9.walk residense
「そりゃあ、前の髪型も似合ってたよ。普通のストレート」
「普通ってさあ、もっと言い方ない?大変なんだよ、ストレートヘアーも。お手入れとか、洗うときだって……」
「ゴメンゴメン。言い直す。とても手間のかかるストレート」
「分かればいいけどさぁ。てか、勇悟ってさ〜、私のオシャレに興味ないの?勇悟が選んだ服着ても、え?それ俺が選んだっけ?とかって忘れちゃうし〜」
「あった?そんなこと」
「あったよ!フリフリのスカート。私は似合わないって言ったのに、勇悟が強引に買ったんじゃん。それ着たのに忘れる?」
「あ〜!あれか。似合ってたよな、あれも。超可愛かった」
「今頃褒めても遅いんだから!」
「とか言って、赤くなってんじゃん」
「こ、これは……、屋根が赤いからそう見えるだけ!」
俺達はこんな会話をしながらのんびりと学校へ向かった。
俺達と言っても喋っていたのは黒井と上森だけで、俺は二人が繰り広げる痴話喧嘩、もといイチャイチャ話を、出来るだけ聴覚を遮断することで回避していた。
そして俺は心に誓ったのだった。
――もう二度と黒井と登校などしない、と。
それにしても暑かった。今日から七月。生徒達は既に衣替えを済ませていて、夏服に身を包んでいた。しかし周りを歩く生徒のワイシャツは、既に汗でびっしょりだった。今年の猛暑は伊達ではない。何か他に対策をしたほうがいいだろう。
花川高校の正門に着いた。正門をくぐるとすぐ左にテニスコートがあり、いつもはテニス部が練習をしているが、今日からテスト期間。当然、練習している者など一人もおらず、閑散としていた。
しかし、学校の周りを走っている生徒は何人かいた。自主的に走り込みをしている運動部だろうか。いくらテスト期間とはいえ、ランニングまで禁止するほど厳しくはないだろうし、ちゃんと許可をとって走っているのだろう。
こんな暑い日にご苦労様だ。こっちはただ歩いているだけで汗が吹き出してくるというのに。
校舎に入る。上森と俺達は一旦別れ、それぞれのクラスの下駄箱で上履きに履き替える。俺と黒井は一組。上森のクラスは知らないが、下駄箱が一組と隣接している二組ではなかった。三組か四組のどちらかだ。
上履きに履き替えた俺達はそれとなく合流して、階段を昇る。三年生の教室は三階にある。
三階に着いて、俺達は上森と別れた。一組の教室に入る。
朝のホームルームが始まるまでまだ二十分ほどあった。俺はカバンから文庫本を取り出して、それを読み始めた。昨日、季野に勧められた本で、まだ読んでいない。
一番最初のページに書き連なっている十人の登場人物達は、全員英名だった。覚えられるかどうか心配だ。
「ずいぶん余裕だな」
いつの間にか俺の前の席に座っていた黒井に、そう声をかけられた。黒井の席はそこではない。
「英語の勉強だ」
俺は登場人物一覧を見せた。
「うわ。全員外人かよ。よくそんなの読めるな」
「正直、俺も読み切れるか心配だ」
黒井は俺から本を取り上げると、本の表紙を見た。
「『歩く館』館が歩くのか」
自分が座っている机に本を置くと、真面目くさった顔で黒井は言った。というか返せ。
「間違いない。これ、最後のほうで館が歩き出すぞ。それで容疑者のアリバイが崩れるんだ」
「今日の放課後、空いてるか?」
大胆予想を無視して訊くと、黒井は両手を顔の前で合わせて言った。
「悪い。上森と勉強だ。お前も来るか?」
「行くわけないだろ。もううんざりだ」
それに、人の恋路を邪魔する趣味はない。
いつの間にか、黒井の横に生徒が立っていた。この席の本来の持ち主の女子生徒だ。黒井を見下ろし、呟いた。
「……黒井君、ごめんね。そこ、私の……」自分が悪いわけではないのに、俯いている女子生徒。寡黙な彼女は、滅多に喋らない。今も勇気を振り絞っていることだろう。
「あぁ、悪い」すぐに席を立ち、女子生徒に譲る黒井。基本的に女には優しいのだ。
黒板の上の時計を一瞥する黒井。
「放課後までに決めとけよ。来るか来ないか」そう言って、自分の席に戻っていく黒井。
行かないと言ったはずだが。その背中にもう一度言おうとしたが、既に教室は生徒で溢れかえっていたためやめた。
読書を再開しようとするが、本が見つからない。
「……これ、黒井君の?」
目の前の女子生徒は椅子ごとこちらを向いた。手には『歩く館』を持っている。
他の人とは事務的な事でしか喋らない彼女だが、何故か俺にはよく話し掛けてくるのだ。まだ知り合って二ヶ月だというのに。人見知りなのかそうじゃないのか、いまいち分からない。
「あぁ、俺の」
返してもらおうと手を出すが、その女子生徒は不思議そうに本を眺めていて、返してくれない。
「『歩く館』……館が歩くのかな?」
首を傾げながら黒井と同じことを言った。
「そうだろうな」俺は更に手を伸ばす。
「足が生えて」
「無論だ」というか返せ。
「四つだよ」
「館の四隅にか」返してから話せよ。
「もしよかったらだけど、泉君が読み終わってからでいいんだけど、この本、貸してくれないかな?」
「先に読んでもいいぞ」俺は嬉々とした表情で『歩く館』の表紙を撫でている彼女に言った。
「ほんとに?じゃあ、出来るだけ早く読むから、待っててね」
「どうぞ、ごゆっくり」
彼女は本を読むのが尋常じゃなく早い。『歩く館』くらいのページ数なら、今日中にでも読破してしまうのではなかろうか。それが貸した理由でもあるのだが。
「ありがとう、泉君」
「どういたしまして、出海さん」
出海は前に向き直った。読み方が一緒でややこしいから名前で呼ぼうかと思ったが、そもそも知らなかった。