糸遊
春。
目覚めた私は目を擦りながら、ベッド横の窓にかかったカーテンをゆっくりと開ける。
空には糸遊が漂っていた。
蜘蛛の糸なのか。 光なのか。 あるいは私の見間違いなのか。
その頃から私は妙な夢を見るようになった。
夢の中には一人の男がいる。
顔は知っている。
名前も知っている。
けれど、その男はもうこの世にいない。
男は私の初恋相手だった。
そして今もなお、私の中で私と共に生きている。
僕は少しだけ嘘をつくのが得意だった。
否、人を傷つけたくない正義感から、本当の事を言わなかった。
人に好かれたかった。
正確には、嫌われたくなかっただけかもしれない。
かと言って、僕は成功者になりたい。僕は人気者になりたい。僕は人からの信頼を得たい。
僕はわがままなのかもしれない。
いや、どれもが欲望からの問いかけだった。
何かメリットを取れば、デメリットも生まれる。
これが世界の仕組みだと知ったのは、他の人よりも遅かった。
だから僕はこんなに我儘なんだ。
なんて断定的な自己嫌悪をするけれど、
僕なら陰ながら人気者になれるかもしれない。
なんて不確定なナルシズムに酔いしれている人間だ。
好きな人がいる。初恋の相手だ。
近所に住む幼馴染で、艶めいた黒いロングヘアーをなびかせて、校門の前でいつも待っていてくれる。
来週には紅葉が映えるらしく、僕は彼女をデートに誘おうとしているが、中々勇気が出ない。
僕と彼女は、あまりに家の周囲が田舎過ぎるが故に、学校が無くなってしまった。
何せ、全校生徒が僕と彼女だけだったからだ。
そして、少し離れた街中にある学校に通っているので、僕と彼女は偶然にも一緒に帰らなければ他に相手がいないのだった。
僕がデートに誘う事を躊躇いながら、沈黙が2人を包む。
そして、その沈黙を先に破ったのは、澪だった。
「私、もうこうして一緒に帰れなくなる。ごめんね」
澪がそう言った。
彼氏でもできたのだろうか。
あるいは、ようやく僕という人間の退屈さに気付いたのかもしれない。
どちらにせよ、ろくな話ではない気がした。
僕は何か言おうとしたが、言葉は思ったほど素直ではなかった。
「え、何かあったの?」
捻り出したそれは、自分でも情けないほど頼りない声だった。
「私、病気が見つかって。」
澪はそこで一度言葉を切った。
「もう治らないかもしれないから。」
僕はすぐには理解できなかった。
病気。
澪。
その二つの言葉がうまく結び付かなかったのである。
「病気なら、澪が謝ることないだろ。」
僕は笑った。
笑ったつもりだった。
「治して、また学校来ればいいじゃん。」
せめてものつもりの虚勢だった。
夕日が沈んでいく。
返事はなかった。
私も何を言えばいいのか分からなかった。
気付けば空には一番星が出ていた。
その間、私たちはほとんど何も話さなかった。
私は生まれて初めて、自分の心臓の音をうるさいと思った。
---
家に帰ってからも落ち着かなかった。
夕飯は出されたが、ほとんど箸が進まない。
味噌汁だけは飲もうとしたが、それすら胃が拒んだ。
布団に入っても眠れなかった。
目を閉じる度に澪の顔が浮かぶ。
夕日に照らされた横顔。
震える声。
そして、
「もう治らないかもしれない」
という言葉だけが何度も頭の中を巡った。
何度目か分からない程の寝返りをうった後、
身体の内側から込み上げてくる物を感じた。
それは気持ちや愛情なんかではなく、物理的なものだった。
慌てて洗面所に駆け込み、嘔吐する。
目を開けると、白かった洗面台は赤かった。
洗面台に散った赤を見ていると、通学路の彼岸花を思い出した。
どういう訳か、紅葉ではなかった。
僕は目を見開いた。
それは他ならぬ僕の血だった。
