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花ノ香リ

作者: 和島

病院の待合室で、赤いランプが消えるのを待ってどれほど経ったか。

 時間の感覚はとうにはぎ取られていた。

 弟が事故に遭ったと電話越しで知らされたときから、(あゆむ)の左耳はじんじんと痛む。まるで、その耳に罪があるかのように握り込んだ。

「歩さん、(わたる)くんはきっと大丈夫です」

 すぐ隣から、不安を滲ませながらも健気に励ましてくる声が聞こえた。

「そうだね。ありがとう、花ちゃん」

 航と同い年で、恋人でもある(はな)()に気遣われるとは。二十歳を過ぎた己を恥じる気持ちが、さらに胸の内をかき乱す。

(こんなことって、あるのか)

 意識が断ち切れたらどんなに楽だろうか。

(悪かった、航。兄ちゃんが悪かった)

 だから。

(頼むから謝らせてくれ。このまま逝ったりするなよ) 

 ふと、背筋に冷たいものを感じ、歩は顔を後ろへ向けた。

 辺りはすでに夜が舞い降り、窓ガラスはこちらの世界をそのまま映しだす鏡となっていた。ずっと灯ったままの赤いランプを見つめていると、フッと消えた。

 残されたのは、死神が訪れるには相応しい闇だけだった。


◆◇◆◇◆

 

 食材を詰め込んだ袋を片手に、歩は家路へとついていた。

 金曜の夕暮れである。 

 飲みに行こうと誘ってくる同僚の誘いを断ってきた。確か、先週も袖にしてしまった。来週はこちらから声をかけるべきかも。

 そんなことをぼんやり考えながら歩く。

 肌に吸い付く夏特有の風がそよいでいた。真昼の攻撃的な陽光はゆるみ、労るような淡い橙が空に色づいている。

 弟が亡くなって、二年の歳月が経っていた。

「あら。お帰り、歩くん」

「ただいま。今日も暑かったですね」

 歩は顔見知りの主婦に軽い会釈をした。

「本当に立派ないい男になって。あとはお嫁さんよね」

 苦笑を浮かべた歩を残して、主婦はぺらぺら続ける。

「いつでも言ってよ。おばさん力になるから。まぁでもね、歩くんならその気になれば何十人だって彼女が出来るわよね。ほら、学生の頃なんか毎日見かける女の子が違ってたもの。芸能人も顔負けよね」

「はは、嫌だな。忘れて下さい」

 いつものやりとりを終え、再び歩き始めると、今すれ違ったばかりの主婦の声が離れた場所から聞こえてきた。遠くなっていて聞き取りにくいが、歩の名前があがっているようだった。

 相変わらずだなと笑える余裕が今の歩にはある。学生の頃は、話しかけられるのもわずらわしく、あれこれと噂をたてられるのも腹立たしかった。当時付き合っていた彼女の名前から容姿、馴れ初めまでも知られてしまう始末。となれば、自然口調がとがるのも仕方ない。過去と現在の自分を比べると、他人のような気がする。

 一方の航は誰にでも愛想の良い、品行方正な弟だった。学級委員も生徒会長もやってのけ、正義感もある出来の良さ。だから、子供を庇って車にはねられるなんてこともやってのけたのか。そこまでの優秀さは家族にとっては罪だ。もちろん、航は尊いことをした。褒めてやらないといけない。胸を張って自慢するのもいい。ただ、そう思えるのはまだ先になりそうだ。

 近頃、歩は航に雰囲気が似てきたんじゃないか、と噂されている。兄としては情けない話だが、嫌な気はしなかった。

 歩の前で素直に笑ってくれたのは小学生の頃までだった気がする。中学になると、文句をため込んだように口をとがらせていた。とはいえ、特別仲が悪い兄弟ではなかったと歩は思っている。小さい頃のように殴り合いの喧嘩もなく、言い合いはあっても、白熱するほどではない。それにほとんどは、歩がからかって、軽くあしらわれるいった具合だ。

 それなのに、よりにもよって航とは喧嘩したまま永遠に別れてしまった。

 事故に遭う、前夜のことだった。

 直接届くことが叶わない謝罪は、もうすっかり祈りの言葉となっていた。

(航、悪かった。許してくれ)


