8.登校中
中学時代は、よくこうやって黒井と一緒に登校したものだ。
しかし高校に進学してからはそれもめっきり減った。別に仲が悪くなったわけではない。黒井が自転車通学になったからだ。
黒井の家から徒歩で通学するには、花川高校は些か遠い。黒井は俺にも自転車通学を勧めてきたが、俺は断った。
距離的にどうとかではなく、単純に、俺は自転車を漕ぐのが苦手なのだ。
漕げなくはないが、ふらふらするし、歩くのとさほど変わらない速度しか出せない。
黒井は「その速さで漕ぐほうが難しいゲラゲラ」と笑っていたが、本人は至って真面目。それ以来、自転車は物置に眠らせている。
それに加え黒井はサッカー部。副部長だ。登校時間のズレは決定的だった。
黒井は久しぶりに一緒に通学しようと言い出した。断る理由も無かったので俺は一も二もなく同意した。そして今、隣で自転車を押している黒井と共に学校へ向かっているというわけだった。
後ろに乗るかと黒井は訊いてきたが、俺は一も二もなく拒否した。俺はあの恐怖を知っている。自転車の後ろに乗った時の不安定さと言ったら!
「今度、練習しに行くか。自然公園なら広いし、週末だったら練習してる子供いっぱいいるぞ」
黒井は意地の悪い顔でそう言うと、思い出したかのように付け加えた。
「季野さんも呼んでさ」
「なんで季野が出てくるんだ」
季野と接点なんかないはずだが。しかし学校とは狭い世界だ。別にどこかで会っていてもおかしくはないが。
「季野さんも自転車乗れないって言ってたから。そのあとに俺の、「読書部の入部条件って自転車に乗れないことなの?」っていう爆笑ギャグが炸裂したわけだが」
炸裂したわけだが、って言われてもな。
でも季野が自転車に乗れないのは予想通りというか、見た目通りだ。俺は頷いた。
「確かにあいつ、運動神経悪そうだしな」
「自転車に運動神経は関係ないと思うぞ」
黒井はちらりと自分が押している自転車を見た。
「こんなの、ただ乗って漕ぐだけだろ」
簡単に言ってくれる。その、乗って漕ぐのが難しいんじゃないか。
「彼氏とうまくいってるのか?」
「は?」急に話が変わったのと、その話が彼氏という単語によって構成されているという二つの事が同時に起こり、そのせいで俺は呆けた声を出してしまった。
「いや、季野さんだよ。付き合うことにしたんだろ」
「何でそれを」
付き合うことにしたと季野からメールがあったのが昨日の夜だ。つまり黒井は、昨日、学校で季野と話したのだ。そのとき知った。
しかし、あの季野が、対して仲良くもない人にそんなことを話すだろうか。黒井は季野のことを知っていても、季野は黒井のことを知らないはずだ。
「俺が知るかよ。昨日の夜、あいつからのメールで知ったんだから」
俺がそう言うと、黒井は露骨に驚いた顔をした。
「昨日?俺は先週聞いたぞ。確か、木曜だったかな」
「そうか。俺に言うの忘れてたんだろ」
俺はこの話を終わらせようとしたが、黒井はなお続ける。
「いや、それはおかしい。恋愛のイロハを教えてくれた師匠とも言える人に、報告し忘れるか?むしろいの一番に報告するはずだ」
恋愛のイロハを教えてくれた師匠?誰のことだ、それは。
「聞かなかったから言わなかっただけだろ。季野は自分から言うタイプじゃないし。お前に言ったのだって、どうせお前が強引に聞いたんだろ」
しつこい黒井に、俺はつい語気を荒げてしまう。しかしそんなことは気にしていない黒井は、手をポンと叩き俺に言った。
「そうか、分かった。今日から部活動停止期間だからだ」
テスト二週間前から、全ての部活は活動を停止しなくてはならない。それは運動系の部活も、文学系の部活も全てだ。もちろん読書部も。
しかしなんでそれが、俺に報告するのが遅くなった理由になるんだ?
「季野さんも、気まずいのは嫌なんだろうな」
黒井はそう呟いた。それで俺も分かった。なるほど。
恋愛の話になると気まずくなるのが分かっていた季野は、顔を合わせなくて済む、この部活動停止期間のタイミングを狙ったのだ。
なるほど、納得した。俺も気まずいのは嫌だからな。一度は意を決して恋愛相談を持ちかけたが、あそこまで気まずい雰囲気になるとは思わなかったのだろう。つまり、季野は懲りたのだ。
「どうでもいいな。あいつが読み方のわからんやつと付き合おうが、俺には関係のないことだ」
目の前の信号が赤に変わった。ここは車が全く通らない道だ。今も車一つ通っていなかったが、黒井が止まったので、俺も立ち止まる。
「何だそれ?」
「あいつの彼氏の名前だ。大は小を兼ねるの『大』に、良工は材を選ばずの『工』だ。まさかそのまま“だいく”ではあるまい」
「“おおくみ”だな。そりゃ」
黒井は即答した。名前も季野から聞いたのかと思ったら、
「うちのサッカー部の、期待の次期エースだ」
「なるほど。次期エースか」
そしておおくみか。
この信号は中々切り替わらない。やっと歩行者信号が青になったかと思ったら、車がやって来た。何とも間の悪い。俺達は歩き出した。
「うちのエースと付き合ってるのか。中々やるな、季野さん」
何がやるのかわからなかったが、黙っておいた。何か言うと話が広がる気がしたからだ。
商店街の中を通る。アーケード街だ。上に被さっている赤色の天井が太陽を遮り、ここはいつも薄暗い。
商店街を抜けると、すぐ花川高校が見えてくる。ここを通学路にしている生徒は多く、今日も周りには数人の花高生がいた。
目の前にも一人の花高生がいる。女子だ。そして、俺はその花高生に見覚えがあった。それは黒井に身近な人だったが、黒井は気付いていないようだった。
「前にいるの、上森じゃないか?」
俺がそう言うと、黒井は目を凝らして目の前の女子高生を見た。
「やっぱそう?あいつ、髪型変えたよな?」
「知らない」
髪型が変わったら、彼女かどうかわからなくなるのか。
上森と黒井は一年の頃から付き合っている。俺も何度か会ったことがある。
黒井が声をかけようとしたが、その前に上森がこちらを振り返った。
黒井が手を挙げる。
「よっ」
「ちょっと、後ろにいるなら声かけてよ」
上森は立ち止まった。そして俺達が自分に追い付くのを待ってから、そう言って頬を膨らました。
「おはよう、泉君」
上森は声の調子を変え、俺に言った。まるで、今まで怒っていた母親が掛かってきた電話に出ると愛想のいい声になる、あの感じだ。
「黒井は気付いてなかった」
「いやいや、髪型が……」
俺の言葉に、黒井は動揺した。上森は手を腰に当て、黒井に詰め寄る。
「私の髪型しか見てないってこと?」
「あまりにも似合い過ぎてて、見惚れちゃってたんだ」
黒井の言い訳に俺は苦笑した。そんな取って付けたような理由で納得するわけないだろう。
「……そう、かな?」
上森は顔を赤く染めながら、自分のツインテールを触る。
「…………」
納得するんですね。
三人は並んで歩き出した。「単純だな」黒井が小さく呟く。
なんだか、この二人が長く続いている理由が少し分かった気がした。