睡眠不足と過度なストレスが原因で、吐血することもあるらしいが、まさか自分がドラマのような鮮血を口から吐き出す場面に遭遇するとは、想像できなかった。
日が昇る頃には、僕は減量を終える頃のボクサーのようにやつれていた。
何も考えず、何も感じないように努めながら家を出た。
もっとも、それは簡単なことでは無かった。
いつも登校の際、澪が家まで来てくれる。
今日は来なかった。
歩幅を気にすること無く学校に向かう。
通学路がやけに静かに感じた。
すれ違う車、すれ違う人、地面に咲く花、電柱、信号機。
道行くもの全てに目線が盗まれる。
気付けば右隣を見ていた。
しかしそこには誰もいない。
昨晩洗面台で見た色の花を横目に、学校へと進んだ。
気付けば僕は歩数を数えていた。
何かを考えないためだったのか。
それとも何かを考えてしまわないためだったのか。
その違いは僕にも分からない。
いつもより重い足。
いつもより狭い歩幅。
いつもより長い通学路。
7427歩目。僕は校門を跨いだ。
いつもなら学校に着く頃には、生徒たちの声が聞こえる。
だが、その日は妙に静かだった。
遅刻したのか、僕は。
下駄箱に靴を入れようとして手が止まる。
誰の靴もなかった。
思えば遅刻を管理する先生も校門にいなかった。
日曜日だった。
私は安堵した。
けれど、その安堵は長く続かなかった。
昨日は金曜日だったはずである。
僕は頭を抱えながら帰路についた。
土曜日はどこへ行ってしまったのだろう。
そんなことを考えている間だけは、澪のことを思い出さずに済んだ。
その日はそのまま帰った。
お昼前の時間にも関わらず、僕は泥のようにベッドで横になった。
---
目が覚めた。
かなり長く眠っていた様で、時計の短針が5を指していた。
薄暗く朱色な空を見ると、最後に澪と会った時の声が再び聴こえてくるみたいだった。
枕元のスマートフォンを手に取る。
澪からの連絡はなかった。
それはある程度予想していた。
だが、その下に表示された文字には目を疑った。
17:07
火曜日
僕はしばらく画面を見つめていた。
日曜日の昼前に眠ったはずだった。
つまり月曜日が丸ごと消えていることになる。
そんなことがあるのだろうか。
僕は自分の額に手を当てた。
熱はなかった。
少なくとも、あるようには感じなかった。
人間は精神的に追い詰められると、二日も眠り続けるものなのだろうか。
僕はその答えを知らなかった。
ふと思い立った。
澪のお見舞いに行こう。
行かなければ行けない。
土曜日が消えた。
月曜日も消えた。
もし次に僕自身が消えたとしても、誰も気付かないのではないか。
その前に澪に会わなければならない。
そう思うと、僕は家を飛び出した。
この地域に病院は一つしかない。
きっと澪はそこにいる。
いや、いてもらわなければ困る。
もしそこにいないのなら、街の大学病院ということになる。
そこまで病状は深刻なのだろうか。
澪はもう学校へ来られないのだろうか。
それとも――。
僕は頭を振った。
考えたくなかった。
秋の空には一番星が浮かんでいた。
夜風が頬を撫でる。
鼻の先と耳が冷たかった。
気付けば僕は走っていた。
---
冷えた風の影響か、それとも長時間走った影響か、胸の奥が痛んだ。
心臓の鼓動が自分の耳にも響き渡る中、気付けば病院は目の前に来ていた。
「白石……澪さんは……入院、していますか」
息が続かなかった。
咳き込む。
胸の奥が焼けるように痛む。
受付の看護師が何かを言った。
僕は聞き返そうとした。
その時、カウンターに赤い雫が落ちた。
血だった。
どうやらまた吐いたらしい。
「白石……さんは……」
僕は一度尋ねた。
「白石さんは金曜日の夕方から土曜日の夕方までこちらにいらっしゃいました。」
