行ってはいけない唄の場所
サンクスギビングデーがくる前の木曜日、学校でPTAの面談があって、いつもよりも三時間早く学校が終わった。お父さんは仕事から帰るにはまだずっと早い時間で、おじいちゃんは学校で先生と面談をしていた。
僕が一人で冒険にでるのなら、その日は今日だと思った。
ニガーマウンテンの天辺を見ようと、僕は誰にも告げずに山へ向かった。
家を出て、店が並ぶ町の中央にある道を一人で歩く。
ここは本当に小さな町で、店というのは町の中央に集まっているだけ。
そもそも人も多く住んでいないから、店が密集していても賑わいなんていうものはないんだ。
それでももし、町の外れにある墓地に行くまでに誰かに会ったとしたら、きっと僕は山に行かずに家に引き返していたような気がする。
何せ、誰もが行くことのない場所に行くのだから、誰かに見られてしまっては秘密の行動が他の人に知られかねない。
たった一人が話す話題は、翌日にはみんなの耳に入るなんてことは、田舎の良い部分でも悪い部分でもあるということが子どもの僕にさえわかるような土地柄なんだ。
今日は学校へ出かけている人が多いというのもあって、山の入り口に着くまで誰とも会うことがなかった。
ドキドキしながら町を歩くことになるなんて、山に行こうとしなかったら一生経験しなかっただろうな、と自分で思って小さく笑った。
町の外れの墓地まで歩いた僕は、大きな深呼吸を数回して、薄暗い木々に覆われた山に足を踏み出した。
山道といっても、そこには作られた道なんかはなかった。
木が生い茂り、上を見ると木漏れ日がキラキラしていたけれど、地表まで明るさが届くことはなく、薄暗く少し湿ったような動きの無い空気が流れていてた。
自然が生み出した名前も知らないキノコや苔が、腐った倒木の上で威張って生えている。
僕の歩く足音は、静寂の世界の中でとても大きく聞こえるような気がした。
それは、長い間誰も立ち入ることのない山であったという証のように感じた。
二十分程のゆるやかな山道を歩いた頃、僕の前方に眩しい太陽の日差しが当たる場所が見えてきた。
そこが頂上に近い場所なのだろうという予感がして、明るく日の差す場所に向かって思い切り走った。
太陽の眩しい光が僕の視界の世界を金色に見せた。
そこには山道の中で見たような生い茂る木々はなく、茶色に変わったイネ科の草の絨毯が風にそよいでいるだけだった。
今までとまるっきり違う風景は、僕が突然夢の中に入ってしまったかのような錯覚をさせた。
山の肌を渡る風が、僕の少し温まった体を撫でていく。
「ああ、気持ちいい」
誰もいないからなのか、感じたままの言葉が口から流れてきた。
ここから僕は、秋色に染まった草の海を飛ぶように歩いた。
すると、頂上らしき場所に大きな木が見えた。
「ニガーマウンテンの天辺だ!」
僕の歩みは速くなり、あっという間に大きな木の下に辿り着いた。
その木の幹は、僕の両手では抱えられない程に太くたくましい姿をしていた。
「いじめっ子たちが言う木は、本当にあったんだ」
本当に存在する木を見てびっくりしたけれど、怖いという気持ちが湧いてくる場所としては、ここは遠いような気がした。
ここから見渡す自然の風景は、あまりにも美しかったからだ。
僕は、秘密の計画をやり遂げた自分への褒美の一つとして、木の根元に腰掛けて景色を眺めて一休みした。
山の入り口の手前にある教会と墓地、学校、子ども達が遊んでいる公園。
町の中の木々が黄色や茶色の秋色に染まり、僕の町の全てが秋一色だった。
ここから見る全てが僕の住む町の秋の風景で、そんな美しい町に僕が住んでいるということに感動した。
そんなに長く居たような気がしなかったのだが、あまりの美しさに見とれてしまったせいか、秋の夕方が思ったよりもが早く訪れることをすっかり忘れていた。
空から降るオレンジ色の光が、にわかに弱くなってきたのに気づいて、急いで山を下りることにした。
草の海を歩き、再び木々の暗闇に入る少し手前で、僕が一休みした木の方を振り返った。
それは「美しい町の風景をもう一度見に来たいな」という別れを惜しむ軽い行動だったんだと思う。
「あれ?」
僕は瞬きを数回した。
木から少し離れたところに男の子が立っている?
誰もいないと思っていたのに、そこには確かに男の子が立っている。
黒人の男の子が一人。
黒人は町には一人もいないはずなのに、なぜ?
僕の体は彼を見つめたまま動かなくなっていた。
そして、ただ彼は僕をじっと見ている。
彼の表情がよくわからないという距離なのに、さっき見た美しい景色の思い出が真っ黒になってしまうほどの悲しさと失望感が僕の心に一気に波のように押し寄せて来た。
彼がニガーマウンテンの唄にでてくる「子」であることは、直感でわかった。
僕は恐怖の海に溺れつつあった。
ニガーマウンテンの唄が僕の頭の中に流れてきたからだった。
「うわあぁーっ!」
声にならない叫びを出すしかなかった。
そうしないと、僕はずっとその場所から動けなくなるような気がしたんだ。
薄暗い木々に向かって一目散に走った。
走らなかったら黒人の男の子はついてくるんじゃないかと思って、胸が苦しくても絶対に止まることはできない。
とにかく明かりが見えるまでは、どうしても足を止めることはできなかったんだ。
どれくらいの時間走ったんだろう?
明かりが灯り始めた町の外れの教会にまで来ていた。
自分の心臓の鼓動はうるさいと感じるくらいに脈を打ち、足は恐怖と急激な運動のためにガクガクしていた。
自分の家の明かりを目指して、自分の荒い呼吸を聞きながら歩いた。
玄関のドアを開けると、おじいちゃんとお父さんがダイニングに座ってテレビを見ていた。
「ジム、一体どこに行ってたんだ?」
お父さんの言葉に、僕の体がビクッと反応してしまった。
行ってはいけない場所に行ったことを悟られないように、自分の動揺を見せないように振舞おうと、考えれば考えるほど僕は答えに詰まってしまっていた。
「いいか、ジム。デートをするならお父さんにちゃんと紹介してからにしろよ」
お父さんがそういうと、おじいちゃんとお父さんは二人で笑い出した。
「そんなんじゃないよ!そんなんじゃ……」
少しむきになって答えた僕だったが、二人の笑い声を聞いて、家に帰ってこられた安心感を感じた。
その夜、おじいちゃんもお父さんも僕がほとんど話をしない様子を心配そうに眺めていたのを知ってる。
夕飯の時に、「どうした?学校で何かあったのか?」とお父さんが聞いてきたんだけど、僕は思い切り長い時間走った足の疲れと思い出す怖さも手伝って、「ううん……」と答えるのが精一杯だった。
自分の部屋のベットに寝転んで、あの黒人少年のことを思い出していた。
あの黒人の男の子は、悲しみに満ち溢れていた。
もし誰かが彼を見たとしたら、どんな人間でも彼の抱える悲しみの理由を知りたくなるんじゃないかと思う。
人にそう思わせるくらいの深い悲しみの闇が、あの男の子の体には溢れていた。
なぜにあそこまで悲しみに満ちているのか、どうして彼があそこに現れたのか、怖い思いをしたクセに僕の好奇心は止まることがなかった。
外では夜の闇の中で、コヨーテの遠吠えが響いている。
女の泣き声のように響くコヨーテの声が、いつもよりも悲しげに聞こえる夜だった。