第20話 今日こそは。二つの街の夫婦茶楼
秋祭りの満月から、ひと月ほどが過ぎた。
山あいの城下町「月代」の稲荷社は、紅葉の名残を石段の隙に残しながら、朝の冷え込みをきゅっと抱え込んでいる。
裏鳥居の向こう――霧の気配が薄くなる“間”に、小さな茶楼が建った。
朱塗りは控えめで、屋根は和の反りと中華の曲線が、互いを押しのけないように重なっている。入口には、乙女が作った案内板が立っていた。
板には、迷わないための矢印が三つ。
ひとつは「月代側へ」。
ひとつは「龍城側へ」。
最後のひとつは、でかでかと――「まずは一服」。
咲月は、案内板の前で腕を組んだ。
文字の癖が、乙女そのままに勢いがいい。見た人が笑うのが目に浮かぶ。
けれど咲月は、その笑いを止めない。止める暇がないほど、朝の仕事が詰まっていた。
茶楼の戸を開けると、炉が小さく鳴き、湯気が立ち上がった。
炉の前には、ムーンストーンが祀られている。青白い筋と朱い筋が、呼吸みたいに淡く明るさを変える。熱を持ちすぎない。冷えもしない。
咲月は手を合わせ、鈴を一度だけ鳴らした。
次に、帳面を開く。
紙の匂い。墨の匂い。昨日の“やり残し”が、きちんと数字に並んでいる。
咲月は筆を取って、ぱらぱらと頁をめくり、ひと息もらす暇なく書き込んだ。
「……終わった」
言いながら、笑ってしまう。
以前なら、“終わったつもり”で閉じていたはずの頁だ。今日は閉じた。閉じ切った。
奥から、蒸籠の蓋が持ち上がる音がした。
湯気の奥から、蒼生が顔を出す。髪を結び直す指に、ほんの少し粉がついていた。
「朝いちばんに帳面。偉い」
「言い方が、先生みたい」
「先生なら褒めるだけじゃ済まない」
「やめて。札袋ぶつけるよ」
咲月が札袋を持ち上げると、蒼生は肩をすくめて笑った。逃げない。からかうだけで、距離は離さない。
蒼生は蒸籠から点心を一つ取り、咲月の前に置いた。
小さな包み。皮の薄さが、光に透ける。
「新作。食べて」
「朝から?」
「朝に食べられないなら、昼まで残る。……残ると困るだろ」
蒼生はさらっと言う。咲月は、言葉の意味が遅れてきて、湯呑みを持つ手が止まった。
頬が熱いのに、冷えた空気がそこだけすべる。
咲月は、わざと真顔で点心を齧った。
中から、肉汁ではなく、甘い餡がとろりと出た。
桂花の香りに、陳皮の細い苦味。最後に、ほんの少しだけ八角が舌の奥をくすぐる。
「……入れたな」
「君が、前に“強い香りでも平気になった”って言った」
「言ってない。咳き込まなかっただけ」
「じゃあ、合格」
「勝手に合格にしないで」
咲月が柄杓を持つふりをすると、蒼生は笑いながら、炉の灰を整えた。指が火に近づきすぎないよう、咲月は視線だけで見張る。蒼生はそれに気づいて、わざとらしく両手を見せた。
「火傷はしてない。……今日は」
「“今日は”って何」
「明日でもいいって言わない日、だから」
蒼生は言ってから、少しだけ目を細めた。湯気の向こうで、笑いが柔らかい。
その時、戸がどん、と軽く叩かれた。
次いで、屋台の呼び声が霧を割って飛び込む。
「おーい! 夫婦茶楼、開いてるかー!」
「……その呼び方、やめさせて」
咲月が頭を抱えるより早く、仁愛が勝手に入ってきた。肩に担いだ箱から、包みを二つ三つ、卓へ置く。
「月代の朝飯。龍城の朝飯。両方だ。腹が減ると帰りたくなるからな」
「それ、合言葉みたいに言うのやめて」
「合言葉にしとけ。迷子が減る」
仁愛は案内板の矢印を指で弾き、「まずは一服」を読み上げて腹を抱えて笑った。
「乙女の字、勢いあるだろ。見た瞬間に従いたくなる」
「従いたくなるのは、あなたが勝手に従うからでしょ」
「そうそう、その調子。叱る声があると、客が安心する」
仁愛が肩をすくめると、背後から別の足音がした。
乙女が、紙束を抱えて現れた。
霧の湿り気にも負けない紙。角が揃っている。段取りの匂いがする。
「咲月。今日の案内、増やした。迷い道に入ったら、二回だけ戻っていいって、書いた」
「……二回だけ?」
「三回だと、戻るふりして居座る人が出る」
