第7話 ムーンストーン、湯気の中で光る
雨は、昼のうちからしつこく降っていた。社務所の軒先に下げた風鈴は鳴る暇もなく、水の重さで黙り込む。咲月は濡れた札を並べ終えると、火鉢の灰を均し、濡れた箒を立てかけた。
今日は、もう“増やす”用事は作らない。そう決めたはずなのに、裏鳥居の方から、あの甘い香りが、薄く漂ってくる。
桂花の匂いに、鉄瓶の湯気。雨の匂いに混じると、夜が少しだけ明るくなる。
咲月は札袋を肩に掛け、提灯を一本だけ持って、裏鳥居へ向かった。
石段は濡れて滑る。足を踏み外せば、明日の青あざが増える。咲月は自分に言い聞かせるように、小さく息を吐いた。
裏鳥居の先には、朱塗りの柱が今日も立っていた。灯りは柔らかく、雨粒が柱を伝っても消えない。
咲月は戸に手をかける前に、掌を見た。布で包んだはずのムーンストーンが、布越しに青白く脈打っている。まるで、「早く」と急かすように。
戸を開けた瞬間、湯気が顔にまとわりついた。
「……あつ」
思わず片目をつむると、笑い声ではなく、湯の沸く低い音が返ってきた。
蒼生が、炉の前で鉄瓶を持ち上げていた。いつもは落ち着いて見える横顔が、今夜は少しだけ硬い。湯気の向こうで、眉が寄っている。
「来たね」
「……“通りがかり”じゃないって、言ったのに」
「だから来た。ちゃんと」
その返しが、約束の形をしていて、咲月は目を逸らした。逸らした先で、壁が淡く光っていることに気づく。
茶楼の壁に掛けられた絵が、滲んでいた。墨の線がほどけ、灯の色が流れ込んでいる。絵の中の空が、ゆっくりと動いた。
咲月の布包みが、熱を帯びたように脈打った。
「……え」
布をほどくと、ムーンストーンが掌の上で強く光り始めた。青白い光が、湯気を切って伸び、壁へ当たる。すると壁一面に、見たことのない街並みが浮かび上がった。
高い城壁。細い路地。赤い提灯のような灯が、幾つも連なっている。どれも揺れて、今にも消えそうに瞬く。
湯気の中で、その灯だけが、息をするみたいに弱くなったり強くなったりした。
咲月は言葉を忘れ、口を開けたまま壁を見つめた。
「……これが」
「龍城だ」
蒼生の声は、いつもより低かった。湯気の音に紛れそうなのに、胸に刺さる。
壁の中の城塞街に、霧のような白いものが這い、角を曲がるたび灯がふっと滲んでいく。咲月の背筋が冷えた。雨の寒さではない。
「見せて」
咲月は自分でも驚くほどはっきり言った。逃げたくなる前に、口が動いた。
蒼生は一瞬だけ目を細め、それから黙って頷いた。
咲月は帳面を取り出し、膝の上で開いた。指先が震えそうになるのを、爪で押さえる。
「いつから、こうなるんです。石のせい?」
「石が境目から外れて、灯が薄くなる。霧も濃くなる。腹を壊す奴も出る」
「……第2話の子どもたちの腹痛は、それも混じってた?」
「うん。君が井戸の水を疑ったのも正しい。でも、こっちの揺れも、乗った」
咲月は筆を走らせた。原因が一つじゃないと分かると、頭の中の霧が薄くなる。咲月の得意なところだ。
だが、次の問いを書こうとして、筆が止まった。
「戻せば、治る?」
「戻せば、封は安定する。茶楼も、本来の場所へ戻る」
「……その“本来の場所”って」
「稲荷社の裏鳥居と、龍城の門の“間”。霞の路の途中だ」
咲月は壁の灯を見た。ふっと一つ、消えた気がして、喉が鳴った。
「戻すってことは……蒼生さんも」
言いかけた瞬間、咲月は笑おうとした。いつもの癖だ。重いものを軽いふりで包めば、手から零れないと思っている。
「……じゃあ、仕事は期限付きですね。社務所の帳簿みたいに」
自分でも雑な冗談だと分かった。湯気の中で、声だけが空回りする。
蒼生が、鉄瓶を炉に戻した。置いた音が、いつもより硬い。
「怖いなら、笑うな」
短い言葉が、湯気を切った。
咲月の喉が、きゅ、と縮む。図星だ。笑えば、悲しくないふりができる。見送ることも、終わらせることも、明日へ押しやれる。
咲月は帳面を握り直し、視線を蒼生に戻した。
