第2話 祓い札より餃子が効く?
朝の鐘が、町の屋根を一つずつ起こしていく。稲荷社の社務所で、咲月は湯呑みの湯を入れ替えた。昨夜の霧の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
掌のムーンストーンは、布で包んでも冷たさだけは抜けない。落とし物のはずなのに、戻す先が見つからないまま、机の上に鎮座している。
そこへ、境内の下から騒がしい声が上がった。
「咲月ちゃーん! ちょっと来て!」
商店街の魚屋の母さんの声だ。続いて、子どもの泣き声が二つ、三つ。咲月は札袋を肩にかけ、走った。
石段の下、朝市の通りは小さな渦になっていた。子どもたちが腹を押さえ、しゃがみ込んでいる。顔が青い。母親たちが背をさすり、周りの大人が「悪い気だ」「夜更けに外へ出たんじゃないか」と口々に言う。
咲月はまず、しゃがんだ子の前に膝をついた。額に手を当てる。熱はない。唇は乾き気味で、手先が冷えている。
「痛いの、どこ? いつから?」
「さっき……ぐるぐるする……」
「吐いた?」
首を振る。咲月は頷いて、札袋の中から白い紙を取り出した。祓い札――ではない。帳面の切れ端だ。
「今、食べたものを思い出せる?」
子どもは涙で目を潤ませたまま、指を折った。
「飴……それと、ひやっこいの」
「ひやっこいの?」
「甘い水。色、きらきら」
周囲の母親が「ああ、それ」と声を揃えた。昨夜、誰かが路地で売っていた、ガラス瓶の甘味だという。咲月は帳面に、名前と時間と症状を書きつけた。六人分。全員が同じものを口にしている。
咲月は顔を上げ、井戸端へ向かった。
「水、汲んで。鍋、借ります」
「社務所で祓って――」
「祓うのはあと。今は温める」
社務所の台所に火を入れ、井戸水を鍋で沸かす。湯気が上がり、木の匂いが戻ってくる。咲月は湯を椀に注ぎ、塩をひとつまみ落とした。母親たちに渡す。
「一口ずつ。急がない。腹の下に手を当てて、息を長く」
子どもたちは最初、むすっとした。熱いのは嫌だという顔をする。咲月は眉を動かし、わざと低い声で言った。
「冷たいのを飲んで、腹がびっくりしてる。びっくりを落ち着かせるのが先」
すると、魚屋の母さんが笑いながら子の背を叩いた。
「咲月ちゃんの言うこと聞きな。うちの氷も、急に食べると腹こわすんだよ」
湯を飲み、しばらくすると、子どもたちの顔色が少し戻った。咲月は帳面を閉じた。原因はほぼ掴んだ。売り手を探して、商店街の組合に伝えて、再発を防いで――。
そこまで考えて、咲月はふっと肩を落とした。
「報告は、あとで……」
口に出した途端、昨夜の茶の香が思い出のように鼻をくすぐった。
夕方、咲月は裏鳥居へ向かった。確かめると言った手前、足が勝手にあの道を選ぶ。霧は薄い。それでも、鳥居の先に朱塗りの柱が見えた瞬間、胸の奥が一拍遅れて熱くなった。
扉を押すと、甘い香りに、生姜の匂いが混じっていた。昨夜言い当てたように、あの男はそこにいた。
蒼生は蒸籠を抱えて、台所から出てきた。湯気が立ち上り、髪が少し湿っている。
「おはよう。……いや、もう夕方か」
挨拶の選び方が雑で、咲月は思わず口元を押さえた。
「笑うところじゃない。子どもが腹を押さえてるの」
「うん。外で聞こえた。腹の音は、茶楼にも届く」
蒼生は蒸籠の蓋を少し持ち上げた。湯気の奥に、並んだ餃子が見える。丸くて、小さくて、皮がつやつやしている。
「祓い札は効きにくいね。冷えには、こっち」
「……祓い札と競争しないで」
入口の隅から、子どもが二人、そろそろと顔を出した。母親に背中を押されてきたらしい。咲月は目を剥いた。
「連れて来たの!?」
