続72 譲れない決意
なんで日下部がここにいるんだ? 地元の駅前で会ったならいざ知らず、こんな北の大地で会うなんて全く予想していなかった。なぜ、こんなところで……嘘だろ? 今年に入って中学卒業ぶりに再会した元偽カノと、会うのはこれで何度目だろうか。一緒のバイトになって、昔のようにぞんざいに扱われて、そして……ヨリを戻そうと言われて以来、顔を合わせるのは初めてだ。まさか修学旅行先で会うとは。驚きで声が出ない。
「なんでここにいるんだ?」
声が出ないとか思っていたけど意外にサラッと出た。小学校のポスター発表で緊張して声出せないと思っていたらすんなりと発表出来た時と同じだ。え、え、マジすか。眉間にシワを寄せて口をキュッと結んでこちらを見下ろす表情はどことなく不機嫌そう。そうそう、お前はそうやっていつもつまらなそうな顔していたよな。って、んな思い出に浸っている場合じゃない。落ち着け、落ち着くんだ将也。冷静になろう、そうしよう。エア鎮静剤を打って気を楽にしろ。頭を強く打ち過ぎたのかもしれない、きっと幻覚が見えているんだ。日下部の幻影を見るなんて、俺の精神状態はかなり深刻なことになっていると推測される。春日のこと気にし過ぎて気が狂っているのかも。駄目だ、惑わされるな。このまま幻覚に惑わされてしまうと雪山の奥に誘われて遭難するに違いない。それが定番だ、うん。
「そうだよな、本物がここにいるわけがない……」
「何ブツブツ言ってるのよ」
お前は幻覚の中でも俺を弄ぶつもりか。そうはさせないぞ。ウェアの中に入った雪は仕方ないので放置するとして、顔や腕についた雪を払ってゆっくりと立ち上がる。日下部の幻よ、騙そうとしてもそうはいかぬぞ。人が弱っているところへ現れるとは卑怯なり。だーが残念だったな、そう易々と心を許すと思うなよ。幻影を一睨み、右手をぐぱぁと開いて日下部の幻影に向けて突っ込む。掻き消えろファントム!
「べ、別に将也の後を追ったわけじゃな……ぇ」
むにょり、と異様に柔らかい感触が手の平にじんわりと広がる。予想なら右手は幻想殺しよろしく異形のものを掻き消すと思った。日下部の幻影を突き抜けて空を切ると思った右手はしっかりと物体に触れている。とてつもなく柔らかい、ふにょふにょで指に吸いつく感触に心はなぜか高揚して吐く息が熱い。
「……あれ?」
幻を掴めたんですが。え、てことは……本物? 実体? え、え、あれれ? 右手は日下部の胸をガッツリ掴んでおり、少し力を込めるだけで五指と手の平に伝わる温もりと柔らかさ。半端ではない中毒性を持っているようで硬直する思考とは別に右手はもみもみとひたすら揉んでいる。……揉んでいる? え、えー………………状況整理した方がいいよね。幻と思った日下部は実は本物で、存在していると。そのリアル日下部の胸部に手を添えてもにょもにょと動かしている俺。どう見てもアウトだ。あ、これヤバイ。そう思っても右手は止まらず、ひたすらにふよふよの感触に溺れている。あぁこりゃあ病みつきになりそう。
「な、ななななななな何触ってるのよ!」
「ぶぶっす!?」
グーパンチが左頬を抉った。ビンタではなく握り拳だ。メキリ、と頬骨に亀裂が走る音と奥歯がグラつく悲鳴が口の中から聞こえる。これヤバイやつだなぁ、口内に血が溢れている。R15の壁を一気に乗り越えたな今回で。グーパンの威力は凄まじく、意識が軽く飛んだ。ハッと目が覚めた時には全身はまたしても地面にぶっ倒れていた。降り積もった雪が体に密着して凍えそう。痛っ~、奥歯取れてないこれ? 大丈夫すか? まあ今のは完全にこちらが悪かったよ。幻影改めて実物の日下部に話しかける。
「なあ、日下部」
「……何よ」
「とりあえず、ありがとうございました」
「ふざけないで!」
ちょお!? 顔面に踏みつけは駄目だって。ドMな方でしたらご褒美でしょうがノーマルの性癖しか持っていない身には辛い攻撃でしかない。スキー板が顔面に迫ってくるので必死になってローリング、緊急回避する。あっぶねぇ、何しやがる! 確かにふよふよの柔らかさを楽しんでいたけどここまでしなくてもいいじゃないか。……今思えば、なかなかの大きさだったな。あれは春日や火祭にはない良さ、ゲフンゲフン。…………初めて触ったな。あんなにも素晴らしいものだとは思わなかった。やっべぇ、また触りたい。もにゅもにゅしたい。そんなこと思っているせいかな、油断したところに日下部のストック踏みつけが眼前に……ぐぼっ。
「痛い痛い痛い痛い! ご、ごめんなさぁい!」
