6.どうすればいいですか
花川高校の校舎は二つあり、唯一の渡り廊下で双方は繋がっている。
それぞれ新棟、旧棟と呼ばれ、新棟にはそれぞれの学年のクラスの教室や、職員室、生徒指導室などがあり、ここはいつも多くの生徒で賑わっている。
対する旧棟は、地学室、調理実習室、被服室など、生徒が常駐しない教室が多く、授業中はともかく放課後は閑散としている。
我らが読書部の部室は、その旧棟の最奥にある。どの学年の昇降口からも遠く、どの学年のクラスの教室からも遠い。
ただ隅にあるからそう呼ばれているだけでなく、そういった静けさも、読書部を辺境たらしめている要素だろう。
二階にある渡り廊下を通り、旧棟へ向かう。
あまり人が立ち寄らない旧棟でも、しかし手入れは行き届いている。
窓から射し込む夕日に赤く照らされた廊下のどこにも埃はなく、窓も今磨かれたかのように透き通っている。
部室は一階にあるので、階段を降りる。途中に人はいなかった。
一階に着くと、廊下の一番端に目をやった。何も目印はないが、あそこが読書部の部室だ。近付けば、申し訳程度に読書部と書いてあるが、ここからではわからない。
薄暗い廊下をとぼとぼ歩く。右側に窓があるが、外に生えている背の高い木が、廊下に夕日が降り注ぐのを邪魔している。
左側は教室。被服室、調理実習室、調理準備室、空き教室ときて、読書部の部室。扉に読書部と書かれた貼り紙が貼ってある。
目の前に立つ。声は聞こえない。一瞬、帰ったのかと思ったが、扉の隙間から光が漏れている。
何となく腕時計を見ると、もう四時半だった。面談がなければ、季野は昼頃から待っているはずだ。
横開きの扉に手をかけ、引いた。
「…………」
開かない。鍵がかかっているのか。部室の鍵は一個しかなく、それは早く終わると分かっていた季野に、朝渡してしまった。
この学校の扉は、内側からも、鍵がなければ閉じることがない。
俺はメールをもう一度確認し、扉をノックした。
すぐに中から「はい」と声がして、鍵を外す音がした。
扉が勝手に開かれ、季野が目の前に立っていた。
「おはようございます」
「寝てたのか」
それで鍵を閉めたのだ。俺は六つある机の内の、何となく定位置になっている机の椅子に座った。
季野は俺の正面の椅子に座った。
「遅かったですね」
「掃除当番だったんだ」
机の上に乗っている水色のタオルを見る。季野はたまに部室で寝るときがあるが、決まってそれを枕がわりにしている。
愛用のタオルをたたみながら、季野は俺を見ないで言った。
「三ヶ月に一回しかない掃除当番、ご苦労様です」
掃除当番は、大体一週間に一度は回ってくる。その頻度はどの学年でも大差はないだろう。つまり季野は俺をからかっているのだ。いつも適当に早く終わらせるのに今日に限って、と暗に言っている。
「まぁ、色々あってな」
言い返してこない俺を見て、季野は怪訝そうな表情を浮かべた。
それはそうだ。後に控えている厄介事のせいで、いつもの調子が出ないのだ。いつもに調子なんてものがあるかは分からないが。
「…………」
「…………」
沈黙。いつもなら苦でもなんでもない二人きりの空間が、今は心苦しい。
思えば、俺と季野は、いつの間にか冗談を言い合う関係になっていた気がする。仲良くしようとか、女だから気を遣おうとか、そういうことは全く考えなかった。それは季野も同様だろう。
しかし、今、季野と二人きりの状況が、ひどく気まずい。
考えてみたら、これが普通なのだろう。出会って間もない男女。意識しないほうがおかしい。黒井もそう言っていた。
それが今になって急に意識しだしたのは、十中八九、季野の相談事のせいだ。
「あの、先輩。さっきメールした通り、相談があるんですけど」
意を決して、それが引き金になったかのように、などが当てはまらない、いつもと同じ無表情でそう切り出した季野。
俺もなるべく平静を装う。
「あぁ、そうだったな。何だ?俺でいいなら相談にのるが」
大丈夫だ。普段通り言えた。
「はい。恋愛相談なんですけど、いいですか?」
「ああ」本当はダメだが。
「実は……私、告白されたんです」
「……あぁ、なるほど」
相づちを打ってはいるが、かなり動揺している。
告白されることはそう珍しいことではない。しかしされてから恋愛相談?全くもって意味がわからない。
「…………」
「……あぁ、それで?」
「どうすればいいでしょう?」
「…………」
いや知らねぇよ、といつもなら言うだろう。しかしとてもそんなこと言える空気ではない。いつにもまして季野は真剣だし、本気で困っているようだ。
「どうすればいいって、俺に言われてもな」
「告白するとかされるとか、そういうの初めてなので、よくわからないんです」
確かに、季野は告白とかするタイプじゃなさそうだ。
「先輩は、こういうときどうしてるんですか?」
「……俺の経験談を訊いているのか?」
「……失礼ですよね。すいません」
「いや、そもそも、俺はこうしたなぁ、とか聞いて、その通り行動するのか?状況は個人個人違うんだから、……お前の状況は知らないが」
まだ相手がどこの誰かも知らないのだ。しかし面と向かって訊くのは、なんだが気にしてる風で嫌だった。誰かに訊いたりも恐らくしないだろうが。
「状況を知ればその対処法を教えてくれますか?」
「なんだそれ?」
俺は恋愛攻略本かよ。なんかダサい。モテなさそうだ。
そもそも公式の対処法なんてあるわけない。人の気持ちを何だと思っている。
「相手は一年生で、違うクラスの」
「いい、言わなくて。……それに、俺もあまり経験がない」
くそ!ここは恋愛暴露大会の会場か?