 自宅の塀を視界にとらえると、覚えのある声が聞こえてきた。誰かはすぐに分かったので、歩はやれやれとため息を吐く。

「悪いが今日は野菜と魚しか持ってないぞ。とっとと帰るんだな」

 表札を越えた歩は、玄関へ続く石畳に足を乗せて立ち止まることとなった。

「あゆむ! おせーじゃん」

 気安く呼んでくる子供はどうでもいい。隣に住む小学三年生の(なお)()だ。問題はその直輝に手を引っ張られ、転びかけた女性にある。

「あ、お、お帰りなさい、歩さん」

 目の前の光景が信じがたく、歩は盛大に瞬きを繰り返した。が、ちっとも景色は変わらない。

「は、花ちゃん?」

 航の同級生で、恋人でもあった花香は見違えるような大人の女性へ成長していた。華奢な身体を覆うには少々役不足なAラインのワンピース。桃色の小花が胸元から下にかけて流れるように散っていた。その上に、アイボリー色のカーディガンをざっくり羽織り、素足の先はストラップ付きのエナメルパンプスにおさまっていた。つややかな黒髪は、腰にまでかかり、さらさらと涼やかな音でも聞こえてきそうだ。

 触れてはいけない、危うげな清廉さがある。

 呆けた口をしまいもせず、歩は固まった。

「はい、花香です。お久しぶりです」

 丁寧にお辞儀をする花香に習い、歩も慌てて腰を折る。

「ほ、本当に、久しぶりだね。ええと、二年、ぶりだね」

 鼓動が、足踏みするのを感じた。何とか押さえ込まねば。

「あゆむ、ねーちゃんが美人だからってドキドキすんなよ。すけべ」

「な! 何てことを! さ、さっさと帰れ」

 つくった拳を頭におとしたかったが、大人げないのでやめておこう。

「えー、今日は勉強みてくれる約束じゃんか」

 いつも勝手に上がり込んでくるくせに、何が約束か。つまりだ、花香の存在が気になるので一緒に上がり込もうというこんたんだ。

(まぁ、居てくれた方が都合がいいかもな)

 誰もいない家で花香と二人っきりというのは、正直辛い。

 いかにも仕方なさそうな顔をつくった歩だったが、計画はすぐに狂った。

「直輝、邪魔をするんじゃないよ。とっとと帰ってきな」

 突如現われた母親にげんこつを食らった直輝は、慣れているのかさして痛そうでもない。

「おばさん、ただいま」

「ああ、お帰り歩くん。午後ね、このお嬢さんが歩くんの家の前をうろうろしてたもんだからさ、声を掛けたんだよ。そしたら航くんの同級生だっていうじゃないか。それでね、こんな所で待たせておくのもあれだから、さっきまで家でおしゃべりしてたのよ。ね?」

「あ、はい。そろそろだろうって、直輝くんが教えてくれて。待ち伏せしちゃいました」

 一体どんな話を長々と繰り広げたのか。ものすごく気になるが、面に出さず愛想笑いを浮かべておく。

「そうだったんですか。それは、ありがとうございました」

 気をよくしたおばさんは、直輝のえり首をつかまえて出ていこうとした。

「いいんだよ、楽しかったから。歩くん、家の人がいないからって、若い娘さんを遅くまで引き留めちゃいけないよ。帰りも、しっかり送り届けるんだよ、大人の男として」

「わ、分かってますよ」

 歩は頬がひきつりそうになるのを必死で堪えた。

「それと、花ちゃん。応援してるからね」

 意味深な言葉を残してにぎやかな親子は去っていった。

「応援って?」

「あ、私、持ちます」

 両手のふさがった歩から、買い物袋を引き取ろうとした。

「え? いいよ、重いから」

「平気ですよ。ほら」

 頬を赤らめた花香が間近に見え、歩は素早く視線を上へ反らした。空っぽになった左手を持て余し、そそくさと鞄をあさり出す。

「え、ええと、じゃぁすぐに鍵開けるから」

 チクチクする。

 全身あちこちの毛穴に、小針が触れたようなささやかな痛み。

「料理、するんですね」

「あぁ、まぁ少しね。母さんはずっと父さんの所へ行っているから自然と。今のおばさんが食べにおいでって言ってくれるけど、そうそう世話になるのも気が引けて。さ、どうぞ」