鼻柱を押さえつつ追撃を逃れようと雪山を転がり落ちる。落ち着いて日下部、俺も落ち着くから! 煩悩よ去れぇ、自分が今何をしていたか猛省しろ。普通に犯罪だぞ今の。日下部が通報したら一発アウトだ。修学旅行先で捕まるなんてことしたら親が絶対に泣く。カラオケ厨の祖父はゲラゲラ笑いそうだが。そうならない為にも日下部には冷静になってもらわないと。次なる攻撃を受ける前に立ち上がって日下部へと詰め寄る。
「な、な? 一旦落ち着こう、おけ?」
「……」
両手を掴んでなんとか静止させる。ふー、落ち着いた、のか? ジロリとこちらを睨む日下部。普段から睨んでくる奴だったが今はシンプルに怒っているのが伺える。そりゃそうだよな、触られて怒らない方がおかしい。もし逆の立場だったら殺しているよ。いくら元偽恋人とはいえやっちゃいけないことだった。深く反省しております。なんだよ幻って、そんなわけないでしょ。春日を探そうとするあまり思考能力が著しく低下していたみたいだ。
「えっと、いきなり揉んでごめんなさい」
「……別にいいよ、将也だったら」
そ、そうですか。嬉しいような申し訳ないような。リアクションしにくいこと言わないでください。とりあえず落ち着いたので状況整理、目の前にいるのは元偽カノである日下部冬華。そしてここは俺らの住む地域からは遠く離れた北海道、こんなところで会うなんて考えられない。そういや日下部も旅行に行っているって聞いたな、池内君から。修学旅行と同じ時期にカブっていて珍しいなぁとか思っていたけどまさか同じ場所に来ているとは。世界って狭いとこんな時に思う。……ん、本当にそうなのか? さっき日下部が言いかけていたけど、俺の後を追ってきたとか言って……まさか、
「日下部、どうしてここにいるんだ?」
「……何よ、別に将也の後追ってきたわけじゃないんだから」
ツンデレですねありがとうございます。レンタル屋で借りたのであろうピンクと白色のウェアを身に包んだ日下部。今思えばウェアの上から触ってよくもまぁあれほど柔らかい感触を得られたものだ。もし薄着、いやそれ以上に何もない直接触ったら一体どれ程のふにょふにょ加減なんだ……!? はっ、またしても思考がゲスい方向へ流されていた。さっきから脳内が悶々としている。悶々というか、ムラムラしている。くほぉ、チェリーボーイにはキツ過ぎるよ。あの感触が今も手の平に残っている。だ、駄目だ駄目だぁ! チェリーでもお前には恋人がいるだろうが。何を元カノに欲情していやがるっ。気持ちを静めろ、こーゆー時は川のせせらぎを思い浮かべると良いって話を聞いたことがある。清流の穏やかな音を思い出すんだ。……ふー、いやらしい思いが浄化されるようです。
「で、俺の後を追ってきたと。暇だなぁお前も」
「お、追ってないって言ったでしょ」
そうは思えないんだけどなー。同じ時期に旅行行って同じ場所で会うなんて奇跡、そうそう起きない。となると日下部が故意的に近づいてきたとしか考えられないんだよ。鈍感だと馬鹿にされてきた俺でも分かる。はぁ、わざわざついて来ることはないだろ。……アレだろうな。返事を聞きに追ってきたと考えていいのだろうか。日下部と会うのはヨリを戻そうと言われて以来、こいつの目的もつまり……てことだ。う、うーん。こちらとしては帰ってきてから伝えようと思っていたから今ここで会うと困る。い、いや返事は決まっている。けど今すぐに言えとなったら難しい。ど、どうしよ。どうすればいいんだ。胸触った直後に告白を断るのはいささか気まずい……。何テメー触ったくせに断っているんだよ!と言われたら返す言葉がない。よし、決めた。
「じゃあな!」
逃げよう。あたふたとしながらスキー板を着け直して一気に滑り落ちる。またしても全速力で滑る。さあエスケープしようぜ。これはヘタレとかじゃなくて勇気ある撤退だ。たぶん。それに今は春日と会うのが先決、誤解を解く方が先だ。今度はコケないよう注意しながら全速で降りる。つ、次ね。次会った時に返事するから。今は勘弁してくださ、って、え!?
「なんで逃げるのよ」
「なんで平然とついて来るんだよ!?」
ふと隣を見れば同じ速度で並走する日下部。お前もスキー上手いのかよっ。どうして俺の周りにはスキーが上手い女子ばかりなんだ。全然引き離せない。クソッ、これ以上速度は上がらないぞ。頑張れスキー板、君ならもっとやれる。限界超えて光速の世界へと入ろうぜ。姿勢を前にして少しでも速度を上げようとする。が、それでも日下部は引き離せず、同じスピードでついて来る。畜生!
