第1話 絶望と理不尽の建国記念パーティー
王都の中心にそびえ立つ王城。その最も奥深く、限られた者しか立ち入ることを許されない「祈りの間」で、私は今日も冷たい石の床に膝をついていた。
私、セリア・ヴァンガードは、この国の「聖女」だ。
初代聖女の直系血統として生まれた私は、王都全体、ひいては国土の主要部を覆う大結界を維持するため、物心ついた頃からこの部屋で祈りを捧げ続けてきた。大結界は、凶悪な魔獣の侵入を防ぎ、人々の平和な暮らしを守るための絶対的な防壁である。
だが、その維持に必要な魔力は莫大だった。私の体から絶え間なく魔力が吸い上げられ、文字通り命を削るような苦痛が常に全身を苛んでいる。
(今日も、なんとか持ち堪えた……)
ふらつく体を両腕で支え、荒い息を吐き出す。睡眠時間はここ数年、一日二、三時間にも満たない。食事も魔力回復のポーションを流し込むだけで、まともな食事をいつ取ったのかすら思い出せなかった。
鏡を見るまでもなく、自分の姿が酷い有様であることは分かっている。かつては艶やかだった金糸の髪はパサパサに干からび、肌は青白くカサついている。目の下には濃い隈が張り付き、二十歳という年齢には不釣り合いなほど、生気を失った老婆のような姿になっていた。
すべては、愛する国のため、そして婚約者である第一王子レオン様のため。彼が立派な王としてこの国を治める時、私が完璧な結界で彼を支えるのだと、そう信じて疑わなかった。
「聖女様、お時間です。建国記念パーティーの準備を」
無機質な声で神官が告げる。
そうだ、今日は一年に一度の建国記念パーティー。王族や高位貴族が一堂に会する重要な行事であり、第一王子の婚約者である私には出席の義務があった。
重い体を引きずりながら立ち上がる。足元がおぼつかず、何度か倒れそうになったが、神官は手を貸そうともしなかった。今の私にとって、周囲の冷ややかな態度は日常茶飯事になっていた。
控室で侍女たちに着せられたドレスは、私が選んだものではなく、実家であるヴァンガード公爵家から送られてきた地味で古めかしいデザインのものだった。
「公爵様からのご指示です。セリア様にはこれくらいが身の丈に合っていると」
侍女の言葉に、胸の奥がチクリと痛む。実の両親でさえ、私を「公爵家の誇り」ではなく「不器量で可愛げのない魔力タンク」としてしか見ていないことは、とうの昔に気づいていた。
それでも、私が耐えればいいのだと言い聞かせた。私が我慢すれば、国は平和で、誰もが笑顔でいられる。私の善意と忍耐が、いつか報われる日が来ると信じていた。
重い扉が開き、パーティー会場である大広間に足を踏み入れる。
シャンデリアの眩い光、色とりどりのドレス、優雅な音楽。私とは完全に切り離された別世界がそこには広がっていた。
私が姿を現した途端、ざわめきが波のように広がっていく。
「あれが聖女様? まるで幽霊みたいじゃないか」
「レオン王子殿下の婚約者とは、とても思えませんわね。不気味ですこと」
「本当に聖女としての力があるのかしら。ただ結界の間に引きこもっているだけと噂ですわよ」
ひそひそとした嘲笑と冷たい視線が、無数の針となって私の肌を刺す。俯き加減で壁際へ向かい、ただ時間が過ぎるのを待とうとした。
その時、会場の入り口がひと際大きく開き、華やかなファンファーレが鳴り響いた。
「第一王子、レオン・アルジェント殿下のお成りです!」
広間の中央に歩み出てきたのは、金髪を輝かせ、自信に満ちた笑みを浮かべる私の婚約者、レオン様だった。
しかし、彼の腕に寄り添っていたのは私ではない。
可憐なピンク色のドレスに身を包み、ふんわりとした桃色の髪を揺らす美しい少女。最近、レオン様が熱心に寵愛していると噂の平民出身の令嬢、ミアだった。
「なんと美しい……」
「まるで本物の妖精のようだ」
「レオン殿下の隣には、あのような可憐な方こそふさわしい」
先ほど私に向けられていたものとは打って変わって、会場中はミアへの称賛と羨望の溜息で満たされた。ミアは恥じらうように頬を染め、レオン様の胸にそっと顔をうずめる。その仕草のすべてが計算されたように完璧で、男たちの視線を釘付けにしていた。
私の胸の奥で、冷たい風が吹き抜けた。婚約者である私がここにいるというのに、堂々と別の女性をエスコートして現れる。それは、私に対する明確な侮辱であり、拒絶だった。
