めされた。
「お話にならないわね」
その様子に率直な感想を漏らしつつ横目で妹ちゃんお気に入りのメイド――リーリカを窺うと、彼女は表情を変えないままで問いかけてきた。
「あなたならどうされますか?」
「どうもこうもないわね。そもそもなんで妹ちゃんは短剣なんか使っているのかしら?」
「……ですよね」
嘆息と共に短く呟いたリーリカは再びこの "大して意味もない訓練" へと視線を戻したようだ。
「わざわざ自分の苦手な分野でやり合うなんて、時間の無駄も良いところかしら」
妹ちゃんの戦闘スタイルは間違っても近接戦などではないだろう。人並外れた魔力を前面に、高火力の魔法で攻撃するべきだ。力でも技量でも劣っている相手にその劣っている部分でいくら張り合おうともそれは時間の無駄である。強いて言えば努力した気にはなれるかもしれないが、だったら得意分野を伸ばしたほうがよほど時間も短く済むし、効果も上がるというものだ。
「止めにいかないのかしら?」
「エリス様が望まれてやっている事ですので」
「過保護も良いところだけど、そこまで思うならきちんと教えてやったほうがあの子のためかしら」
「…………」
「いいの? このまま放っておけばいつかこの付け焼刃の訓練が逆にあの子の命を脅かすことになるかも知れないと言っているのよ?」
「ですが……エリス様が望まれて――」
リーリカが言い切る前に手で言葉を制し、彼女の瞳と真っ直ぐに向き合いながら、忠告をした。
「そんな意固地なとこばかりイリスに似なくてもいいものを。あなただって多少は腕に覚えがあるのでしょう? だったら何を迷う事があるのかしら?」
「……い、です。 いえ、なんでもありません」
一瞬何かを言いかけて、すぐにやめたリーリカは軽い会釈の後に庇の上から軽々と飛び降りてしまった。
「怖いです、か。……馬鹿な娘。諌言の一つや二つで妹ちゃんに嫌われる訳ないじゃない」
相手に寄せる思いが強すぎるあまりに盲目となっている漆黒の少女に、ふと重なる人物は――在りし日の自分だった。
「――やれやれ、お節介も大概にしたいものなのだけどね」
昼寝を諦めた私は先に飛び降りたリーリカに倣い、温かい毛布を小脇に抱えると、ふわりと宙へ身を躍らせて、打ち合う剣戟の音響くデッキへと足を運ぶのだった。
◇ ◇ ◇
乱れ切った息を無理矢理押し込んで、袖で額にベッタリと張り付いた髪を無造作に拭う。
何をしても通らない。私の感想はそのようなものだった。
染み込んだ汗の冷たさを手の中に感じながら、かろうじて地に膝をつかない自分を今は褒めてやりたいくらいだった。
やっぱりサラは強い。
何がというものでもないだろう。冒険者としてこれまで培ったその全てが、私のもつ力を上回っているという、ただそれだけの事だった。
単純明快、至極簡単。これが弱肉強食の実戦であるならば、私の命などとっくの昔に刈り取られ、無残にその屍を晒している事だろう。
確かに足元には及ばないとはわかっていたものの、それは本当の意味では理解できていなかったのかもしれなかった。
あまりに乖離した実力に、為す術もなく翻弄される私はさながら操り人形の様だったろう。
敢えて隙と言う名の餌を目の前にぶら下げられれば、余裕のない私は簡単にその誘いに乗ってしまう。いや、乗らざる得ないのだ。そうして何度となく誘い込まれては手痛いカウンターの餌食となっているのだから、いい加減に自分の無力さも愚かしさも、滑稽と思えるほどで一矢すら報いることの出来ない焦りは、それこそサラの思う壺だったのだろう。
そのように乱れた心の私が斬りかかったところで、サラには無手の相手をしているのと変わらなかったのではないだろうか?
どうやって一本取るべきか?
この訓練から何を学ぶべきか?
息を整える間に巡らせる思考は突如として手を打ち鳴らしやってきたマリスによって遮られることとなる。
「ハイハイ、そこまでかしら」
けだるげに歩いてきたマリスを見てサラは剣を鞘に戻して、ルーシアさんから受け取った手拭で汗を拭っているようだけれど、私と違いじんわりと汗ばむ程度のものなのだろう。
サラサラと風に靡くアッシュブラウンのショートヘアは顔に張り付く事も無く、憎たらしい位に息も切らしていない。
「ちょっと、マリスどういう事? まだ訓練は終わりじゃないわ」
一応の抗議を申し出ると、マリスは真紅の瞳を少し細めると、大袈裟なジェスチャーと共に両手を肩の高さ程まで上げた。
「時間の無駄遣いはやめなさいと言ってるだけよ、妹ちゃん。訓練を否定するわけじゃないのだけれど、いいかしら? あそこまで手を抜ききった相手にあなたが近接戦闘をしかけることがナンセンス。どうして魔法を使わないのかしら?」
「いや、でも護身術代わりに近接戦闘も出来なくちゃまずいかなって」
「どうしてかしら?」
「いや、だから何者かに襲われたとき対応できなきゃ困るでしょ?」
「そうね。では言い方を変えるのかしら。あなた姫から一本でも取ることが出来たのかしら?」
「できてない……けど」
「でしょう? 悪いけれどまったくお話にならないもの。そして、妹ちゃんを襲う者が姫より強い、もしくは同じくらいだとして、あなたは何かができるのかしら?」
少しばかり意固地になって、マリスに反論していた私は彼女が言いたかった本質を、そこに着てようやく気が付いた。
「確かにマリスの言う通りかもしれないけれど、でもそれだけじゃ」
「違うわよ、妹ちゃん。有事に備えるための訓練がダメと言ってるわけじゃないって、さっきも言ったかしら。私はあくまでその対処法の話をしているのだわ」
「対処法?」
「そう。妹ちゃんがどんなに短剣の技術を磨いたところで、それが形になるまで、それも一流と呼ばれる使い手と互角に渡り合えるようになるまでは、どんなに頑張っても数年は掛かるかしら。無論時間はいくらでもあるのだから、そういった訓練に興じるのも良いかもしれないけれど、直近の話でみればそんな暇なんてない事くらい、自覚しているのよね?」
マリスのいう事はもっともだった。
「それは確かにそうなんだけど……」
「いや、だからなんであなたは得意な魔法で迎え撃たないのかと聞いているのよ」
そう告げるマリスの瞳は妖しさを秘めた紅に染まった気がしたのだった。