 歩は買い物袋を受け取り、背中で扉を押さえて花香を招き入れた。

「お邪魔します」

「ええと、お茶いれるから仏間で待ってて。左の廊下をまっすぐ行けば分かるから」

「あ!」

 思いがけない返事に、歩はびっくりした。「ど、どうしたの?」

「手土産を、お隣さんのお家に忘れました」

 ただでさえ白い顔が青白くなってく。なぜかこちらに非があるような、居たたまれない気持ちにさせられる。

「気にしないで。ありがとう。後で俺が取りに行くから。早く航に会ってやってくれ」

 きびすをかえしかけた花香は、申し訳なさそうに頷いた。


 麦茶を入れたコップを盆にのせ、歩は仏間に続く廊下を進んだ。

 自分の家なのに、他人の家に上がり込んだように落ち着かない。

(二年だ。それだけ経った)

 秘めた想いを封じ込めるには十分な時間を稼いだはず。もう、過去のこと。

 氷がこすれる冷たい音は、わずかに心の波を静めた。深呼吸を一つ。

 息を吸い込んで仏間に入った歩は、あげかけた声をのみ込む。

 この部屋に入ってから今まで、そうしていたのか。花香は手を合せて仏壇の前で正座をしていた。肩からこぼれる髪束に、自然と歩の視線は誘われた。が、すぐに弟の遺影が目に止り、我に返る。

「お待たせ、花ちゃん」

「あ、いえ」

 身体の向きを変えた花香は、熱そうに額を指先でおさえた。

「気が利かなかったね、ごめん。あいにくこの部屋にはエアコンがなくて。ええと、扇風機は」

 二階の寝室に上げたのだった。

 自分を罵りながら、歩は盆を畳の上に置き、縁側の窓を開けた。ゆるい風が首筋をなで、自分も汗をかいていたことに気付かされた。

「いい風が入ってきますね」

 微風のような声だった。

「眺めもいいです。歩さんがお手入れを?」

 歩はゆるく笑んだ。窓枠に寄りかかったまま庭を眺める。

「一人で暮らすようになって色々気付かされたよ。ご飯に掃除、洗濯と慣れないことに手一杯でね。気がつけばすっかり庭は草だらけになっててさ」

 ごく自然と、歩の視界に花香が入ってきた。

「おばさんは、まだ……その」

 花香の意をくみ、歩はすんなり応えた。

「ここにいると辛いって。航の思い出が一杯つまった家も、町にも居たくないって。だからずっと、単身赴任先の父と暮らしている」

 事故に遭った日も、たまたま母は父に会いに行っていた。両親はすぐに駆けつけて来られなかったことを悔やみ続けているのだ。

「歩さんは、一人でも、大丈夫ですか?」

「もちろん平気だよ。実は何度か一緒に暮らそうって誘われたけど、地元で就職をしたし、航を誰もいない家に残してもおけないし」

 内心、両親はホッとしていたと思う。

 様々な想いに挟まれもがいている。歩がしてやれるのは、かつてのまま家を保ち、いつでも帰って来られるようにしておくこと。

「私は二年経ってようやく、ここに来ることができました。ごめんなさい」

「謝ることなんてないよ。ありがとう。航、すごく喜んでると思うよ」

「お、怒っていると、思います」

 聞き間違いかと思い、歩はうつむいく花香に顔を向けた。

「花ちゃん?」

 花香は気の毒なほど、拳を白くさせていた。訊ねても返事がなく、歩は困り果てる。

(どうしたんだろ、急に)

 爽やかだったはずの風さえ重たく感じ、何とか切り替えようとする。

「あ、庭に水まいていいかな。涼しくなると思うし」

 努めて明るい声を装い、歩は庭へ下りた。常に置いてあるサンダルに履き替え、ホースを手に持つ。

「意外なことに、庭いじりにハマちゃってね。草をとったり、花を植えたりするのが楽しくなってさ。すっかり年寄りくさくなったよ」

 笑いながら蛇口をひねり、ホースの先端を指で潰してシャワーをつくる。

 一人きりの家は思ったほど平気で、むしろ気楽だった。日々の生活は忙しく、慣れないことだらけでもその方が気は紛れた。だがあるとき、仏間から見える庭の景色に呆然とし、途端にもの悲しくなった。

 それから、庭のことも考えるようになったのだ。一年を通して、出来るだけ花が絶えないようにしたい。季節を感じさせる花を、咲かせたい。

 たった二年と言い切っていいのか分からないが、驚くほど自分は変わったと歩は思う。まるで知らない人間だ。

「そういえば、大学はどう? 楽しいだろう」

 花香は高校卒業とともに、家の都合で引っ越しすることが決まっていた。それに合せて大学を選んでいたので、もう偶然外で見かけることも、ましてや会えるとも思っていなかった。

