第4話 君が喜んでくれるなら、八角を入れる
初夏の夕暮れは、思ったより早く冷える。稲荷社の石畳が昼の熱を手放し、足裏からひんやりと伝わってきた。
社務所の戸を開けると、乙女が桶を抱えて出てきた。桶の中では、白い布に包んだ甘酒の瓶が、かすかに鳴っている。
「咲月、今日の分、できてるよ。町内会の人たちにも配るから、味見は今のうち」
「味見って言いながら、桶ごと持っていく気でしょ」
咲月が言うと、乙女は黙って肩をすくめた。否定はしない。
境内の端、裏鳥居へ続く小道に、いつもより甘い匂いが混じっていた。桂の花のような、蜜のような香りだ。
咲月は鼻をひくつかせ、手にした柄杓で鍋の湯をかき混ぜた。甘酒は社務所の台所で温めている。米麹の甘さが立ち、湯気が白く昇る。
そのとき、石段の途中から軽い足音がした。
「おーい、神さまの台所、今日はにぎやかだねえ」
仁愛が屋台の布を肩に掛けたまま、団子の串をひらひら振っている。夕方の片づけ途中らしく、袖が粉で白い。
「勝手に覗かないで」
「覗いてない覗いてない。匂いに呼ばれただけ」
仁愛は笑いながら、屋台の隅に腰を下ろした。目は鍋に釘づけだ。
裏鳥居の方から、もうひとつ、違う足音が重なった。草を踏む音が静かで、石を避けるのが上手い。
蒼生が、いつものように袖口をきちんと整えたまま、手に小さな籠を提げて立っていた。籠の中の磁器の器が、かち、と触れ合う。
「こんばんは」
咲月が先に言ってしまって、あとから自分で驚いた。昨夜まで、彼に「こんばんは」と言うのが当たり前になるなんて、思っていなかったのに。
蒼生は籠の蓋を開け、淡い金色の茶葉を見せた。
「桂花茶。今日の月代は、甘い匂いがしてたから」
「うちの甘酒のせい。……交換する?」
咲月が言うと、蒼生は小さく頷いた。頷き方が、いつも短くて迷いがない。
蒼生は、茶楼の鍋をここへ持ち出してはいない。けれど籠の中から、香辛料の小袋を取り出し、咲月の鍋の端へそっと置いた。
袋の口が開くと、甘さの中に、すっと鋭い匂いが走る。
「それ、何?」
「八角。星の形の……」
蒼生は言いながら、袋から一つ取り出した。指先に乗った黒褐色の星が、夕日を受けて光る。
咲月が「甘酒に?」と眉を寄せると、蒼生は平然と鍋へ落とした。
ぽとん、と音がして、湯気の中で星がゆっくり沈む。
「君が喜んでくれるなら、香りは強めでもいい?」
その言い方が、あまりにも自然で、咲月は柄杓を持ったまま固まった。
「……っ、けほ」
次の瞬間、鼻に星の香りが直撃した。咲月は思いきりむせた。甘酒の甘さが、八角の甘苦さで一気に異国になる。
仁愛が腹を抱えて笑う。
「ほらー! 味見って名目で仲良しだね! 鍋ひとつで距離が縮まるの、見てて気持ちいい!」
「名目じゃない! 仕事!」
咲月は反射で柄杓を投げかけた。もちろん当てる気はない。柄杓は仁愛の足元に落ち、ちゃぷん、と湯が跳ねた。
「うわ、危ない。怒ると手が早い」
「勝手に茶化すほうが悪い」
蒼生は声を出さずに笑っていた。肩が少し揺れるだけの笑いだ。いつも端正に整えている顔の線が、ほんの少し崩れて見える。
そのまま、蒼生は袖口を引き、鍋の縁に触れた指をさっと隠した。
咲月の目が、その動きに追いついた。見逃すほど鈍くはない。
「……指、どうしたの」
「大丈夫。ちょっと熱かっただけ」
蒼生は答えながら、手を背に回した。口調は変わらないのに、身体だけが逃げる。
咲月は、柄杓を置いて近づいた。蒼生が一歩引く前に、手首を掴むでもなく、そっと袖をめくった。