受付の看護師が僕を見て立ち上がりながら言った。
その後の言葉はうまく頭に入らなかった。
土曜日。
僕は土曜日の朝まで澪と一緒にいたはずだった。
違う。
金曜日だったかもしれない。
分からない。
眠気が来た。
ベッドもなければ布団も無い――。
---
目が覚めると、私はベッドの上にいた。
いや、本当にベッドだったのだろうか。
本当に僕の目は覚めているのだろうか。
身体が重かった。
動かそうとした気もする。
動いた気もした。
目は開いているのだろうか。
それすら分からない。
光が見えた。
白い光だったようにも思う。
青かったかもしれない。
分からなかった。
澪はどうなったのだろう。
そう考えた。
だが気付くと、ボクは家に帰る方法を考えていた。
帰って何をするのだろう。
分からない。
澪は。
そうだ。
ミオ。
---
そこで思考が途切れた。
---
結城 春人。
なんで最後にあんな酷いことを言って突き放してしまったのだろう。
喧嘩らしい喧嘩はしたことがなかった。
私も彼が好きだし、彼も私を好いていた事は知っていた。
寂しく部屋にいる私は、元気だった頃の後悔を思い出して、自然と涙が溢れてきた。
その時は私、彼に諦めてほしかったの。
だって、2人とも好き合っているのに、片方が死んじゃうなんて、これほど生きている人にとって辛いことって無いでしょ。
残された春人はどうすればいいんだろう。
そんな事が気掛かりで、突き放した事を後悔する。
「また学校来ればいいじゃん」
明るく言ったつもりだっただろう。
でも、彼が強がっていることは分かってた。
だってあの時、私も強がってたから。
昔から似たもの同士だった。
だから、春人が何を考えているのか少しだけわかっていた。
きっと、あの時の春人は
私を励ましていたんじゃない。
自分自身を励ましていた。
私もそうだったから。
「ごめんね」
って私が言ったのは、
春人に向けてじゃない。
自分自身に向けて言ってたから。
自分が先に諦める事に向けての謝罪だった。
「謝ることないだろ。」
彼はそう言った。
そう言ってくれた。
それが彼の優しさで、そんな彼が好きだった。
思い出す度に涙が出てくる。
一昨日の検査結果も良くなかった。
医師の説明は聞いていたはずなのに、半分も覚えていない。
今頃、春人はどうしているだろう。
もしかしたら見舞いに来てくれているかもしれない。
もしかしたら来ていないかもしれない。
来てほしいと思った。
でも、来てほしくなかった。
どんな顔をして会えばいいのか分からない。
あんな言葉を残した私のところへ、
春人が本当に来てくれるのかも分からなかった。
---
1ヶ月が過ぎた。
春人は見舞いに来てくれなかった。
私は箸が重く感じる程に痩せていた。
食事も思うように喉を通らない。
それなのに
春人への想いだけは減らなかった。
身体が軽くなる度に、それだけが重くなっていくようだった。
病室の扉が開くたびに顔を上げる。
その度に目を伏せた。
---
扉が開く。
また顔を上げる。
春人じゃなかった。
いつもの看護師だった。
「白石さん、ドナーが決まりましたよ。」
ドナーが決まったらしい。
けれど、これでやっと、春人に会えるかもしれない。
その事ばかり頭によぎる。
だからこれはきっと、喜ぶべきなんだ。
春人が見舞いに来なくても、喜ばなきゃいけない。
私が元気になれば、春人も喜ぶだろうから。
でも、少しだけ恐かった。
私が元気になった頃には、
春人が誰かを好きになっているかもしれない。
そう思うと胸が痛んだ。
不思議なことに、
病気の痛みよりもずっと。
---
僕は何をしているんだろう。
澪はどんな気持ちでいるんだろう。
部屋の天井を見つめてそう考える。