それでも、私は動けなかった。ここで私が騒ぎ立てれば、国を支える大結界の要である「聖女」の権威が揺らぎ、人々の不安を煽ってしまう。ぐっと唇を噛み締め、痛みに耐えるようにその場に立ち尽くすしかなかった。
だが、事態は私の想像を遥かに超える最悪の方向へと転がっていった。
レオン様は会場の中央で立ち止まると、鋭い視線を真っ直ぐに私へと向けた。その瞳には、かつて私に向けてくれた温かな光は微塵もなく、ただ汚物を見るような嫌悪だけが宿っていた。
「セリア・ヴァンガード! 前に出ろ!」
広間に響き渡る怒声。音楽が止まり、ざわめきがピタリとやんだ。全員の視線が私に集中する。
私は震える足に鞭打ち、よろけながらも広間の中央へと歩み出た。
「レオン、様……? いかが、なさいましたか……?」
掠れた声で問いかける私を見下ろし、レオン様は冷酷な笑みを浮かべた。
「しらばっくれるな、この悪女め! お前の罪はすでに明白だ! 私は今この場をもって、貴様との婚約を破棄する!」
婚約、破棄。
その言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。
「……え?」
「聞こえなかったのか? 貴様のような陰湿で醜い女は、次期王妃にふさわしくないと言っているんだ!」
レオン様はミアの肩を抱き寄せ、庇うように私の前に立ちはだかった。
「お前は、私がミアを愛していることに嫉妬し、この可憐で心優しいミアに数々の嫌がらせを行った! ミアのドレスを切り裂き、階段から突き落とそうとし、あろうことか彼女の食事に毒まで盛ったな!」
「なっ……!?」
息を呑んだ。身に覚えがないどころの騒ぎではない。私は毎日毎日、結界の間で祈りを捧げるだけで精一杯で、他の誰かと関わる余裕など一秒たりともなかった。ミアという少女と直接言葉を交わしたことすら、ただの一度もないのだ。
「違います! 私はずっと結界の間におりました! 誰かに嫌がらせをする時間など……!」
「黙れ! まだ言い逃れをする気か!」
レオン様は私の言葉を怒鳴り声で遮った。
「証拠は上がっているのだ! お前の侍女が、お前の指示で毒を盛ったと自白したぞ!」
「そんな……」
侍女が? なぜそんな嘘を?
混乱する私の視線の先で、ミアがレオン様の胸にしがみつき、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
「レオン様……怖い、怖いです……。セリア様は、私のような平民がレオン様のそばにいるのが許せなかったのですね……。私の命などどうなってもいいですが、レオン様にご迷惑をおかけするのは……」
「泣かないでくれ、ミア。君は何も悪くない。悪いのは、聖女の地位にあぐらをかき、裏で汚い真似を繰り返すこの毒婦だ!」
レオン様はミアの頭を優しく撫でると、再び私に向かって憎悪の眼差しを向けた。
「その醜い見た目だけでも不快だったというのに、心根まで腐りきっていたとはな。貴様が維持しているという結界も、最近は魔獣の侵入を許していると報告が上がっている。どうせサボっているのだろう!」
「違います……! 私は、命を削って……」
「言い訳など聞きたくない! もう貴様のような役立たずの偽聖女は不要だ! この国には、本物の優しさと清らかな心を持つ、ミアという新たな聖女がいるのだからな!」
レオン様の宣言に、会場がどよめいた。ミアが新しい聖女? そんな馬鹿な。聖女の力は初代から受け継がれる特別な血統と、厳しい修練によってのみ発現するものだ。平民の少女が突然聖女になるなど、あり得ない。
だが、周囲の貴族たちは狂ったようにレオン様の言葉に賛同し始めた。
「そうだ! あの陰気な女より、ミア様の方がずっと聖女にふさわしい!」
「偽聖女を追放しろ!」
「ミア様万歳! レオン殿下万歳!」
異常な熱狂。まるで何かに操られているかのように、全員の目がギラギラと血走っている。私はその異様な光景に肌寒さを覚えた。
その時、私にとって決定的な絶望が訪れた。
「殿下の仰る通りだ。我がヴァンガード家は、このような恥知らずな娘を産み落としたことを深くお詫び申し上げる」
群衆を掻き分けて前に進み出てきたのは、私の実の父親であるヴァンガード公爵だった。その後ろには、母と兄の姿もある。