「連れて来たのは、君の後ろにいた母さんたち」
蒼生が顎で示す。振り返ると、確かに数人が申し訳なさそうに頭を下げていた。
「社務所の湯も助かったけど、夜になると、また痛いって言い出して……」
咲月はため息をつき、札袋を床に置いた。
「分かった。座って。足、冷えてる」
蒼生は餃子を小皿に盛り、子どもの前に置いた。箸を渡す手が速い。咲月が口を挟む前に、蒼生がしゃがみ込んで、子どもの目線に合わせた。
「熱い。だから、こう」
彼は自分の指で餃子を少し転がし、口の前で大げさに息を吹いた。
「ふーってして食べろ」
子どもが真似をする。「ふーっ!」 勢いがよすぎて、餃子が皿の上でころりと回った。
「……転がしすぎ」
「腹も転がってるから、ちょうどいい」
蒼生は真面目な顔で言い、母親たちが噴き出した。
咲月は台所へ回り、蒼生の指示で薬草の小瓶を開けた。中は乾いた葉と根の欠片だ。甘いような苦いような香りがする。
「これ、何」
「龍城の茶屋だと、腹のために使う。こっちは生姜。君の町にもある」
蒼生は言いながら、生姜をすりおろして餡に混ぜていく。手元が迷わない。咲月は、その手首の動きを見ていた。火の近くで赤くなった指に、昨夜の湿布の布が巻かれたままだ。
「昨日のやけど、まだ巻いてる」
「外すと、君がまた巻き直す」
蒼生は目を上げずに言った。咲月は返事が詰まり、鍋の縁を指で叩いた。
子どもたちが餃子を半分食べるころには、顔色がはっきり変わっていた。腹をさする手が、さっきよりゆっくりになる。母親たちの肩も下りた。
咲月は帳面を開き、原因の欄に指を置いた。
「冷たい甘味。瓶の水を、生の井戸水で薄めた可能性が高い。皆、同じ時間に飲んでた」
「じゃあ、今すぐ言うべき人がいる」
蒼生は帳面の端を指で押さえ、朱筆を取り出した。いつの間にか、机の上にあった。
赤い丸が、文字の上にぽん、と落ちる。
「今できること」
蒼生はそう書き足して、咲月の目の前に帳面を滑らせた。
「組合への報告は、明日でもいい。けど、今夜ここに来た母さんたちには言える。『冷たい甘味は一度やめて、飲むなら煮沸して』って」
「……それくらいなら」
咲月が言いかけたとき、蒼生は朱筆を置き、咲月の肩に軽く手を置いた。重くはない。けれど、そこに置かれた瞬間、咲月の背中の力がほどけた。
「君は、全部を一人で片づけようとする。片づけ方は上手いのに、最後の一言だけ、明日に逃がす」
咲月は唇を噛んだ。図星だ。今日も、帳面を閉じたところで「あとで」と言った。
蒼生は肩から手を離し、代わりに餃子を一つ、咲月の前に置いた。湯気が、まっすぐ上がる。
「今は食べろ。君の腹も冷えてる」
「冷えてない」
「じゃあ、熱いのが嫌なだけ」
咲月は反論する前に、餃子の匂いに負けた。箸で持ち上げ、口の前で小さく息を吹く。
「……ふーって」
「そう。それ」
噛むと、生姜の辛さがほんのり広がり、薬草の苦みが後を追った。胃の奥が、ふっとほどける。咲月は目を伏せたまま言った。
「母さんたちに、今言う。明日じゃなくて」
「うん。君の声なら、届く」
咲月は立ち上がり、茶楼の外へ出た。霧の向こうに、月代の屋根が見える気がした。昨夜より、道が少しだけはっきりしている。
掌のムーンストーンが、布越しに淡く光った。冷たさの中に、微かな温もりが混じっている。
咲月は振り返らずに言った。
「……明日も、ここにいるの?」
「君が来るなら」
蒼生の声が、湯気のように柔らかい。
咲月は母親たちの方へ向き直り、帳面を胸に抱えた。今夜伝えることは、たった一つだ。けれど、その一言が、町を守る。
そして、明日に先送りしてきた何かが、少しだけ動いた。