もしも澪が僕の事を好いていたのなら、澪は僕の見舞いを待ち詫びているのかもしれない。
どうやって家に帰ろうか。
どうやって学校に行こうか。
お母さんは僕の見舞いにきているのかな。
お父さんは出張から帰ってきたのかな。
今日は何曜日なんだろう。
僕の中で、金曜日はまだ終わっていない。
澪に突き放されたあの日、僕はまだあの日の中にいる。
土曜日も月曜日も消えてしまった。
日曜日も、火曜日も水曜も木曜も、僕の中では消えている。
あの金曜日に囚われたまま、紅葉だけが頭に浮かぶ。
澪と見るべきだったあの紅葉が。
そう言えば紅葉って、どうして赤くなるのだろうか。
学校帰りに誰かと話していた気がする。
誰だったのだろう。
---
窓の外に見える木が裸になった頃、2週間後に手術の日程が決まった。
思えば私、春人以外に友達がいなかった。
誰も見舞いに来ない。
それでも、そんな事を気にした事はなかった。
春人が来ると思っていたから。
1週間経っても。
一ヶ月経っても。
そうなると、色々なことが頭に浮かぶ。
春人は本当に私の友達だったのだろうか。
私が勝手にそう思っていただけではないか。
もしかしたら。
自惚れていたのかもしれない。
春人が私を好いているなんて。
扉が開く。
私は顔を上げない。
いつもの看護師だったから。
扉を開ける音と、足音で分かるようになった。
「ドナーの方について、一部開示できる情報があります。」
看護師はそう言って書類を置いた。
私は何の気なしに目を通した。
年齢。
住所。
どちらも見覚えがあった。
嫌な予感がした。
私はカルテを受け取れなかった。
同い年。
近くの住所。
そんな偶然は一人しか思い浮かばない。
看護師が何か言っていた。
聞こえなかった。
私は首を横に振った。
「私、手術しません。」
私は後悔した。
それは手術に対してではなかった。
自惚れていたなんて思ったことに対してだった。
---
手術の日程と詳細だけが決まっていく。
怖かった。
手術が失敗することではなく。
手術が成功することが。
私はその日が近づく度に思う。
いっその事、あの日に戻れたら。
最後に春人と一緒に帰った日。
「また学校来ればいいじゃん」
そう言ってくれた春人の隣に。
私は病気になった自分自身を恨んだ。
春人でもなく、医師でもなく、病院でもない。
私自身を。
---
嫌な事ほど早く来る。昔からそんな気がしていた。
本当は違うかもしれない。
時間が早く進むんじゃなく、恐怖の方が先に待っているだけなのだから。
逃げ続けていたものに。
時間が追いつく。
気付けば私は手術台の上にいた。
麻酔を注入されると同時に、視界が真っ暗になった。
---
一瞬の出来事だったように思えた。
誰かの声が聴こえた。
次の瞬間には胸が痛んだ。
切り開かれた場所とその奥が痛んだ。
ああ。成功してしまったんだ。
私が目覚めるって事は、手術は成功したんだ。
それなのに、少しも嬉しくなかった。
目を開けると、白い天井だった。
見慣れている様で、初めてな感覚があった。
「春人」
私は唇を動かした。
声にならなかった。
誰かが何かを言った気がする。
眠かった。
私は数秒前に開いた瞼を再び閉じる。
---
気付くと春人が目の前にいた。
「そこで何をしているの。」
私は尋ねた。
「紅葉を見に行きたかったんだ。君と二人で。」
春人は答えた。
「行きたかったのならそう言ってよ。
私は春人のお願いを断ったりなんかしないよ。」
春人が笑った。
「通学路にある彼岸花、もう枯れたね。
僕はあの花が好きだった。」
「どうして?」
「細いけど、倒れないから。
心も身体も細い僕とは違う。」
「私の好きな人をそんな風に言わないでよ。
