トイレットイーター
昼休み。
僕は便所にいた。
そこは通っている大学のキャンパス内の外れで、普段から全く人が寄り付かない古びた旧校舎にあった。ろくに掃除もされていない、薄汚れた和式便所が立ち並ぶだけだったが、その一角が僕の、入学以来の特等席でもあった。
イヤホンから流れる耳馴染みの音楽を嗜みながら、僕は勢いよく買ってきた菓子パンに齧りついた。便所の周りには人気が無く、とても静かだ。和式便所の隣に開いたスペースに器用に座りこみ、僕は毎日ココで昼飯を食べていたのだった。
「今日の生協の品揃えはまぁまぁかな、うん」
誰に話しかけるでもない僕の独り言が、誰もいない便所の中に響き渡る。誰かに聞かれてドン引きされないだろうか、と最初の時こそビクビクしていたが、一ヶ月経った今では便所で卑屈になることもなくなってしまった。もはやここは僕のプライベートルームと化していた。そもそも何故.トイレで飯を食う事に卑屈にならなくてはいけないのか。人付き合いの上手くない自分にとって、こんなに心休まる場所は無い。
要するに僕は、大学で友人を作る事に失敗していた。
一通り菓子パンを食べ終わった僕は、食べきれなかった分を集めると、下げていた鞄に詰め込んだ。最後にペットボトルのお茶を一口飲む。痺れた足で強引に立ち上がり、便器の前で大きく伸びをする。とても気分がいい。次の授業に向かうため、個室のドアを開けようとノブに手をかけると
「あれ?」
……開かなかった。古い便所だから、立て付けが悪くなったんだろうか? 訝しげにドアノブをガチャガチャやってみるが、一向に開く気配がない。
「…誰か呼んだ方がいいのかな?」
僕が思わず不安になって呟いたその時。
「その必要は無い」
便器の中から小さな声が聞こえた。
僕は思わずビクッと身体を飛び上がらせ、恐る恐る声がした方を振り返った。そこには、30cmくらいの人形みたいなおかっぱで和服の少女が、便器の中で仁王立ちして、僕を睨んでいた。
「うわっ!?」
自分でも驚くくらいの大声をあげ、僕は勢い良く尻餅をついた。
「お前か、便器で飯を食っている不届きものは」
顔を鬼のようにしかめさせながら、少女が便器の中から水を滴らせ、僕の近くまで出てきた。僕は思わず少女の濡れた足から離れるように身体をくねらせた。
「…あ? …あ、あんたは…?」
突然の出来事に、上手く対応できなかった。幻覚なんだろうか、確かに少女の人形が、僕の前に立っているのだ。
「ワシか。ワシはトイレの神様じゃ」
「は…?」
何故か一人称が「ワシ」の少女は顎を突き出しながら、僕を蔑むような目で睨んだ。
「じゃから、ワシはこの地方を治める厠の神じゃ」
「か、かみ…?」
僕は今、小さな人形に話しかけていた。
「左様。ブームが終わったからといって油断しておったろう」
「そ…そんなことは…」
「ワシはここら一体の土地の厠の管理をしておる」
少女の話し声がだんだん威圧的になってきた。
「こともあろうに、最近ここら辺の厠で飯などを食いよる馬鹿者がいると聞いてな」
「す…すみません」
僕は思わず謝った。
「便所は飯を食う所ではない! 罰として、便所の下で死んでもらうことにする」
「え…えっ!? 死ぬ!?」
少女が頷いた。
「うむ。便所で飯を食う事は厠界では問答無用で極刑じゃ」
慌てて僕は少女に食って掛かった。
「そ、そんな! 今の時代、便所で飯を食べるなんて皆やってますよ! なんで僕だけ…」
「嘘をつくな。いくら時代が変わったからと言って、人が便所で飯を食うようになるものか」
少女が何処からともなく小さな刃物のようなものを取り出した。
「ほ、ほんとです、本当! 信じて下さい!」
「ほう。なら証拠をみせい。あいにく今この便所にはお前しかおらぬようだが?」
「う…」
僕はたじろいだ。この人形みたいな少女が幻覚などではなく、本当に「トイレの神様」だったとして、僕はこのまま便所の下に埋められてしまうのだろうか。それはイヤだ。不覚にも泣きそうになりながら、僕は彼女に懇願した。
「ごめんなさい…どうか許して下さい、もうこんな処で食事なんてしません…」
「ダメじゃ。後の者にも示しが付かないからな。じゃが…」
ひと呼吸置いて、彼女がチラッと僕の鞄の方に目をやった。
「…ところで、その菓子は、その…美味いのか?」
「え?」
