第6話 過ぎ去った恋の記憶、砂糖菓子の味
梅雨の宵、月代の稲荷社は、雨音で息をしていた。社務所の軒先から落ちる雫が、石段を小さく叩き、境内の砂利がしっとりと沈む。咲月は提灯に火を入れ、濡れた札を広げて乾かしながら、落とし物箱を整理していた。
木箱の底に、細い髪紐が一本、絡まっている。淡い藍色。ほつれた端に、結び目の癖が残っている。
指先が、その癖を覚えていた。
咲月は息を止め、髪紐を掌に乗せた。冷たいはずなのに、胸の奥が熱い。境内の砂利を踏む音が、耳の奥で蘇る。雨の音に混じって、あの日の足音だけが、やけに鮮やかになる。
「迎えに来るから」
言葉だけは残して、来なかった人。手紙も、噂も、何も。
咲月は髪紐を箱へ戻す……はずだったのに、指が離れなかった。代わりに、帳面を引き寄せる。誰の落とし物か。何日に見つけたか。拾った場所。書けることを、増やす。増やせば、胸の奥の空白が小さくなる気がした。
筆が、止まった。墨のしずくが紙に滲む。
咲月は慌てて布で押さえたが、手が震えて、滲みは広がった。
「……ああ、もう」
自分に苛立つ声が、雨音に溶けて消える。咲月は立ち上がり、濡れた箒を握り直して境内へ出た。掃けば終わる。拭けば終わる。片づければ、次へ進める。そういうものなら得意だ。
だが、砂利を均すたび、足音が増える。いないはずの足音が、背中のすぐ後ろに並ぶ。
咲月は肩を固くし、鈴の紐を強く握った。ちりん、と鳴らすと、霧の気配が薄くなる。けれど胸の奥の霧は、鈴では散らない。
裏鳥居の方から、灯りが一つ、ふっと増えた。
雨の中でも消えない、柔らかい朱の色。
「今日は早いね」
蒼生の声は、軒下の雨粒みたいに静かだった。咲月は振り向かず、箒で砂利を押し続けた。
「早くないです。雨だから、やることが増えただけ」
「うん。増やしたね」
見透かしたように言われて、咲月は箒の柄をきゅっと握った。
「……何しに来たんですか」
「雨宿り。あと、君の手が震えてた」
咲月は、ようやく蒼生を見た。蒼生は傘を畳み、袖の水を軽く払っている。濡れた髪が額に落ち、それを指で避ける仕草が、やけに落ち着いて見えた。
咲月は反射で言い返す。
「震えてません。……寒いだけです」
「じゃあ、温めよう」
蒼生は社務所へ上がり、火鉢のそばに小皿を置いた。皿の上に、白い砂糖菓子が二つ。薄い殻のようにきらきらして、雨の灯りを拾っている。
咲月は眉を寄せた。
「……飴?」
「噛むと音がする。泣き声より派手だ」
咲月は思わず、息を吹いた。笑いになるはずがないのに、喉の奥が勝手にほどけた。蒼生が肩を揺らし、同じくらい小さく笑う。
その瞬間、胸の奥の堤が、ぴし、と音を立てた。
咲月は慌てて口を押さえた。だが涙は、指の隙間から落ちる。火鉢の灰に一粒、黒い点ができた。
「……やめて。こんなの、私じゃない」
「君だよ。今の君」
蒼生は、湯呑みに温い茶を注いだ。香りは桂花茶じゃない。もっと素直な、麦の香り。咲月はそれを受け取ろうとして、また手が震えた。
湯呑みがかすかに鳴る。その音が、咲月の胸を更に締めつけた。
「……昔ね」
咲月は息を吸い、吐いた。言葉が喉の奥で引っかかる。言えば終わる。終わるのが怖い。いつもの癖で、先へ送ろうとする。
それでも、雨は今夜で、明日じゃない。
「迎えに来るって言われたのに……来なかった。私、待つのが下手で。待ってるって認めるのも嫌で……仕事を増やして、気づかないふりした」