手術は成功したから、また春人と学校に行けるよ。
また一緒に帰れるよ。」
春人は少し困ったように笑った。
あの時、私を、自分自身を励ました様な笑顔で。
「日記を書いたんだ。
澪が居ない間に、学校で、僕の周りで、何があったかを澪に見てもらうために。」
「そんなの、会って話して伝えればいいじゃない。」
春人はそれ以上喋らなかった。
風が吹く。
真っ白の空間に、どこからか紅葉が舞って来た。
1枚、2枚、3枚。
足元を見る。
いつの間にか彼岸花が咲いていた。
赤かった。
通学路で見るものよりも、赤く、ずっと紅く見えた。
先程話していた春人を見ようと見上げると、そこに春人はいなかった。
ただ、紅葉だけが舞っていた。
手を伸ばすと、紅葉が1枚。
私の手の甲に乗った。
妙な感覚だった。
それは紅葉なのに、暖かくて、それでいて、どこか震えている様子だった。
目を開けると、見知った天井だった。
お母さんがいた。
私の手を握っていた。
その手は震えていた。
泣いていたのかもしれない。
私もだった。
仰向けのまま天井を見ていると、目尻を何かが伝って行った。
それは暖かかった。
---
それからは何を考えていたのか覚えていない。
何をしていたのかも覚えていない。
今日で退院だから。
外の木は桃色だった。
アスファルトの硬さが懐かしかった。
散った花弁を私は、踏まないように歩いた。
思い出の中の陽光は紅かった。
けれど今日の陽光は白く、光の糸を反射させて、私はお母さんの隣に座って、その光の向こうへ向かうように家へと向かった。
校門も。
グラウンドも。
見慣れたはずなのに、どこか懐かしかった。
自然と春人のことを思い出す。
初めて会ったのは幼稚園の入園式だった。
あの日も桜が舞っていた。
あれから十五年が経つ。
母とは十八年間、一緒に生きてきた。
喧嘩もたくさんした。
けれど春人とは一度もなかった。
春人の方が大人だったのかもしれない。
あるいは、怒るのが上手だったのかもしれない。
怒ってもそれを私に感じさせなかったから。
そんなことを考えているうちに家へ着いた。
自分の部屋へ入る。
けれど、どこか他人の部屋のようだった。
数ヶ月しかいなかったはずなのに、
病室の方が自分の居場所に思えた。
日が暮れた。
母の作った夕飯が並ぶ。
私は箸を取った。
病院食に慣れてしまったせいだろうか。
母の料理はいつもより塩辛く感じた。
否。
その塩気は私の目から溢れていた。
---
布団に入ると、やはり自分の部屋だと自覚した。
どこか落ち着くこの部屋。
それは眠気が私をすぐに包んだ。
再び、春人が私の前に現れた。
「おかえり。
もう3年に進級だね。
町中の大学に行くって言ってたよね。」
春人が言った。
少し春人の背が伸びたように感じた。
「うん。前まではね。
でも、私。この場所を離れるのが少し怖い。」
春人が笑う。
「そっか。
でも、澪は怖いものを乗り越える才能があるよ。
僕は手術なんて、怖くてダメだったな。」
「なら、どうしてドナーなんかになったの?」
春人はまたそれ以上を口にしなかった。
目が覚めた。
まだ外は暗かった。
二度寝をした。
春人は出てこなかった。
代わりに草原があった。
山の中腹当たりだったと思う。
風が吹いていた。
桜が舞っている。
足元にはシロツメクサが一面に広がっていた。
どこかで見たことのある感じがした。
私はその中で寝転んだ。
どこか暖かくて心地が良かったから。
おでこに桜の花弁が乗った。
すぐに風で飛んで行った。
春人が私のおでこにキスをしたみたいだった。
昔から、そういうことをする人じゃなかったのに。
私はそっと額に触れた。
もちろん誰もいない。
顔が熱くなったのが分かる。
恥ずかしくて横向きに丸まった。
