第5話 霧の石畳で迷子犬を探す
梅雨入り前の朝、月代の空はまだ明るいのに、稲荷社の裏鳥居のあたりだけ白く沈んでいた。霧が、息をするたびに胸へ冷たく入ってくる。
社務所へ駆け込んできたのは、商店街の豆腐屋の奥さんだった。手拭いを握ったまま、声が裏返っている。
「咲月ちゃん、うちの犬が……! おととい首輪新しくしたばっかりなのに、今朝いなくて!」
咲月は返事の代わりに、帳面と鈴を素早く札袋へ入れた。犬の毛色、体の大きさ、首輪の鈴の音。奥さんの言葉を、手の中で並べ替える。泣き声が出る前に、動いたほうが早い。
「裏鳥居のほう、見ました?」
「見たの。霧が、すーって……。あそこ、昨日までそんなに白くなかったのに」
奥さんの視線が、鳥居の向こうへ吸われる。霧は、ただの朝靄に見えない。咲月も同じ匂いを嗅いだ。線香でも茶でもない、湿った石の匂いに、ほのかに甘い香りが混じっている。
咲月は鈴を鳴らした。澄んだ音が、霧の中へ一本線で伸びる。
「大丈夫。見つけます。……見つけて、叱ります」
裏鳥居をくぐった瞬間、足元が変わった。いつもの境内の石畳ではない。模様が細かい。しかも半歩ごとに、和の波紋と、異国の雲の紋が、ぱちり、ぱちりと切り替わる。目で追うほど、方向がほどける。
「……まっすぐのはずなのに」
咲月は足の置き場を確かめるように、ゆっくり進んだ。霧の中で鳥の声が遠い。代わりに、かすかな金属の音がした。ちりん。ちりん。首輪の鈴だ。けれど音が揺れている。近いのか、遠いのか、霧が距離を誤魔化す。
咲月がもう一度鈴を鳴らすと、霧の向こうから、別の足音が重なった。布靴が石を踏む音。迷いがない。
「朝に入るの、珍しいね」
白い霧の縁から、蒼生が現れた。夜の茶楼の主が、朝の冷えた空気の中に立っている。袖口はいつも通りきちんと整っていて、手には竹で編まれた小さな道具を持っていた。
「犬がいなくなった」
咲月が短く言うと、蒼生は一度だけ頷いた。
「鈴の音、聞こえる。境目が薄い朝は、足元がずれる」
蒼生は竹の道具を開いた。羅針盤のように見えるが、針が普通の鉄ではない。薄い竹片が、水の上の葉のように揺れている。
「これ、何ですか」
「竹の羅針盤。針は“風”で動く。……それと」
蒼生は咲月の掌を見た。咲月は反射で手を握り込む。昨夜から、ムーンストーンの冷たさが指の間に残っている。逃げるように握った手を、蒼生が追い詰めるでもなく、ただ待つ。
咲月は小さく息を吐き、掌を開いた。淡い青白い石が、霧の中でも自分の輪郭を失わない。
蒼生が羅針盤へ近づけると、竹片が、くるり、と回った。回り方が、風ではない。石に引かれている。
「……そっち?」
咲月が指差すと、蒼生は「うん」とだけ言った。言葉が少ないのに、頼りない感じがしないのが腹立たしい。咲月は前へ出た。
半歩、半歩。模様が切り替わるたび、景色もわずかに変わる。右の木が左へ寄ったり、石灯籠が一つ増えたり減ったりする。目の端が、すぐ嘘を見る。
咲月は目を閉じ、耳だけを開いた。
ちりん。……ちりん。
音の間隔が一定だ。走っていない。どこかで足を止めている。咲月は足を速めた。
「おいで。こっち。帰るよ」
言葉にすると、霧が少し薄くなる気がした。自分の声で、道の輪郭を作っているみたいだ。
やがて霧の中に、丸い影がうずくまっているのが見えた。犬だ。豆腐屋の犬。首輪の新しい鈴が、濡れて光っている。鼻先で石を嗅いだまま、こちらへ気づかないふりをしている。
「……ほら。いた」
