第3話 今日こそは。帳簿をつける日
初夏の昼、稲荷社の境内は新しい草の匂いで満ちていた。拝殿の影だけが涼しく、風が吹くたび、注連縄の紙垂がぱさりと鳴る。
社務所では咲月が机に向かい、寄付金の帳簿を広げていた。竹の定規、筆、朱肉。いつも通りの並びだ。けれど肝心の帳簿だけが、どこにもない。
「……ない。昨日、ここで閉じたのに」
咲月は引き出しを一段ずつ確かめ、棚の奥を覗き、机の下にまで手を伸ばした。落とし物の袋や祝詞の控えは整然としているのに、帳簿だけが抜けている。
境内の方から、みゃあ、と間延びした声がした。
咲月が顔を上げると、社務所の戸口に茶色い猫が座っていた。首には誰かが結んだ赤い紐。口元が少し、墨みたいに黒い。
「また、あんた……」
猫はのんびりと瞬きをし、尻尾で床を叩く。まるで呼び出しの合図だ。
咲月が外に出ると、猫は軽い足取りで石畳を渡り、賽銭箱の横をすり抜け、裏手の倉へ向かった。咲月は袴の裾を押さえながら追い、倉の戸を開ける。
中は掃除の箒や古い提灯が並び、埃の匂いがした。その中央、提灯の陰から、見慣れた紐綴じが覗いている。
「……あった」
帳簿だった。猫は帳簿の上に前脚を置き、誇らしげに喉を鳴らした。
咲月はため息をつきつつ、猫の額を指で軽くつつく。
「持ち出したなら、返しなさい」
猫は「知らない」とでも言いたげに、ひょいと身を翻して倉の外へ出た。
社務所に戻るころには、咲月の頭の中はもう次の段取りで埋まっていた。
帳簿の数字を確かめ、領収の控えと照らし、清書する。ここまでなら、いつも速い。誰かの困りごとが絡むと、手は勝手に動く。
けれど、清書用の新しい紙を前にした途端、筆先が止まった。
紙が白すぎる。墨の一画目が、重すぎる。
咲月は筆を持ったまま、肩をすくめた。昨日の夜、母に話したときの声が、まだ喉に残っている。言えた。確かに言えた。なのに今度は、紙に向かうだけで、腰が引ける。
「……今日こそは」
自分に向けた小さな掛け声が、社務所の板壁に吸われた。
そのとき、戸がこん、と控えめに鳴った。
振り返ると、蒼生が立っていた。昼の光の中だと、いつもより輪郭が薄い。けれど目だけは、湯気の夜と同じように落ち着いている。手には、木の箱を抱えていた。
「入っていい?」
「……夜しか来ないと思ってた」
咲月が言うと、蒼生は箱を少し持ち上げる。
「置き忘れた道具があった。あと、これを試したくて」
箱の蓋を開けると、小さな印が入っていた。日本の判子みたいな形なのに、側面に細い溝があり、上部がくるりと回る。
「何それ」
「回転印。和の判子の押し心地に、中華の朱印の遊びを混ぜた」
蒼生は朱肉の代わりに、小さな陶器の皿を出した。中には濃い朱がとろりと光っている。
咲月が怪訝そうに見ていると、蒼生は何も言わず、紙の端で試し押しを始めた。
ぽん。
押した瞬間、印の上部が勝手にくるりと回った。出てきた模様は、月の輪の中に小さな兎。
「……かわいい」
咲月が思わず漏らすと、蒼生はもう一度押す。
ぽん。
今度は月の輪の中に、龍の鱗みたいな模様。さらに押すと、梅の花。押すたび違う。
その三回目のときだった。印が勢いよく回りすぎて、朱がぴゅっと飛んだ。
蒼生の鼻先に、赤い点。
咲月は一拍遅れて吹き出しそうになり、慌てて口元を袖で隠した。
「……やめて。笑わないで」
蒼生は鼻の点に気づかないまま、真面目な顔で言う。そこが余計に可笑しい。
そこへ、社務所の外から声が飛んだ。
