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月下茶楼、まずは一服 巫女咲月と点心職人の恋帳  作者: 乾為天女


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第9話 仁愛の屋台、恋の指南書?

 夏の昼は、容赦がない。稲荷社の石段が白く照り返し、参道の砂利さえ熱を持っている。社務所の戸を開けただけで、咲月の額に汗が浮いた。


 今日は札の整理を終えたら、井戸端の水桶を替えて、町内会の回覧板を届ける。やることを先に並べておけば、途中で余計な用事に捕まらない――はずだった。


 「咲月ー、これ見てー」


 境内の外、参道の角で、娘たちの声が弾んでいる。咲月が覗くと、屋台の仁愛が、いつもより妙に真面目な顔で小袋を並べていた。白い布の上に、紐で縛った紙包みが十や二十。札でも守りでもない。香りが、ふわ、と鼻に入る。


 「……仁愛。何、売ってるの」

 「恋に効く香辛料。って書いてあるだろ」

 仁愛は屋台の板に貼った札を指で叩いた。達筆でもないのに、妙に自信満々だ。


 娘たちが身を寄せる。

 「これ、持ってると好きな人が振り向くの?」

 「祭りの前に渡すといいって聞いた!」

 勝手に話が膨らんでいく。咲月の眉が、勝手に上がった。


 「うちの境内の前で、根拠のないお守りみたいなものを売らないで」

 「お守りじゃない。香辛料。台所の味方」

 仁愛は肩をすくめ、袋を一つ開けて見せた。中身は、黒い粒と、星の形の茶色い欠片。


 「八角と山椒。ほら、変な粉じゃない」

 「変な粉以前に、名前が変」

 「恋って、だいたい変だろ」


 娘たちがくすくす笑う。咲月は柄杓でも持っていれば振り回したのに、と自分の手の空白が悔しかった。


 「売るなら、せめて誤解を招く言い方は……」

 「誤解じゃないよ。香りは、背中を押す」

 仁愛は袋を鼻先で振り、ふっと笑った。

 「咲月だって、知ってるだろ。好きって顔、何回した?」


 咲月の喉が、熱で詰まったみたいになる。咲月は言い返そうとして、言葉がうまく出ない。怒るのは得意なのに、触れられたくない所に指を置かれると、急に舌が重くなる。


 「……余計なお世話」

 「余計なお世話は、屋台の主の得意技」


 娘たちがさらに笑う。咲月は笑いに混ざれない。胸の奥に、梅雨の夜に出てきた髪紐の感触が、ちらりと戻る。迎えに来ると言って消えた背中。あのときも、言いたいことを明日に回した。回したまま、今日が来なくなった。


 そこへ、風が一つ、参道を抜けた。熱い空気の中に、涼しい香りが混じる。振り向くと、蒼生が竹籠を抱えて立っていた。昼の光の中でも、目だけは夜と同じ落ち着きで、屋台の布の上を見ている。