「い、いやだから…お主が食っていたそれは、う、美味いのか?」
僕と彼女は思わず見つめ合った。
「も、もし、食わせてくれたら、考えんこともない」
「……死刑はいいんですか?」
「死にたいのか?」
「いえ、どうぞどうぞ。食べ残しですが」
鞄から取り出した菓子パンに、おかっぱの少女が目を輝かせた。
こうして僕は、便所で出会った少女に唐突に殺されずにすんだのだった。
それからしばらく、僕は幻覚だと思っていたトイレの少女に昼飯を献上して過ごした。
誰かに相談しようかとも思ったが、あいにく相談できるような友人はいなかった。ましてや幻覚をみているなんてもし他人に知れたらそれは然るべき所で病名を言い渡され隔離されてしまう訳で、それだけは避けたかった。かといって他に昼飯を食べる居場所なんて僕にある筈もなく、例のトイレには彼女が居る訳で、必然的に30cmくらいの彼女と便所飯を共にする羽目になったのだった。
「むぐ、これは、何て言う名前だ?」
必死にメロンパンに齧りつきながら、彼女は便器の側に座る僕に尋ねてきた。
「それはメロンパンって言うんですよ」
あの日以来、僕はこの30cm足らずの少女に敬語だった。まぁ神様なんだから別にいいだろう。
「むぐ…これは美味い。お主、これから毎回これを持ってこい」
そういいながら彼女はペットボトルの蓋に注がれたお茶を飲み干した。そろそろ次の授業が始まる。僕が立ち上がろうとすると、
大きなサイレンの音で、静寂が切り裂かれた。
「な、何!?」
僕は驚いて便所を飛び出した。すると、備え付けられた便所のその隣、使われなくなっていた校舎から、大きな火の手が上がっていた。
「ふむ、火事じゃな」
トイレの壁際の窓から彼女が声をかけてきた。サイレンの音は、火災報知機だったのだ。既に火は三階建ての校舎の屋上にまで到達していて、トイレと思われる窓からは黒々とした煙が上がっていた。今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。
「誰かー!! 誰か助けてくれー!!」
その窓の煙の下から、生徒と思われる誰かが助けを求めて叫んでいた。
「おお! お主の仲間が閉じ込められておるぞ! あやつも食べるのに夢中で逃げ遅れたに違いない」
「仲間じゃないです!」
僕は叫んだ。消防車を呼んだ方がいいだろうか、もう誰かが連絡しているんだろうか…。
「よし、助けにいくぞ!」
彼女が勢いよく叫んだ。
「た…え!? 助けに!? む、無理ですよ、見て下さいこんな…」
「大丈夫だ、ワシを誰だと思っておる。トイレの神様じゃぞ」
僕は思わず尋ねた。
「それとこれと何の関係があるってんですか」
「タワケが。ワシはトイレの水は使いたい放題なんじゃ」
だからといってこの大火事をどうにかできるとは思えないし、まずトイレの水は誰だって使いたい分使えるはずなのだが、などと僕が考えてるうちにトコトコと神様は燃え盛る校舎の中に飛び込んでいった。呆然と火の粉を見上げる僕に、何処からとも無く消防車の音が近づいてきた。
「いやー助かったよ。君が連絡してくれたんだって?」
火事の騒ぎから数日後、キャンパス内を歩いていると、全然知らない奴が僕に話しかけてきた。
「いや、僕じゃありませんけど…」
「そうなの? いや、何か君が助けてくれたって、さっきトイレの中で話し声がしてさ。女の子っぽかったけど。聞き違いかな?」
神様の仕業だな、と僕は直感的に思った。
「ここだけの話、俺あの時便所で飯食ってたんだよね」
彼は恥ずかしそうに苦笑いした。僕はこの大学内で僕以外に便所で飯を食ってる奴がいることに驚愕した。目の前にいる男に妙な親近感を覚えた。
「あ、そうだこの後開いてる? よかったら、飯食わない?」
僕は頷いた。あの火事以来、隣に備え付けられていた便所は封鎖されていた。もう古くなっていたし、これを機会に近々取り壊されるとも聞いた。僕は居場所を一つ失ってしまった訳だ。神様とも、あの日以来あっていなかった。
「じゃあ、食堂いこうか、あ、何か食べたいものある?」
「大丈夫」
他人と昼飯を食べるのは何時以来だろうか、思わず目に涙が浮かんできた。何て事は無い、僕は寂しかったのだ。
「その前に、ちょっとトイレ寄ってくるよ」
そういって僕はゆっくりと歩き出した。