「そうですか……」
季野はそう呟いたきり、黙ってしまった。
「…………」
「…………」
帰ろうにも言い出しにくい。これは納得してもらうしかないのか。
はぁ……。俺は心の中でため息を吐くと、季野に向き直った。
「ちょっといいか」
「はい」
季野も俺を見る。
「対処法を……」
「いいか。恋愛に対処法なんて存在しない。同時に攻略法もなければ、正解もない」
「え?では、みんなはどうやって……」
「みんなは自分の思った通りにするだけだ。どうしても好きな人がいたら告白するし、そこまでタイプじゃない人から告白されたら断る。しかし何となく付き合ってみて、気付いたら好きになっていることもある。恋愛とはそういうものだ」
「…………」
季野は俺の恋愛演説に聞き入っていた。許されるならメモをとりそうな勢いだ。
「どうするかなんて、自分にしか分からない。何故なら、お前が告白されたからだ。俺じゃない。自分の思った通りにしてみろよ。好きだったらそう言えばいいし、嫌いだったらそう言えばいい。まだ相手のことをよく知らないならそう言えばいいし、保留してもらえばいい」
「…………」
「とにかく俺が言いたいのはな、恋愛に正解はないってことだ。正解がないんなら、間違いもない。俺から言えるのはそれだけだ」
はぁ……。ここまで喋ったのはいつ以来だろう。思い出せないくらいだ。
「先輩。ありがとうございます」
季野はそう言って、頭を下げる。そんな姿を見たことがなかったので、少し動揺したが、俺はすぐ立ち上がり言った。
「こんなんでよければ。それと、結果とか報告しなくていいからな。……用事を思い出したから帰る」
「あ、はい」
ずっと肩にかけていたカバンをかけ直し、俺は部室を出た。
「はぁ…」
今日一番の深いため息を吐いて、俺は歩き出した。
ふと、後ろから人の気配がした。
「いや〜、見事な演説だった。あの一年も勉強になったんじゃないか?」
その声は黒井だった。
「お前の原稿のおかげだ」俺は振り返らず、足を止めずに言う。
「何言ってる。俺がメールしたのは『恋愛に正解はない。だから自分が思った通りにすればいい』だけだ。そのほかは全部アドリブだろ」
「思ったより熱が入った」
「あんまり経験がないんじゃなかったか?」
教室で黒井と別れた後、やっぱり不安だった俺は、黒井に恋愛相談を受けた旨をメールした。そして俺がいう原稿を返信してもらったのだ。
黒井は、何故季野が恋愛の仕方を知らないことを知っていたのかはわからない。黒井の原稿はいわゆる恋愛の初歩の部分で、季野が恋愛初心者であると知らなければ、送らなかったはずだ。
多分、恋愛マスターの力だろう。すごいぞ恋愛マスター。
「でも適当に送ったやつがドンピシャだったとはな〜。お前、運いいな」
後ろから、そんな呑気な声が聞こえてくる。
「…………」
……適当だったのか。恋愛マスターの力とかじゃなかったんだな。
「まぁ、助かったよ。礼を言う」
「約束通り、一週間ジュース奢れよ」
「そんな約束した覚えがない」
そんなことがあった日から二週間ほど経過したある日、俺は自室のベッドで寝転んでいた。
そして、季野からのメールの文面をなんとなく考えていた。
恋愛相談を受けた日の翌日から、まるで何事もなかったかのように俺達は毎日顔を合わせ、何事もなかったかのように他愛のない話で盛り上がったり盛り上がらなかったりした。
そして昨日の夜、自室でテレビを見ていた俺の携帯に、何の前触れもなくそのメールは送られてきた。差出人は季野。
何気なくメールを開くと、俺は呟いた。
「……ったく。報告はしなくていいって言ったはずだが」
文面はこうだった。
『先輩からアドバイスを受け、色々考えた結果、大工君とお付き合いしてみることにしました。』
このメールのせいで、一体、『大工』とはどう読むのだろうと、夜を徹して考える羽目になったのである。
「しかしまさか、そのまま“だいく”ではあるまい」