「おーい、咲月。昼のうちから社務所で何やってんの。においが、なんか……朱って感じ?」
屋台の仁愛が、ひょいと顔を出した。手には串団子。目線が蒼生の鼻に止まり、次の瞬間、肩が震える。
「蒼生さん、鼻、朱ついてる」
「え?」
蒼生がやっと指で触れ、指先が赤くなる。咲月は堪えきれず、今度は声を出して笑った。
仁愛は団子を揺らしながら言う。
「今日の社務所、にぎやかだね。参拝客に見られたら、『福の朱印』ってことにしとく?」
「しない」
咲月は即答したが、笑いながらなので迫力がない。
さらに、段取り上手の乙女が、紙の束を抱えて現れた。
「朱が飛ぶなら、乾かす場所を先に作るよ。風の通り道、こっち」
乙女は迷いなく、机の端に縄を張り、洗濯ばさみの代わりに小さな木札を並べ始めた。社務所の窓を少し開け、扇子で風を送る。
紙が一枚ずつ、さらりと揺れた。
咲月は自分の手元を見た。筆が止まっていたはずの白い紙が、今は「押していい場所」と「書く場所」に分かれて見える。段取りが整うと、心が追いつく。
蒼生が回転印をそっと咲月の前に置いた。押すかどうかを急かさない。けれど、逃げ道も作らない置き方だ。
咲月は朱をつけ、深呼吸して、ぽん、と押した。
模様は月の輪。中に、小さな茶碗。
「……茶楼みたい」
言い終える前に、印がくるりと回り、朱がまた少し飛んだ。今度は紙の端に、細い赤い線。
咲月は反射で紙を押さえ、布で軽く吸い取った。乙女がすかさず木札を差し出し、仁愛が団子の串で「ここ乾かしとく?」と指さす。
咲月は頷き、紙を縄に掛けた。
ひとつ終えると、次が見える。次が終わると、その次が軽くなる。
咲月は筆を取り、数字を書き始めた。墨が紙に吸われ、線が落ち着いていく。途中で迷いが出ても、蒼生が紙の端に朱で小さな丸を押す。『ここまでできた』の印だ。
咲月は丸の数が増えるのを見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
日が傾き始め、社務所の床に格子の影が伸びたころ、最後の行が埋まった。
咲月は筆を置き、肩を回した。終わった。終わらせた。誰かに言われたのではなく、自分で。
「……今日こそは、できた」
声にすると、少し照れくさい。
蒼生は鼻の朱を布で拭き、きれいに畳んで戻した。その動作が、いつも通り丁寧だ。
「じゃあ、次は」
「次は……明日じゃなくて、今日のうちに封をする」
咲月は帳簿を紐で綴じ、印を押し、引き出しの奥にしまった。猫の手が届かない場所だ。
乙女が満足そうに頷き、仁愛が団子を一本差し出す。
「ごほうび。ちゃんと『終わらせた』顔してる」
咲月は団子を受け取り、ひと口かじった。甘さが、舌に広がる。
ふと見ると、蒼生が回転印を箱に戻す前に、もう一度だけ紙の端へぽん、と押していた。
月の輪の中に、小さな梅。
咲月はそれを見て、何も言わずに口元を団子で隠した。笑いではないのに、頬が勝手に上がる。
社務所の戸を閉めるころ、咲月は帳簿の束を抱えたまま、裏鳥居の方へ目をやった。昼の光はまだ残っているのに、木々の間に薄い霧が一筋だけ落ちている。気のせい、と言い切るには、甘い茶の匂いがはっきりした。
「今日は終わússんだ。途中で投げない」
咲月は独り言を、わざと声にした。言葉にすると、手が勝手に次の頁をめくる。
蒼生は朱肉の蓋を閉めると、紙の端を指でとん、と叩いた。咲月がその意味を測りかねていると、彼は湯呑みをそっと押し出す。冷めないように、というより、飲んで落ち着け、という手つきだった。