咲月が近づくと、犬はようやく顔を上げた。目がきょろきょろして、それから、尻尾だけが先に振れた。
次の瞬間、犬は咲月ではなく、蒼生へ向かって突進した。
「え」
咲月の声が、間抜けに出た。犬は蒼生の足元にすり寄り、鼻を袖に押し当てた。尻尾が、霧を払うように大きく振れる。蒼生はしゃがみ込み、手の甲で犬の額を撫でた。撫で方が、点心を包む手つきと同じくらい丁寧だ。
「……君、夜に茶楼の匂いを嗅いだね」
蒼生がそう言うと、犬は「わふ」と小さく鳴いた。返事のつもりらしい。
咲月は腕を組んだ。自分でも子どもみたいだと思うのに、止められない。
「私が探したんですけど」
「うん。君の鈴が、道を作ってた」
蒼生はさらりと言い、犬の首輪を外して、鈴を指で弾いた。ちりん、と澄んだ音。犬が安心したように目を細める。
咲月の胸の奥が、むず痒くなった。褒められたのに、別のところがざわつく。蒼生の手を犬が好きすぎるせいだ。……たぶん。
「帰る」
咲月が言い切ると、犬は咲月の方もちらりと見て、ようやく「すん」と鼻を鳴らした。反省している顔をしている。犬のほうが上手い。
戻り道は、来たときより分かりやすかった。咲月が鈴を鳴らすと、石畳の模様が切り替わる間隔が、ゆっくりになる。蒼生の羅針盤の竹片も、揺れが小さくなった。
霧の中で、犬が時々立ち止まり、後ろを振り返る。そのたび蒼生が「こっち」と短く言う。犬は素直に従う。
裏鳥居が見えたとき、咲月はほっとして肩を落とした。境内の空気は、ちゃんと神社の匂いがする。湿った苔と、木と、遠い朝餉の煙。
豆腐屋の奥さんが走ってきた。
「いた! ああ、よかった!」
犬は奥さんへ飛びつき、ぺろぺろと頬を舐めた。奥さんが笑いながら泣き、咲月は「ほらね」と頷いて見せた。胸の奥の震えを隠すために。
奥さんが犬の頭を叩きながら、蒼生を見て固まった。
「……え、どなた?」
咲月は説明しようとして、言葉が詰まった。「茶楼の主」と言えば余計な話が増える。「夜にだけ現れる」と言えば、奥さんの膝が崩れる。
蒼生が先に軽く会釈した。
「通りがかっただけです」
咲月は思わず睨んだ。通りがかる場所じゃない、と言い返したいのに、奥さんは「ありがとうございます!」と深く頭を下げてしまう。
咲月は、奥さんが去る背中を見送ってから、蒼生へ向き直った。
「通りがかり、ね」
「嘘じゃないよ。君が鈴を鳴らしたから、来た」
蒼生は淡く笑った。夜の灯りの下じゃなくても、その笑いはずるい。
咲月はムーンストーンを握った。冷たさが、掌の熱で少し丸くなる。
「……境目、朝から開いてた。危ない」
「だから、戻り道を一緒に作れた」
蒼生の言葉は、それだけだった。けれど咲月の胸の奥で、霧が引くみたいに視界が晴れる。
咲月は小さく息を吐き、わざと強めに鈴を鳴らした。
「次、犬が迷ったら、豆腐一丁もらってください。……私の手間賃」
「点心と交換でいい?」
蒼生が言う。咲月は「条件つけるな」と言いかけて、口の端が上がった。
朝の霧はもう薄い。けれど境目の気配だけは、まだ足元に残っている。
咲月はそれを踏み外さないように、鈴の紐をしっかり握り直した。
犬の足音が遠ざかると、霞の路の石畳は、ふっと普通の冷たさに戻った。咲月は戻り口の鳥居を見上げ、息を整える。迷い道の輪をほどくのは、祓い札よりも、耳と足のほうが役に立つ——そんな夜が、これから何度も来る気がした。
蒼生が羅針盤を畳む。針の揺れが静まるまで、彼は黙って待つ。咲月はその「待つ」時間が、少しだけ羨ましかった。