不思議と風が止んだ。
そよ風の音が聞こえなくなる。
心臓の音だけが草原に響くようだった。
この鼓動は誰のものなんだろう。
この鼓動は誰のものなんだろう。
私の鼓動なのか。
それとも春人の鼓動なのか。
分からなかった。
けれど、一つだけ分かることがあった。
春人は私を想っていた。
それだけは疑えなかった。
私も同じだった。
おでこに残る温もりを思い出す。
嫌ではなかった。
むしろ、嬉しかった。
こうして春人と一つになれることが。
何よりも。
---
再び目が覚める。
私の腕は、掛け布団を丸めて抱いていた。
それは掛け布団じゃなかったのかもしれない。
鼓動が聞こえる。
静かな部屋だった。
そこで私は春人の言葉を思い出した。
「日記を書いたんだ。」
日記。
私は身支度を整えた。
鼓動が一つ鳴った。
私は春人の家へ向かった。
---
出迎えたのは、春人のお母さんだった。
前よりも痩せていた。
私を見るなり、笑顔でこう言った。
「澪ちゃん、おかえりなさい。
春人がずっと待ってるよ。」
その言葉に胸が詰まった。
近所の人の「おかえりなさい」は、いつも何て返せば良いか分からない。
でも今日は違った。
「ただいま。」
そう言ってから、私は続けた。
「私、春人の日記を見なきゃ。」
家に上がると、春人の沢山の荷物が綺麗にまとめられていた。
引越しの準備みたいだった。
不思議と涙は出なかった。
春人の部屋には入った事は無いけれど、何故か春人の部屋の場所が体感で分かった。
階段を登って、右側の部屋。
いつも身体がそう動いているかのようだった。
迷いなく扉を開ける。
勉強机とベッドしか無かった。
けれど、春人の部屋は荷物で散らかっていた。
勉強机の上にノートがある。
『7427』
表紙にはそう書かれていた。
---
7427。
何の数字だろうか。
この数字は何を意味するのだろうか。
私は恐る恐るページをめくる。
[今日は金曜日。
澪が入院するらしい。
明日か明後日の紅葉、二人で見に行きたかった。
でも来年また、見れるよね。
気にすることなんかない。
だって澪には僕がいるから。
また一緒に学校に行く。]
恐らくあの日、家に帰ってからすぐに書いたであろう記録はこれほどポジティブだった。
しかし
3行程空けてこう書かれている。
[澪がいない。
食事も喉を通らないのに嘔吐した。
■かった。紅葉という■り、彼■花みたいに。頭■が酷■。
■の■■■■■って、なん■ろう]
少しずつ文字は乱れていた。
同じ人が書いたとは思えなかった。
それでも私は目を逸らせなかった。
ページをめくる。
[一睡も出来なかった。
いつも来る澪が朝来なかった。寂しい。
どうして来ないのか。
分かっている。
でも受け入れられない。
学校に行った。
誰もいなかった。
どうやら日曜日だったらしい。
気を紛らわせる為に学校までの歩数を数えてみた。
7427歩だった。
ダラダラと歩いたからいつもより数が多いかもしれない。
澪と二人で歩いていると、そんなに歩いている感じがしなかったから。
にしても土曜■はど■に行ってしまったのだろう。]
私は表紙の数字の意味を理解した。
それは私が居なくなった日の学校までの歩数だった。
春人の方が背が高くて、歩幅も大きい。
だから本当なら、私と歩く時の方が歩数は多い。
それなのに7427歩だった。
春人は歩数を数えていたんじゃない。
私が隣にいない1歩を1つづつ数えていたんだ。
次のページに移る。
[日曜日の昼頃に寝た。
起きてスマートフォンを見ると、火曜日の夕方だった。
月曜日もどこかへ行ってしまった。
澪もどこかへ行って、土曜も月曜もどこかへ行った。
いっその事、
僕がどこかへ行っても、