「……怖いです。けど、見せてって言ったのは、私です」
「うん」
蒼生は少しだけ息を吐き、棚の奥から二つの器を出した。片方は和の湯呑み、片方は薄い磁器の杯。どちらも、同じ茶の色を受け止める形をしている。
「飲める? 喉が詰まると、言葉が遅れる」
「……遅れたくない」
咲月がそう言うと、蒼生は微かに笑った。さっきの硬さが、ほんの少しだけほどけた。
茶が注がれる。湯気が立ち、ムーンストーンの光がその中で揺れる。壁の龍城も、光に合わせて脈打った。
咲月は湯呑みを両手で包み、熱で指先を起こす。
「いつまでに、戻さないといけない」
咲月の声は震えたが、言い切った。
蒼生は、目を伏せずに答えた。
「秋祭りの満月の夜まで。あの夜が、境目が一番薄い。そこを逃すと、門が閉じる」
「……閉じるって」
「龍城の灯が持たなくなる。君の町も、霧が濃くなる。茶楼も、ここにずれたまま、歪む」
咲月は帳面に「秋祭り/満月」と大きく書き、下に線を引いた。線を引くと、期限が形になる。形になれば、手を伸ばせる。
けれど、形になった瞬間、別の形も見えてしまう。
“見送る”という形。
咲月は湯呑みの縁を見つめた。白い湯気が、上へ消える。消え方が、昨日の涙みたいで、胸が痛い。
咲月は、また笑いそうになるのを、舌で押し止めた。
「……蒼生さん。あなたは、戻りたいんですか」
問いは、咲月の喉の奥から絞り出された。帳面の文字より、ずっと重い。
蒼生は答えを急がなかった。代わりに、ムーンストーンへ指先を伸ばし、光の縁をそっと撫でた。触れても熱くないのに、指先が白く照らされる。
「龍城には、俺が帰らなきゃ困る人がいる。茶楼も、俺の仕事だ」
そこで蒼生は言葉を切り、咲月を見た。湯気の中でも目だけがはっきりしている。
「でも、今はここにいる。君が拾ったから。君が……手放せない顔をしたから」
咲月は息を呑んだ。そんな顔、していない。していたら、格好悪い。そう言い返したかったのに、口が開かない。
代わりに、湯呑みの熱が指へ染みた。昨日まで“増やして”誤魔化していた熱とは違う。逃げる前に、触れた熱だ。
壁の龍城の灯が、また一つ、弱く瞬いた。咲月は反射で立ち上がり、袖で壁の湯気を拭こうとした。だが袖が濡れていて、ただ白く曇りが広がるだけだった。
「……だめだ、余計見えない」
咲月が悔しそうに呟くと、蒼生が肩を揺らした。
蒼生は布を一枚渡してきた。布の端に、小さな龍の刺繍がある。
「それ、俺のじゃない。君の手が濡れる」
「……優先順位、おかしい」
「おかしくていい。今は」
咲月は布で壁を拭いた。曇りが晴れ、龍城の路地がもう一度浮かぶ。灯が揺れ、霧が這い、遠くで銅鑼の音みたいな響きがする気がした。
咲月は、布を握ったまま、蒼生の方を向いた。
「……私、段取りは組めます」
咲月は自分に言い聞かせるように言った。強い言葉で、怖さを形にする。
「いつ、どこで、どうやって。霞の路の歩き方も。石の扱いも。あなたが戻る場所のことも。全部、帳面に落として……今日のうちに」
最後の「今日のうちに」で、咲月は自分の胸が跳ねるのを感じた。
蒼生は、湯呑みを置き、咲月の帳面をちらりと見た。
「今日のうちに、ね」
「そう。明日でいいって言わない」
「……偉い」
その一言が、咲月の頬を熱くした。咲月は隠すように咳払いをし、ムーンストーンを布に包み直した。
包む手が、さっきより確かだ。震えは残る。けれど、逃げる震えではない。
咲月は戸口の方へ目をやった。外は雨だ。霧も濃い。けれど、茶楼の灯は消えていない。
「……蒼生さん。秋祭りの満月まで、あなたの灯を、こっちで消させません」
言い切った瞬間、咲月は自分で驚いた。大きな言葉だ。軽口じゃない。笑いで包まない。
蒼生は、湯気の向こうで、静かに息を吐いた。
「頼む」
短い言葉の中に、龍城の灯と、目の前の雨の匂いが、一緒に入っている気がした。
ムーンストーンが、掌の中で、今夜いちばん静かに光った。