「ねぇ逃げないでよ」
「うわあぁぁぁぁあああ、あ?」
全身のバランスが崩れる。全速力でコケたのは先程のこと、ならば今回も同様にコケるのは至極当然だ。またしても顔面から落ちて四肢がグギリゴキリと嫌な音を立てて曲がる。ぶぼぼぼっ!?
「え、ま、将也、あ」
恐怖で目を瞑り、勢いにされるがまま。ようやく止まったと思って目を開けば……目の前に日下部の顔があった。距離にして数センチ、視界には日下部の顔しか映っていない。状況から察するに俺がコケた際、隣にいた日下部も巻き込んでしまったのだろう。そりゃ派手に転げ落ちたら周りにも危害が及ぶのは当たり前か。日下部を巻き込んでゴロゴロと転がり、絡まってしまったわけだ。痛たたたた、スキー難しい。幼女風に言うなら、ふえぇぇスキー難しいょぉ。つーか顔近い。あと少しでも転がっていたらキスしていたかもしれないぞ。……って、んんんっ!?
「……しちゃったね」
「しちゃったね、じゃねーよ。何自分から近づけているんだよ!」
あああああああああああああぁぁぁぁ、もうっ! フレンチでもしちゃ駄目なのよ! もう! なんかオカマ口調になっちゃった。ただでさえ近距離の顔がさらに接近と思ったら……何してくれているんですかあなた。仮交際している時でもしたことなかったのに……。や、ヤベェ。雪が積もって寒いはずの顔が熱くなっているのが分かる。
「……もう一回してあげてもいいよ?」
「しないから! いいからどけよ」
これ以上は許してはならない。こんな大勢が見ている中でするのは完全に駄目だ。密着して絡まり合った日下部から離れるべく、手に力を込める。ぐっ、なんとかして離れないと。もみくちゃになって自分の腕がどうなっているか分からないけどとりあえず手を突っぱねて……むにょり? え……嘘でしょ。
「……また触った」
「いやこれこそ事故だ!」
またしても右手は柔らかいものを掴んでしまった。ウェアの上でモコモコしているとはいえその柔らかさたるや未知のものなり。嘘だああぁ、なんでここにきてトラブル的出来事が起きているんだ? リトさんみたいじゃねーかー。あぁああでも柔らかいから手が止まらない。本能に忠実な自分が情けない。むにょむにょと手の平に感じるプリンに息を飲むばかり。
「っ、将也強ぃ、ぁ……ん」
日下部の喘ぎ声が唇にかかる。それが熱い鼓動にさらなる扇情を煽る。ドキドキとしてしまうのはヘタレなせいじゃないと思いたい。日下部の息が当たる度に目の奥が熱くなってこちらは息を吐くことすら躊躇われる。止まる思考と呼吸、足先と毛先は震えつつ感覚が消えていく中、右手と顔だけは敏感に神経が尖る。ピリピリと舌の上が弾けて無意識のうちに高ぶる心臓と唇。あ、駄目だ。気持ちが傾く。もうこのまま何も考えずに目の前にあるものを欲してしまう。全てをさらって全てを受け入れたくなる。
「ねぇ、やっぱり私達、もう一回……」
「駄目だぁ!」
貪る右手に意識を込めて指を止める。顔を大きくのけ反らせて日下部から顔だけでも離れる。駄目、なんだ。こんなんじゃいつまで経っても変わらない。また同じ失敗を繰り返すつもりか、そうして俺は何を得た? 大切な人の悲しげな表情を見るだけだろうが。いつまでもそうして流されるつもりだ兎月将也。いい加減にしろ。興奮を蹴飛ばして意識を完全に取り戻す。駄目なんだよ日下部、お前とこんなことするのは間違っている。俺には、もう、心に決めた奴がいるんだ。生涯愛すると、十六歳の小僧なりに決めた相手がいる。その人だけじゃない、俺がちゃんとしないと悲しむ人がもう一人いる。あの子に教えてもらった、あの子を傷つけてようやく気づいた、あの悔しさを、もう一度味わうつもりか。そしてあの悲しさをもう一度あの子達に与えるつもりか! そうじゃないだろ、ヘタレを脱していないなりに変わった部分があるだろうが。すっかり冷めた右手を日下部の頬に添えて自分から遠ざける。さあ離れてくれ、これ以上は絶対に駄目だ。
「な、何よ。将也のくせに生意気よ」
「生意気で結構。けどこんな俺にも譲れない決意ってのがあるんだ!」
欲情と興奮は凍って心の底に落ち、浮上した決意と叱責が駆け巡る。ああそうだ、そうじゃないか将也。もう流されるな、中途半端な優しさと思いで何もかも受け入れようとするな。さあ見せようぜ、変わった自分を。てことで日下部そこをどけぇ!