誰も気付かないんじゃないかなんて思った。
澪の見舞いに走った。]
あぁ。春人はやっぱり見舞いに行こうとしてたんだ。
来なかったんじゃない。
来られなかったんだ。
ページに昨晩の味が1滴落ちる。
それなのに笑顔が込み上げてくる。
どうしてだろう。
嬉しかった。
春人が私を想ってくれていた事が。
苦しくなった。
春人を少しでも疑っていた事が。
半年分の誤解を、私はどう彼に謝ればいいだろうか。
罪悪感と喜びが同時に押し寄せ、その場にうづくまる。
壁にかかった時計が音を立てている。
鼓動も不思議と、それに重なった。
時を刻む音なのか。
私の”生”を刻む音なのか。
私にはもう分からなかった。
また夢で会えるよね。
そんな確信があった。
私はページをめくった。
[■うやらボクは■院で■れたらし■。
■の病■だと■われ■。
澪。僕は■うし■ら■いんだ■う
いつ■も■を忘れ■ことな■か■いのに。
いまは■れてしまう。
こわい。]
忘れる事への恐怖が、そこに綴られていた。
人は毎日何かを忘れている。
先週の晩御飯も。
先月の天気も。
忘れても、人は生きていける。
怖いのは、忘れたくないものを忘れることだ。
だから春人は怖かった。
私にはその気持ちが分かった。
私も入院していて、春人の顔を忘れそうになった。
それが怖くて、毎日思い出しては泣いていた。
だって、春人の顔を忘れてしまったら、春人がお見舞いに来ても分からなくなってしまう。
それは嫌だった。
次のページをめくった。
文字はなかった。
代わりに絵が描かれていた。
ミミズが這うような線だった。
それなのに。
私は美術館のどんな絵よりも綺麗だと思った。
それは一輪の彼岸花の絵だった。
花は黒み掛かった赤で塗られ、茎は黄色に近い緑で塗られていた。
その茎の下に、紅葉の落ち葉が1枚だけ描かれていた。
見覚えのある色だった。
あの日の夕日の色だった。
グチャグチャな線が、更にグチャグチャに見えるようになった。
その絵を雫で崩さないように、急いで再びページをめくる。
見開き1面に4文字が書いてあった。
[ごめんね]
これもグチャグチャな線で書かれていた。
けれど。
私は読めた。
どんな綺麗な文字よりも。
どんなに長い手紙よりも。
春人が伝えたかった事だけは。
私に伝わった。
私は春人の部屋を出て、1階に降りた。
春人のお母さんが言った。
「澪ちゃん。半年間もうちの息子が振り回してごめんなさいね。
これから墓参りに行くけど来るかい?
月命日なんだよ。」
私は首を横に振ってこう返す。
「お母さん。
謝る必要なんか無いですよ。」
私は笑顔を見せて言う。
泣きそうだった。
でも笑った。
少し考えてから続けて答える。
「行きます。
それに、春人に会いに行きたいんです。
命の恩人の墓参りを、断る理由なんてありません。」
---
墓の前に立って手を合わせる。
墓石には桜の花弁が落ちている。
それを柄杓でかけた水が押し出す。
風が吹き、桜の木が揺れる。
散った花弁が、再びおでこについた。
目を閉じた。
誰かが笑った。
私だったかもしれない。
あとがき
人は忘れる生き物です。
だからこそ、忘れたくないと思います。
忘れること自体は怖くありません。
怖いのは、大切なものを忘れてしまうことです。
『糸遊』は、そんな恐怖から生まれた物語でした。
けれど書き終えて思うのは、人は案外忘れないのかもしれないということです。
名前を忘れても。
顔を忘れても。
声を忘れても。
その人が残したものは、自分の中で生き続ける。
春人と澪がそうだったように。
誰かが笑った。
それは澪だったのかもしれません。
春人だったのかもしれません。
あるいは、二人だったのかもしれません。
『糸遊』 作者