「あ、歩さん」

「はい」

 振り向くと、先ほどと寸分違わずの花香が縁側に立っていた。

「歩さん」

 もう一度名を呼ばれ、歩は水をふりまきながら傍に寄った。勢いよく顔を上げた花香とまともに視線がかち合う。

「好きです」

「……え?」

 どこまでも澄んだ瞳は、歩の意識を捕えて離さない。

「歩さんが好きです。そう、言いました」

 歩の手からホースが滑り落ちた。生き物のようにくねったホースは、歩と花香の間に水しぶきを降らした。

 顔にかかったしぶきは妙に熱く、ジリジリと皮膚を焦がすようだった。

「言わなきゃって、このままずっと逃げていたら前に進めない。そう、思って。きっと、今の私を航くんは怒っていると思うんです」

 歩は言葉を失ったまま、耳をひたすら傾けるしか出来ない。

「馬鹿だと思われるかもしれません。都合のいい解釈をしているだけかもしれません。でも、夢の中に航くんが現われて」

 どんどんか細くなる花香の声は、ついに涙に濡れた。

「言い訳にするなって。意気地なしだ。勇気を出せ。そう、言われているような気がして、ずっと悩みました。忘れなきゃ、無かったことにしなきゃって思っても、結局消えなくて。ごめんなさい」

 ここで一端くぎると、花香は深々と頭を下げた。

「好きになって、ごめんなさい」

 目の覚める告白だった。

 弟の恋人に抱いてしまった想いを自覚してからずっと、繰り返してきた。その言葉がそっくり、想い人の口から零れた。

 とうとう勝手な想像をするほど頭が参っていたのか。しかし、花香は冗談や嘘を言う女の子ではない。

 表情も身体もピクリとも動かない歩の様子に、花香は居場所をなくしたように縮こまる。

「本当に勝手なことを言ってごめんなさい。困らせて、ごめんなさい」

 何度目かになるお辞儀をすると。

「お元気で。歩さん、さようなら」

 最後の言葉を残してあっという間に去っていった。

 歩は為す術なく見送っていた。

 玄関の扉が開閉する音。ひそやかな足音は日常の騒音にまぎれていく。虫の鳴声。風の音。自転車のベルに車道を削る乾いた音。誰かの話し声。そして、歩の足をからめ続ける流水音。

(追いかけないと)

 湧き上がった衝動は、しかし冷静な自分が打ち消した。

(追いかけて、どうするんだ)

 自分も同じ気持ちだと告白するつもりか。

(忘れたはずなのに)

 もう、過去のこと。気持ちの整理はつけたはず。突然目の前に現われたりするから、うろたえているだけ。分かっていたら、きっと。

(きっと?)

 自身に問いかけ、歩は続く言葉をなくす。

 忘れたと言い切れるタイミングは、一体いつだろう。

 二年前より、一年前。思い出す回数は減った、はずじゃなかったのか。

 テレビをつけて、ご飯を食べているとき。仕事の小休止に窓越しの空を見上げたとき。缶ビールを片手に夜の庭を眺めてるとき。

 ふと、彼女を想う。

 歩は自嘲めいた笑みを口元にはりつけ、ちっとも忘れていないことを思い知った。数え損ねた回数は底知れず、己を偽った数もそれに比例する。

 遺影の航が、歩を見つめているような気がした。

 永遠の笑顔を閉じ込めた航は、頬をゆるめて眩しそうに目を細めている。満面の笑顔とまではいかなくとも、航らしい表情だった。

(航、ごめん。今から、最低なことをするよ)

 この罪悪感と一生付き合っていこう。そう思った矢先。

――勝手にすればいいだろ。

 突然、航の声が聞こえた。

――兄さんはいつもそうだ。何でも軽々と手に入れるよね。勉強だって、運動だって、たいした努力もなくあっさりつかむ。

 すぐ傍に、航がいるようだった。

――僕は違う。比べられるのが悔しくて、嫌で、必死に努力してきたんだ。

 あまりに鮮明すぎて、これが喧嘩した日の会話だとようやく気付いた。

――敵わないって思い知らされるのはもう沢山だ。好きにすればいいだろ。

 机に向かったまま吐き出した文句は、どれも歩の予想を超え、冷静さを奪い取った。いつものような軽口で、「本気にするなよ、冗談に決まってるだろ」と撤回すれば良かったんだ。