言い終える前に、喉が詰まる。咲月は笑おうとした。けれど蒼生の目が、静かに「笑うな」と言っていた。咲月は笑えず、泣いた。
蒼生は何も言わず、砂糖菓子を一つ、咲月の前へ押した。
「食べて。音、出していい」
「……子どもじゃない」
「子どもでも、大人でも。腹が鳴るのは同じ」
咲月は、負けたように砂糖菓子を摘まんだ。歯でそっと噛む。ぱきん、と小気味いい音がした。思ったより大きい。社務所の外で雨が一瞬弱まったみたいに、音が際立つ。
咲月は泣きながら、ふっと笑ってしまった。自分の顔がぐしゃぐしゃなのに、音が立派すぎる。
「……ほら、派手」
蒼生が小さく言う。咲月は頷き、もう一口噛んだ。ぱきん。ぱきん。泣き声の代わりに、菓子の音が増える。
咲月は、ふと掌の中の髪紐を見た。いつの間にか握りしめていたせいで、結び目が赤く跡になっている。
「先送りにしたのは……私。あの人のせいにして、待ってる自分を見ないふりして……」
言葉が震える。けれど、震えはもう寒さのせいじゃない。咲月はそれを認めるように、息を吐いた。
蒼生は、黙って頷いた。慰めの言葉を並べず、手を伸ばしもせず、ただ湯呑みの温さだけを、咲月の指先に残す距離に置いた。
「今夜、言えたね」
「……言っちゃった」
「言えた」
咲月は砂糖菓子の残りを、指で二つに割った。割れ目が、硝子みたいに薄く光る。
「……一個、あげます。音、うるさいから」
「半分?」
「半分なら、逃げられるでしょ」
咲月がそう言うと、蒼生は受け取って、同じように噛んだ。ぱきん、と音がする。咲月はまた笑ってしまい、涙が頬を伝った。
蒼生は笑いながらも、視線を逸らさなかった。雨の音が戻り、境内の匂いが少しだけ甘くなる。
咲月は髪紐を木箱に戻し、蓋を閉めた。完全に終わったわけじゃない。けれど今夜は、蓋を閉めたことを、先送りにしない。
鈴の紐を軽く握り直し、咲月は湯呑みの湯気を見つめた。湯気は天井へ消えるのに、温かさだけが指先に残る。
「……明日も、雨かな」
「雨でも、茶は淹れられる」
「……じゃあ、また来てください。通りがかりじゃなく」
咲月の声は小さかった。けれど蒼生は聞き逃さず、口元だけで笑った。
「うん。ちゃんと来る」
その言い方が、約束に聞こえてしまうのが怖くて、咲月はまた泣きそうになる。
だから代わりに、砂糖菓子の欠片をもう一つ噛んだ。ぱきん、と派手に鳴らして。
雨脚が少し弱まり、軒先から落ちる雫が、規則正しく石に当たる音へ変わった。咲月は、その音を数えるみたいに砂糖菓子を噛む。ぱきん、と鳴るたびに、胸の奥の言葉が一つずつ形になる。
あの人がいなくなった夜も、雨だった。鈴の音に似た水音がして、私は「明日」って言った。明日になったら、呼び止めよう、と。——呼び止める相手がいない明日が来た。
咲月は湯呑みを両手で包み、熱で指先を確かめた。今ここにいる人の体温を、逃したくない。そう思った瞬間、怖さも一緒に膨らんだ。
咲月は濡れた髪を耳へかけ、髪紐の端を指で撫でた。ほどけても、結び直せる。今夜は、その確かめを一つ増やすだけでいい。蒼生が差し出した湯呑みの底は温かく、咲月の掌の冷えを少しずつ追い払った。
「ちゃんと来る」と言われた夜ほど、眠りは浅い。咲月は布団を被り切れず、灯芯を少しだけ残した。雨音が屋根を叩くたび、胸の奥がざわつく。だから帳面を開き、明け方まで一頁だけ進めた。誰に見せるでもない字でも、書き終えると不思議と息が通る。湯呑みの温さが冷めるころ、咲月はようやく目を閉じた。