指の腹が赤い。水膨れになる手前の熱だ。
「隠すほどじゃないって顔して、隠してる」
咲月が言うと、蒼生は目を細めた。言い返さない。そこが余計にずるい。
咲月は鍋の脇の水桶から布巾を濡らし、ぎゅっと絞った。
「冷やす。動かないで」
蒼生は一瞬だけ視線を揺らし、それでも言われた通りに手を差し出した。指先が、布に触れるのを待つみたいに静かだった。
濡れ布が赤い指を覆う。蒸気が当たらないように、咲月は自分の体で風上を作った。背中に夕風が当たり、髪が揺れた。
蒼生の視線が、咲月の耳元の髪留めに落ちているのを感じた。見られている、と気づいた瞬間、咲月は布を巻く手に余計な力が入ってしまう。
「……痛い?」
「痛くない。君の手が冷たいから、助かる」
蒼生の声は低かった。咲月は返事を探したが、言葉がすぐには見つからない。いつもなら、町内会の揉め事でも、落とし物でも、答えは早いのに。
咲月は誤魔化すように、鍋へ向き直った。
「八角、入れすぎたら没収する」
「一つだけ。星は、ひとつで十分」
蒼生が言う。今度は、咲月のほうがむせない程度に、笑ってしまった。
咲月は棚から小さな瓶を取り出し、乾いた橙の皮を一片、指で割って鍋に落とした。
「陳皮。甘酒の香り、戻す」
湯気が立つ。八角の強さが、柑橘の苦味で丸くなる。咲月は柄杓で少しすくい、器に注いだ。
仁愛が目を輝かせる。
「お、反撃だ。こっちは勝ち負けじゃなくて、うまいほうが勝ちってやつだね」
「勝ち負けじゃないって言ったの、誰」
咲月が睨むと、仁愛は団子を頬張って逃げる。
蒼生は器を受け取り、香りを確かめるように息を吸った。飲む前に、咲月の顔を見る。
「……君は、こういうほうが好き?」
「むせない程度が好き」
咲月が言うと、蒼生は小さく頷いた。その頷きが、さっきより少しだけゆっくりだった。
夕日が鳥居の柱を赤く染める。境内の端に、薄い霧が寄り始めた。まだ子の刻には遠いのに、霞の路が、先に息をしているみたいだ。
咲月は、濡れ布を指に巻いた結び目を確かめた。ほどけない。けれど、強く結びすぎても、血が止まる。
結び目を整えながら、咲月は胸の奥で小さく呟いた。
今日のうちに。逃がさない。後回しにしない。
それが、甘酒よりずっと熱かった。
甘酒の湯気が落ち着くころ、咲月は指に巻いた布をほどき、火傷の具合をもう一度だけ確かめた。赤みはある。けれど、蒼生が台所で指を隠したまま、点心をつまむ所作だけは変えないのが気に掛かる。
「痛いなら、言えばいいのに」
咲月がぽつりと漏らすと、蒼生は湯呑みの縁を指でなぞり、何でもないふうに言った。
「言ったら、君がまた布を巻くから」
その言い方が、冗談の顔をしているのに、頼っているみたいで、咲月は咳払いをした。境内の風が八角の香りを連れていく。追いかけないのに、胸の中だけ残った。
仁愛が屋台から顔を出し、「八角の匂いで蚊が逃げた」と勝手に宣伝した。咲月が柄杓を構えると、仁愛はさっと身を引き、笑い声だけ残して去る。咲月は追いかけず、蒼生の指先へ視線を戻した。布の結び目はほどけない。——なら、今度は私がほどけないように見ておく。そう決めて、咲月は湯気の立つ甘酒をもう一口飲んだ。
咲月は指先の布越しに、蒼生の熱を思い出す。香りが残るうちは、後回しにしない。そう決めて、灯の落ちる境内へ歩き出した。
鳥居の影で、霧がほんの少しだけ笑った気がした。
咲月は肩で息をして、笑いを飲み込んだ。