――僕に遠慮なんかする必要は全くない。そもそも、人を好きになるのに制限なんかいらないんだから。誰にだって、ないんだ。

 それきり口を閉ざした航とは、二度と向かい合うことなく永遠に別れてしまった。

 今このタイミングで、これほどハッキリと思い出したのはやはり、航の戒めだろうか。

――勝手なこと言うな。

 まだ、航の声が聞こえる。

――馬鹿じゃないの。いつまでウジウジしてるんだよ。

 叱咤する航の声には、覚えがなかった。

――少し、僕もやりすぎた。そのことは謝るよ。だから、兄さんも僕に謝るのはやめて。逆に、辛いんだ。

 歩は途方に暮れた顔で辺りを見渡した。

 もちろん航の姿があるわけもなく、ここには誰もいない。それなのに、歩は一人じゃない気がした。

――本気の相手なら、これくらい苦労すればいいんだ。

 生意気な台詞は、ザザッと突如舞い込んだ風音にかき消された。全身をぶたれたような衝撃に、歩は現実と夢の境に迷い込んだようだった。

「あ! あゆむ、何やってんだよ」

 直輝の声に、歩は我に返った。水浸しの足を動かし、庭先に顔を出した直輝に向かう。

「悪い、水道止めておいてくれ」

「あゆむ、ねーちゃんなら橋の方行ったぞ」

 思いがけない助け船に、歩は驚く。 

「さんきゅ、明日たっぷりお菓子買ってきてやるよ」

 歩は夕陽が沈む空へ駆けだした。何人かにすれ違い、興味深げに見られたが構わない。

(もっと早く)

 無意識に、歩は濡れた靴下もくたびれたサンダルも脱ぎ捨てていた。

 民家の連なる道を抜けると、ふいに視界が広がり、大きな橋が姿を見せた。学生の頃から、今でも通る町へ続く橋。その真ん中辺りに、花香が佇んでいた。

 歩は橋の入り口で足を止め、力の限り叫ぶ。

「花ちゃんっ」

 遠目だが、花香がこちらを振り向いたと分かった。今、互いの視線が交わっている。

 普段は行き交う車も人も多いはずなのに、まるで用意された舞台のように辺りは静まりかえっていた。

「聞いて、欲しいことが、ある」

 久しぶりに全速力で走ったために、息が整わない。陸上部で鍛えていた学生の頃なら、これくらい訳もなかっただろうに。

「航が、事故に遭う前の夜に、俺、アイツにひどいことを言ったんだ」

 動悸がますます高まった。

「花ちゃんのことが好きだって、好きになったって。そう、言った」

 抱えていた想いを口にするのは案外、簡単なことだった。

「初めは、弟の恋を応援するつもりだった。本当だ。アイツ不器用で、融通の利かない男だし。だから、応援したかった。なのに」

 航を自然に笑わせる花香の存在が、単なる好奇心から別の感情へ膨らんでいった。まさか、弟の恋人に恋心を抱いてしまったのか。自覚しないように押し殺していると、皮肉にも余計に想いが強くなった。

「花ちゃんが視界に入る度に、苦しくなった」

 今だって、こんなに痛い。

「だから、つい、航に言っちまった」

 距離を縮めた歩は、置き去りにされた影のように立ち竦む花香と相対した。

 西日は弱々しく、流れ去る風も消えてしまいそう。もう少しで、影が濃くなる。花香の表情も見えなくなってしまう。

「好きだよ、花ちゃん」

 罪の意識に苛まれながらも、ふわふわと身体が軽くなった気がした。

「ごめん。好きになって。俺の方こそごめん」

 花香は零れおちそうなほど目を見開いた。

「ち、違うんです。勘違いを、しています」

 歩は急かさず、続きを待った。

「私と航くんは、友達です。私の大切な、友達なんです」

「そう、そうだよ……え? 今何て?」

 爆弾発言をおとされたように思うが、すんなりと耳に馴染まなかった。

「私と航くんは付き合って、いませんでした」

 歩はたっぷり間を置いて考えた。

「航くんは、私が、その。歩さんのことが好きだってどうしてか知っていて。手伝おうかって声をかけてくれて」

「ちょ、ちょっと待った! えっと、えぇ?」

 混乱を極めた歩は、さっき聞こえたばかりの、記憶にない航の声を思い出した。もしも。あの声が今の、航の声だったとしたら?