「お、お父様……?」
助けてくれると信じたわけではない。だが、せめて事情を聞いてくれるのではないかと、一縷の望みを抱いた私の心は、父の氷のような一瞥によって無残に打ち砕かれた。
「気安く呼ぶな、この罪人め。我が公爵家は、今この瞬間をもってセリアを勘当する。家名も剥奪だ。もはや貴様は我々とは何の関係もないただの平民、いや、それ以下の犯罪者だ」
「そんな……お母様、お兄様……!」
すがるように視線を向けるが、母は扇で口元を隠しながら「汚らわしい」と顔を背け、兄は「さっさと消えろ、この家の面汚しが」と冷酷に吐き捨てた。
誰一人、私の言葉に耳を傾けない。
誰一人、私のこれまでの献身を見ていなかった。
私が血を吐く思いで命を削り、彼らが安らかに眠れるよう結界を張り続けてきた十年間は、彼らにとっては何の価値もないものだったのだ。
ミアが、レオン様の腕の中から私を見下ろし、ふと唇の端を歪めて嗤った。
(ええ、無様なものね。お前の居場所なんて、もうどこにもないのよ)
声には出さずとも、その邪悪な笑みがそう語っていた。その瞬間、私は直感した。この女は、ただの平民ではない。もっと恐ろしく、悍ましい何かだ。だが、魔力枯渇で霞む私の目では、その正体を暴くことはできなかった。
「衛兵! この女を直ちに王都から追放しろ! 二度とこの国の土を踏ませるな!」
レオン様の無情な命令が下された。
屈強な衛兵たちが左右から私を拘束し、乱暴に床を引きずっていく。
「やめて……離して……!」
抵抗する力など残っていなかった。連日の魔力放出で限界を迎えていた私の体は、これ以上の苦痛に耐えきれず、感覚が麻痺し始めていた。
広間の扉が閉まる直前、私の目に最後に映ったのは、満面の笑みでミアの腰を抱くレオン様と、私を嘲笑う家族、そして狂乱する貴族たちの姿だった。
冷たい雨が、容赦なく私の体を打ち据えていた。
王城から引きずり出され、王都の裏路地に放り出された私は、泥水の中に倒れ伏したまま動けずにいた。
「あ、あぁ……」
喉から漏れるのは、掠れた呻き声だけ。
薄暗い路地裏は酷く冷たく、薄いドレス一枚の体から急速に体温を奪っていく。
全身の骨が軋むように痛む。魔力が枯渇した体は限界を超え、心臓の鼓動が不規則に乱れていた。
(私は……ここで死ぬの……?)
頭の奥が麻痺したようにぼんやりとする中で、ただ一つの感情だけがどす黒く渦巻いていた。
それは、悲しみでも絶望でもない。
明確な「殺意」だった。
私の人生を搾取し尽くし、最後にはゴミのように捨てたあの男。
私の居場所を奪い、嗤ったあの女。
私を道具として扱い、あっさりと切り捨てた家族。
真実を見ようともせず、私を嘲笑った愚かな貴族たち。
(許さない……絶対に……)
泥を握りしめ、爪が手のひらに食い込んで血が滲む。
彼らを許してはならない。私の奪われた十年間と、削られた命。その代償を、必ず払わせなければならない。
たとえ魂を悪魔に売り渡してでも、あいつらを奈落の底へ突き落としてやる。
だが、現実は残酷だ。今の私には指一本動かす力もなく、冷たい雨に打たれながら静かに死を待つことしかできなかった。
視界が暗転し、意識が深い闇へと沈んでいく。
(誰か……私に、あいつらを殺す力を……)
最後の願いが途切れそうになったその時。
背後に、ふわりと温かい気配が降り立った。
雨粒が私の体に当たるのを遮るように、巨大な影が私を覆い隠す。
「――やっと、見つけた」
低く、甘く、それでいて背筋が凍るほどの圧倒的な覇気を孕んだ声が耳元に落ちた。
重い瞼を微かに開けると、そこには闇夜の中で燃えるような深紅の瞳が私を見下ろしていた。
濡れた漆黒の髪。隙のない完璧な美貌。そして、全身から溢れ出す底知れない魔力の波動。
「こんなところで死なせるわけがないだろう。君は、私のものだ」
その男は、狂気じみた歓喜を孕んだ笑みを浮かべ、泥に塗れた私の体を、まるで壊れやすい宝物を扱うように優しく抱き上げた。
男の胸から伝わる規格外の魔力の温もりに包まれ、私の意識は完全に途切れた。
それが、私を地獄から引きずり上げ、あの愚か者たちへの復讐を共になすこととなる隣国の覇王――竜帝ルファス・ドラグニルとの出会いだった。