 「売ってるのは……八角と山椒だね」

 「ほら、蒼生さんも言ってる。無害」

 仁愛は勝ち誇ったように笑う。


 蒼生は頷きかけて、そこで止めた。

 「無害かどうかは、言い方次第だ。香り袋は、心を軽くする。でも、誰かを縛る道具になると途端に苦い」

 蒼生の声は柔らかいのに、芯がある。仁愛の笑いが、ほんの少し薄くなった。


 「縛るつもりなんてないさ。ほら、娘たち。これは料理に使うんだ。持ってるだけで何かが変わるっていうより――」

 仁愛は袋を一つ、指で弾いた。

 「変えるのは、自分の口だ」


 娘たちの目が丸くなる。

 「じゃあ、どうしたらいいの?」

 「目を見て、呼吸して、言う。『好き』って。簡単だろ」

 仁愛はさらりと言って、さらりと逃げるように笑う。簡単なことほど、簡単に言える人がいるのが悔しい。


 咲月は屋台の端を指でつまみ上げ、札を剥がそうとした。

 「じゃあ、恋に効くって書かないで」

 「ちょ、待て」

 仁愛が手を伸ばすより先に、蒼生の手が、咲月の手首にそっと触れた。


 熱い日差しの下で、その手だけがひんやりしている気がした。咲月はびくりと肩を震わせ、手首の皮膚が、そこだけ意識を持つ。


 「……怒るのは、あとでもできる」

 蒼生が小さく言う。咲月は「あとでも」と言われた瞬間、胸がむず痒くなる。いつも先に回してきた言葉と、同じ形だからだ。


 「今、止めるなら、別の言い方にしよう」

 「別の言い方?」

 「『今日こそは、口で伝える袋』とか」

 蒼生は真面目な顔で言う。仁愛が噴き出し、娘たちも笑った。


 「それ、売れるかも」

 「売れない。恥ずかしい」

 咲月が即答すると、蒼生の口元が少しだけ上がった。咲月はその変化に気づいてしまい、目を逸らすしかなくなる。


 結局、仁愛は札を書き換えた。

 『香りで落ち着く袋(料理にも使えます)』

 娘たちは「恋って書いてない!」と残念がりつつも、袋を二つ三つ買い、去り際に笑って手を振っていった。


 昼下がり、屋台の前が静かになる。仁愛は売れ残りの袋を手の中で転がし、咲月の横に寄った。


 「さっきのは、言いすぎた」

 「うん」

 咲月は短く返した。否定しないのが、余計に悔しい。


 仁愛は咲月の耳にだけ届く声で言った。

 「泣く前に言え。あの時みたいに、明日に回すな」


 咲月の喉が、きゅ、と縮む。梅雨の宵の泣き声が、また戻りそうになる。咲月は顔を上げ、無理やり息を吸って、熱い空気を飲み込んだ。


 「……私は、泣かない」

 「泣いてもいい。言うのが先」

 仁愛はそれだけ言い、いつもの調子に戻って呼び込みの声を出した。屋台の主の背中が、急に大きく見える。


 夕方、社務所の仕事を終えた咲月は、裏鳥居の方へ向かった。日が沈むと、境内の熱がほどけ、風がようやく肌を撫でる。


 子の刻の少し前。朱塗りの茶楼が、いつものように現れる。咲月は戸を開け、香り袋を一つ、机の端に置いた。


 「それ、買ったの?」

 蒼生が湯気の立つ茶を差し出す。咲月は受け取り、指先を湯呑みに添えた。温かさが、ちゃんとそこにある。


 「……料理に使えるって書いてあったから」

 「嘘じゃないね」

 蒼生が笑う。咲月は、湯気の向こうのその顔を見て、言葉を喉まで運んだ。


 今日のうちに。明日に回さない。

 咲月は息を整え、袋の結び目に指を掛けた。


 「蒼生」

 「うん」

 「……まだ、言い方を探してる。でも、探すのは今日で終わりにする」


 蒼生の目が、驚きではなく、待っていたみたいに細まった。咲月は湯呑みを両手で持ち直し、湯気に紛れそうな声を、わざと前へ出す。


 「だから、明日になっても、逃げない」


 茶楼の灯が、ふっと柔らかく揺れた。ムーンストーンはどこに置いたわけでもないのに、炉の辺りで淡く光った気がした。



 屋台の提灯が揺れ、八角と山椒の匂いが夜風に乗った。咲月は「恋に効く」と書かれた札を引きちぎっては丸め、仁愛の掌へ押し返す。仁愛はそれを受け取りながら、口元だけで笑う。


 「返されるのも、慣れてるよ。……でも、君が怒ると、人が集まる」

 「集まらせるな!」


 蒼生は屋台の端へ回り、客に向けて淡い声で言った。

 「香辛料は腹を温める。恋は……腹を温めても決まらない」

 笑いが起きる。仁愛が肩をすくめ、咲月は思わず湯呑みを持つ手を緩めた。笑いの中で、蒼生だけが咲月を見ている。『逃げない』と言った口が、ほんの少し震えていたのを、彼は見逃さなかった。


 帰り際、仁愛がこっそり小袋を咲月の袖へ滑り込ませた。中身は八角と山椒だけ。けれど紙の端に小さく「泣く前に言え」と書いてある。咲月は破きもせず、袖の中でその紙を握り締めた。


 小袋の角が袖の中で当たり、咲月はそれを「逃げない印」みたいに指で確かめた。



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