 一つの可能性が浮かんだ。

「ひょ、ひょっとして。俺、勘違いしてた?」

もしくは、させられていたのか。

 思えば、母に紹介するときも「クラスメイトの」と頭につけていたし、手を繋いだ所を見たことがない。単に、恥ずかしがってのことだと思っていた。でも、女っ気のない航が肩を並ばせて下校する姿を見ればどうしたってそう思える。日曜もひんぱんに出かけ、ファッション雑誌まで買っていた。

「う、嘘」

 嘘であって欲しいような、欲しくないような奇妙な心地。

「ごめんなさい。まさか歩さんがそんな風に思っているなんて知らなくて」

「い、いや。花ちゃんが謝ることじゃないから。勝手に、俺がね。はは」

 今までの苦悩がゴミくずのように潰されたようだ。地面に座り込みそうなのを堪えた。

(でも、変だな)

 ぬぐいきれない違和感がある。

 航が人の恋を手伝おうとするだろうか。しかも、兄の恋路を。

 花香と歩の間にはちょうど、一人分の距離が空いている。これ以上踏み込めない空間。

(やっぱり、航は花ちゃんのことが好きだったんだ)

 声をかけたのも、花香と何らかの繋がりを持ちたかったからだったとしたら。ライバルは兄だと知りつつも、挑んできたということか。

(不器用なやつ。本当に、馬鹿だな)

 でも、最強な攻撃であり防御だ。おかげで手を握ることさえ気が咎める。

「送っていくよ、花ちゃん」

「は、はい、ありがとうござ」

 花香の声が不自然に途切れた理由は、歩の足にあった。

「あ、ええと、急いでてつい脱ぎ捨ててきて」

 汚れた素足はどう頑張っても隠せない。

「大変。私、取ってきます。ここで待ってて下さい」

 走り出そうとする花香の手を、歩はとっさにつかんでしまう。

「いい、気にしないで」

 などと勢いのまま言ってしまうが。

「え、でも、そのままだと危ないですし」

 もっともな言い分に、歩は頬を赤らめた。

 今になって、自分の取った行動を恥じた。体力は全然でも、中身はずいぶん若返ったようだ。

「なら、一緒に戻ろう」

「は、はい」

「靴を拾ってから、送っていくから」

「はい」

 なんとも味気ない会話の後、二人はぎこちなく歩き始めた。

ひととき繋いだ手は、何気なく解かれた。 肩を並べていると、彼女の名に相応しい花の香りが鼻孔をくすぐった。それだけで心は満たされ、酔ってしまえる。

「え! 花ちゃんが小学六年の頃に?」

 何年分の驚きを凝縮したかの一日の締めくくりはこれだった。なんと、花香は八年前から歩のことを慕っていたという。ひどいことに、歩には全く覚えがない。

「その方が、私にとってはいいんです。恥ずかしいですから」

 ぜひ思い出したいと言っても、意外なことに花香はそれ以上喋ってくれなかった。

 二人は空いっぱいに星々が瞬くまで、訥々と話した。そして、互いに連絡することを約束して別れた。


 翌朝、母から電話がかかってきた。調子がよさそうだったので、花香が久しぶりに来てくれたことを告げた。すると、本当に嬉しそうに話すものだから、つい話題に上げた。

「花ちゃんがさ、俺のこと随分昔から知ってたらしいんだよね。驚いたよ」

「いやね、歩ったら。忘れちゃったの?」

 母の快活な声は、歩の心臓を鷲づかんだ。

「確か、そう。航が六年生の頃ね。夏休みの宿題でね、五人グループで地域の風習を調べようっていうのがあって。その話し合いでよく家に集まってたじゃない」

 歩は全神経を聴覚に集めた。

「その中に花ちゃんもいて、いつだったか体調崩して吐いちゃったことがあってね。それを歩が片付けて介抱したんじゃない。あの時のこと航、悔しがってたわ」

 目頭に痛いほどの熱が集まった。

 返事をしない歩を母が心配してきた。

「ごめん。ちょっと、過去の自分を褒めてやりたくなっただけ。俺、格好良すぎだよな」

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