乙女は真顔で言い切り、蒼生の方を見る。
「蒼生。龍城側の門番に渡す分、ここ」
「助かる」
蒼生は受け取り、紙束の端を揃え直した。乙女の癖を、もう知っている手つきだ。
四人が揃うと、茶楼は一気に“いつもの”気配になる。
けれど、窓の外に見える景色は二つ。霧の向こうで、月代の森と、龍城の城壁が同じ空気の中に息をしている。
昼過ぎ、最初の客が来た。
月代の子どもたちだ。夏に団子と月餅を一緒に食べてはしゃいだ面々で、顔を見るなり咲月は眉を上げる。
「走るな。石畳で滑る」
「はい!」
「返事だけは早い」
咲月が言うと、子どもは笑って、乙女の案内板を指さした。
「ねえ、これ。“まずは一服”って、まずは甘いの?」
「まずは茶」
蒼生が即答し、蒸籠を開ける。湯気がふわりと出て、子どもたちの目が一斉に光った。
「今日のは、どっちの街の味?」
「両方」
蒼生が言うと、子どもが同時に叫ぶ。
「二つとも好き!」
咲月の胸の奥が、ひゅっと温くなる。
泣きそうになるのに、笑いが先に出る。泣きそうなのは、悪いことじゃない。もう、隠す必要がない。
夕方、龍城側からも客が来た。
鋲のついた靴、布の長い上着。視線は鋭いのに、点心を一口で頬張って、目を丸くする。
「……甘いのに、香りが和らぐ。これは、月代の酒粕か?」
「甘酒の搾り粕。今度、交換しよう」
咲月は即座に返す。交渉ごとは、苦手じゃない。苦手なのは、胸の内の言葉だけだ。
客が帰り、霧が静かに薄くなる頃、茶楼にはふたりだけが残った。
仁愛は屋台を引いて「腹が減ったら呼べ」と言い残し、乙女は紙束を抱えたまま「明日の段取りは朝」と言って去った。
炉の火が小さく揺れる。
ムーンストーンの筋が、青白く、朱く、穏やかに明るさを変える。
咲月は湯呑みを卓に置き、両手を膝にそろえた。
いつもなら、ここで言葉を飲む。飲んで、明日に回す。
けれど、今日の帳面は閉じてある。閉じたままだ。だったら、胸の中も閉じたままにしない。
「蒼生」
「うん」
返事は早い。蒼生は、湯呑みを持ったまま動かない。逃げない。笑って誤魔化さない。
咲月は息を吸った。冷たい空気が喉を通って、胸の奥で温くなる。
「今日こそは。……ありがとうを言う」
声が震えそうになって、咲月は指先に力を入れた。卓の木目が、掌に当たる。
「茶を淹れてくれて。点心を焼いてくれて。道を、会える道にしてくれて」
咲月は言いながら、自分でも驚くほど、言葉が途切れない。
蒼生は黙って聞いている。頷きもしない。遮らない。咲月の言葉が、途中で引っかからないように、ただそこにいる。
「……それから」
咲月は、視線を上げた。湯気の向こうの顔が、はっきり見える。
「私が怖がってるの、笑って隠させなかった。……あれ、助かった」
咲月は、そこで一度だけ笑った。小さく。逃げる笑いじゃない。
「だから、今も言う。好きだよ」
蒼生の喉が、こく、と鳴った。
笑うより先に、目元がゆるむ。泣きそうな顔なのに、口元は笑っている。
「明日でもいいって、言わないんだな」
「言わない。……言ったら、柄杓で叩く」
「怖い」
「怖がれ」
咲月が柄杓を持ち上げると、蒼生は肩をすくめたまま、そっと咲月の手に触れた。柄杓じゃない方の手だ。
「ありがとう。……俺も、今日言う」
蒼生は、咲月の指を一つずつ包むように握った。
「咲月がいるから、ここが茶楼になる。帰る場所じゃなくて、会える場所になる」
咲月の胸の奥が、きゅっと締まって、すぐほどけた。
涙が出そうになる。けれど、先に言えた。だから、泣いてもいい。
窓の外で、月代の森と龍城の城壁が、同じ月明かりに白く浮いた。
二つの街が、別々に息をして、同じ月を見上げている。
炉の前のムーンストーンが、ふわりと光る。
青白い筋と朱い筋が、重ならずに並んで、穏やかに揺れた。
咲月は湯呑みを持ち上げ、蒼生と軽く合わせる。
湯気が、笑い声みたいに立ち上がった。
明日じゃない。今日のまま、ここへ。
咲月はそう思いながら、もう一度だけ、蒼生に言った。
「……ただいま」
「おかえり」




