第8話 団子と月餅の食べ比べ大騒ぎ
夏の月見の夜、稲荷社の境内は、提灯の火が虫を集め、石畳の上に丸い影を落としていた。甘い醤油の香りと、炒った胡麻の匂いと、どこか花の蜜の気配が混ざる。咲月は社務所の前で札袋を抱え、屋台の並びを見渡した。
右に団子の屋台。串が並び、白い団子が月みたいに艶を帯びている。左に月餅の屋台。木型の文様が光り、餡の香りが湯気に乗る。
どちらも「月」を名乗っているせいで、今夜は声が大きい。
「月見なら団子だろ! 噛んだらもちっと、月まで伸びる!」
「月は丸い! なら月餅だ! 切ったら中から宝が出る!」
客が真ん中で割れ、境内の通り道に人の壁ができる。参拝しに来た老人が立ち止まり、子どもが押されて転びそうになった。
咲月は息を吸い、柄杓を握った。叱りつけて散らすのは簡単だ。だが散らしたところで、また明日同じことになる。
「……今夜で、終わらせる」
咲月は団子屋台の前に立ち、帳面を開いた。串の数、餡の残り、火の具合。手元の情報を先に揃える。目の前の熱に引っ張られないように。
その背後で、乙女が手を叩いた。拍手のように見せて、空気を切り替える合図だ。
「ねえ。二つとも買えばいいのよ」
言い切った瞬間、団子の親父も月餅の若い衆も、そろって黙った。客も一度、呼吸が止まる。静かになった境内で、風鈴がひとつ鳴った。
「……買えば、って」
「買うの。二つ。そうしたら、どっちが負けたって顔しなくて済むでしょう」
乙女は屋台の前の行列を指でなぞり、参拝の道を空けるように立ち位置を変えさせた。言葉より先に身体が動く。咲月は思わず帳面の端で丸を描いた。
だが、次の問題は胃袋の数だ。子どもは一つで満足してしまう。二つ買わせたら残る。残ったら揉める。
咲月は唇を噛み、蔵の鍵束を指先で鳴らした。境内の奥、備品蔵。今夜のために用意した米粉と小豆がある。量は足りる。足りないのは手と時間だ。
背後から、湯気に似た匂いが近づいた。桂花の甘さに、焙じた茶の苦みが混ざる。
「咲月、顔が帳面になってる」
蒼生が、いつの間にか社務所の脇に立っていた。袖口に白い粉がついている。すでに蒸籠を扱った跡だ。
「帳面は、役に立つから帳面です」
「うん。役に立つ顔だ」
蒼生はさらりと言って、咲月の視線の先――団子と月餅の屋台――を一度で理解したように、顎を上げた。
「餡を練る速度が遅い。そこが詰まってる」
蒼生は、境内の端に置かれた臼を指した。団子用の臼だ。今夜は餡の練りもここでやっているらしく、杵が順番待ちのように立てかけられている。
蒼生は袖をまくり、竹を一本抜いた。竹の端を削り、臼の縁にかけ、紐を回す。あっという間に、何かの仕掛けができていく。咲月は目を瞬かせた。
「……それ、何を」
「手を増やす。道具で」
蒼生は紐を引き、臼の内側に当てた板が回るようにした。餡が均一に練れる。理屈は分かる。だが――。
次の瞬間、臼が「んごん」と低く唸り、勝手に回り始めた。板が勢いを増し、餡が跳ね、臼の縁から白い粉が舞う。臼そのものが、石畳の上をじり、と動いた。
「うわっ」
誰かが叫び、客が後ずさる。臼は逃げるように、提灯の列へ向かった。
「止めて! 提灯にぶつかる!」
咲月が飛び出すより早く、仁愛が屋台の横から滑り込んだ。両手に串を持ったまま、器用に臼の前へ回り込む。
「おーっと、月見名物、踊る臼!」
「名物にするな!」
咲月が柄杓を振り上げると、仁愛は肩をすくめて臼へ体当たりした。だが臼は重い。びくともしない。むしろ仁愛が押し返され、団子の串が宙を舞いそうになった。
咲月は足を踏ん張り、臼の側面に手を当てた。冷たい石の感触が掌に刺さる。臼が回るたび、指先が震える。歯を食いしばった瞬間、もう一つの手が重なった。
