1.計算上の買い忘れ
午前十一時の中庭は、思った通り閑散としていた。
昼時になると弁当を持った生徒でごった返すここも、今は花壇に水を撒いている用務員しかいなかった。
この学校の中庭には、珍しいことに噴水がある。
中庭の中央にあるそれは中々立派で、四隅には石膏で出来た天使が全身に水を浴びている。
俺は噴水に近いベンチに座り、手にぶら下げていたビニール袋を膝に乗せた。
「涼しいですね」
そう言いながら隣に座ってきた季野 涼子も、同じようにビニール袋を膝に乗せる。
「何買ったんだ」
彼女が何を食べるのかなんて特に気にならなかったが、無言はなんだが気まずかったので、一応聞いた。
「焼きそばパンとクリームパン二つです」
よく食べるなと思ったが、言わなかった。この二人きりの状況で、彼女の機嫌を悪くしたくはなかった。
「昼はパン派か」代わりに当たり障りのないことを言った。ちなみに俺はご飯派だ。
「気分に依ります。……先輩は一番波風が立たない海苔弁当ですか」
「一番美味いんだ」
「あ……」
ビニール袋に手を入れ、中身を漁っていた季野は、そう呟いて俺を見た。
「どうかしたか」
「飲み物を買い忘れました」
いつもと変わらない調子でそう言うと、スーパーの袋を脇に置き、立ち上がった。
「先輩も購買部で買ってませんでしたよね?一緒に行きましょう」
「いや、俺はこれがある」
言いながら、カバンからペットボトルのお茶を取り出す。
「裏切り者」
酷く低音で呟いた捨て台詞を残し、中庭を出ていく季野。確か自動販売機は、購買部の近くにしかなかったはずだ。
しかし、俺はいつ裏切ったのだろう。知らず知らずの内に、飲み物を買い忘れる同盟にでも加盟していたのだろうか。
さっき、購買部で言ってやればよかっただろうか。彼女が飲み物を買わなかったのは気付いていたが、わざわざ言うのも野暮だと思ったのだ。
待つのもなんだと思い、海苔弁当の蓋を開け、初めから二つに割れている割りばしで、しみじみと食べはじめた。
タルタルソースがたっぷりかかった白身魚のフライを食べようとしたら、急に辺りが騒がしくなった。
何となく音源の方を見ると、体操服の生徒達がぞろぞろとやって来て、中庭を横切っていく。
恐らく体育の授業だろう。校庭へ向かう近道として、中庭を使っているのだ。
体操服の生徒は俺を横目で見ると、見てはいけないものを見てしまったかのような表情を浮かべ、目を反らす。中には笑っている者もいる。
中庭で昼前に一人で海苔弁当をつついている。……なるほど。俺は今、中々寂しいやつだ。
体操服の一団は中々途切れない。クラス合同なのだろうか。
だとすれば、五十人強が中庭を通ることになり、五十人強にこの姿を見られることになる。
俺は昇降口を見た。季野が帰ってくるとしたら、そこからだ。早く帰ってきてくれ。
結局、季野が紙パックの牛乳を手に帰ってきたのは、体操服の一団が過ぎ去った後だった。
「遅かったな。何してたんだ」
「牛乳を買ってきたんです。言いませんでしたか?」
牛乳にストローを挿す季野。
「それだけにしては遅かった」
「その前にちょっとお手洗いに」
基本的にいつも無表情の季野だが、そう言う彼女の口元は、心なしか笑っているように見えた。
「あいつらが通ること、お前わかってたな」
「いい感じに惨めでした、先輩」いつもと変わらぬ無表情に戻る季野。
「お前、年長者をなんだと思ってる」
「年上だからという理由だけで偉ぶる、愚か者だと思っています」
「…………」
全くその通りだ。俺はそう自分に言い聞かせ、折角の海苔弁当を楽しく食べようと心がけた。
「でも……変な噂が立つよりはいいでしょう」
季野はクリームパンをちびちび食べながら、そう呟いた。
「…………」
噂なんて気にしなさそうな季野がそんな気づかいをするなんて、少し意外だった。
「…………」
「…………」
同じベンチに座り、無言でそれぞれの昼食を摂る。これが二人の関係だった。なんとも微妙な関係。