蒼生だ。袖の粉が咲月の手首に白く移る。蒼生は息を合わせるように、短く言った。
「三つ数えたら、逆へ」
「……一、二、三っ」
二人の力が揃うと、臼の進む向きが変わった。だが回転は止まらない。臼はその場でぐるぐると回り、餡が飛び、誰かの額に豆が貼りついた。
子どもが笑い、老人が思わず笑い、団子の親父が「うちの臼だぞ!」と叫んだ。月餅の若い衆が「うちの客が豆まみれだ!」と返した。
乙女がすかさず声を張った。
「豆が付いた人は、月餅を一口もらいなさい! 団子の親父さん、拭く布はこっち!」
言われた通りに手が動く。揉める暇が消える。咲月は息を吐き、臼を押さえながら乙女を見た。乙女は眉ひとつ動かさず、次の段取りを切っている。
蒼生が臼の紐を噛み切るように手で止めた。勢いが弱まり、ようやく回転が落ちる。臼が静まった瞬間、境内に拍手が起きた。誰が始めたのか分からない。笑いながらの拍手だ。
咲月は手の甲で額の汗を拭いた。豆餡の甘さが鼻先に残っている。隣で蒼生が、咲月の手首についた粉を指で払った。指が触れたところだけ、熱が残る。
「……君、怪我してない?」
「臼に勝てるほど柔じゃありません」
「勝ててない顔」
蒼生が口元だけで笑った。咲月は柄杓で小さく蒼生の袖を叩いた。粉が舞い、二人の間に白い霧ができる。
「さて。臼は暴れた。餡はできた。次は売り方だね」
蒼生が言うと、咲月は帳面を開いた。今夜の目的は、喧嘩を止めることじゃない。参拝の道を守り、皆が腹を満たして帰ることだ。
咲月は団子屋台へ向き直り、串の列を指差した。
「団子の餡、月餅の餡、両方あります。……なら、挟みます」
「挟む?」
「団子に、月餅の餡を。月餅に、団子の餡を。片方だけ買う理由が消えます」
団子の親父が一瞬眉をしかめ、月餅の若い衆が口を開けた。次の瞬間、仁愛が腹を抱えて笑った。
「おお、喧嘩してた二人が、口の中で握手するやつ!」
「変な言い方をするな」
咲月が柄杓を振ると、仁愛はひらりと避けて、客を呼び込む声だけはよく通した。
「今夜だけ! 月の折衷菓子! 口に入れたら、どっちの勝ちでもいいやつ!」
蒼生は臼の残った熱で餡を柔らかくし、乙女は紙包みを整え、団子の親父は串を焼き、月餅の若い衆は木型を叩く。手が互いに邪魔をしない。さっきまでの刺々しさが、湯気に溶けていく。
最初の一つを、咲月が受け取った。団子に、月餅の餡が挟まっている。表面に胡麻が散り、月光を拾ってきらりとした。
咲月は口に運び、噛んだ。もちっと伸びるのに、餡はほろりと崩れて香りが広がる。咲月の喉が、知らないうちにほどけた。
「……うまい」
小さな声だったのに、蒼生は聞き逃さなかった。蒼生は頷き、咲月の横顔を見たまま、いつもの調子で言う。
「君が喜んでくれるなら、香りは混ぜてもいい」
咲月はむせかけて、咳払いで誤魔化した。頬が熱い。
行列の先で、子どもが紙包みを開き、目を丸くした。団子を一口。次に月餅を一口。両手で持ち替え、真ん中で笑った。
「二つとも、好き!」
その声が、境内のどこよりも明るかった。
咲月は、柄杓の柄を強く握った。胸の奥が、じわ、と温くなる。ひとつしか選べない夜が、今まで何度もあった。選んだあと、見送った背中が、何度も残った。
でも今夜は違う。甘い湯気の向こうで、二つの味が並んで笑っている。
咲月が目元を押さえると、蒼生が肩を寄せた。寄せるだけで、何も言わない。咲月は小さく息を吐き、泣き声になりそうなものを飲み込んだ。
「……売り切れたら、明日の仕込みも帳面につけます」
「うん。今日のうちに」
蒼生が短く返す。咲月は頷き、境内の真ん中へ戻った。提灯の影は丸く揺れ、月は雲の薄い布越しに、二つの屋台を同じ光で照らしていた。




