第18話 君が喜んでくれるなら、私は……
夕暮れの境内は、昼の熱をまだ抱えたまま、ひと息つくように影を伸ばしていた。拝殿の鈴緒が風に揺れ、からん、と乾いた音がする。咲月は帳面を膝に置き、朱の印泥に指をつけた。
寄付の金額、米の俵、榊の束。数字は、逃げない。けれど、目を逸らせば置き去りにされる。
咲月は息を吸い直し、行を追って、ひとつずつ確かめた。薄い紙をめくる音が、いつもより落ち着いている。
「お、今日は机から逃げないんだな」
背後から軽い声が落ちてきた。仁愛が屋台の布を肩にかけたまま、覗き込んでいる。串に刺さった団子を一本、咲月の視界にぶら下げた。
「団子で釣らない」
「釣れないって分かったから、差し入れだ。腹が減ると、変なところで泣くぞ」
咲月は団子を受け取り、噛んだ。もち、と歯に吸いつく甘さが、喉の奥の固さを少しだけほどく。
そこへ乙女が、干した紙を抱えて現れた。
「印、今日こそは飛ばさない?」
咲月は目を細めた。以前、回転印が暴れて朱が天井まで散った。そのとき乙女が、黙って紙を扇いで乾かしてくれたことを思い出す。
咲月は返事の代わりに、印を真っすぐ置いた。手首の角度まで、丁寧に決める。
ぽん。
朱は、紙の中で丸く収まった。模様も欠けない。
咲月は思わず小さく息を吐き、乙女が「うん」と頷いた。仁愛が「面白みゼロ!」と嘆くので、咲月は柄杓で軽く追い払った。
帳面を閉じた瞬間、胸の内で長く開きっぱなしだった引き出しが、音もなく収まる気がした。
次は掃除だ。咲月は箒を手に取り、拝殿の縁を払った。落ち葉は少ない。けれど、霧の粉みたいな湿り気が、木目の隙間に残る。
裏鳥居へ向かう道を掃きながら、咲月は布袋の上から胸を押さえた。ひびの入ったムーンストーンが、温い。昼より熱が強い。夕方になると、境目が呼吸を始めるのだと蒼生が言った。
鳥居の向こうに、朱塗りの月下茶楼が浮かび上がっている。灯が揺れ、湯気が薄く立つ。
戸を押すと、桂花茶の甘い香りが鼻をくすぐった。
「……終わった?」
蒼生が、茶器を拭く手を止めた。問い方が、仕事の確認みたいで、咲月は笑いそうになる。けれど、今日は笑って誤魔化したくない。
「帳簿も、掃除も。終わらせた」
「えらい」
「褒めるの、軽い」
咲月が睨むと、蒼生は口元だけで笑った。笑うのに、目の奥が濡れている。石のひびが進んでから、彼は夜のたびに、どこかで計っている。
蒼生は小さな包みを差し出した。薄い布に、石の欠片が包まれている。
「ひびが広がる前に、欠片の位置を合わせたい。満月まで、あと二晩だ」
咲月は頷き、包みを胸に当てた。布越しに、温度が伝わる。生き物みたいに脈打って、怖さを煽る。
それでも、手は引かなかった。
茶楼の外へ出ると、霞の路の入口が薄く開いていた。霧の壁が、今日はいくらか柔らかい。足元の石畳は、和の波紋と中華の紋様が半歩ごとに切り替わり、目がくらむはずの場所だ。
けれど今夜は、模様の揺れが、わずかに遅い。
蒼生が言った。
「咲月。……笑って見送って。君が泣くと、霧が重くなる」
咲月は首を振った。喉の奥が痛い。笑ったら、また言葉が遅れる。
蒼生が何か言い直そうとした、その前に、咲月は彼の手を取った。
掌は熱い。点心の蒸気でも、茶器の湯でもない。帰り道を背負っている熱だ。
咲月は指を絡め、逃げ道を作らないように握り込んだ。
「君が喜んでくれるなら、私は……怖くても、手を離さない」
言った途端、胸の底で何かが跳ねた。昔の「迎えに来る」という声が、一瞬だけよみがえる。雨の匂い。砂利を踏む足音。置き去りの冷たさ。
咲月はその記憶を、霧の外へ追い払わない。握ったまま、そこに置く。置いた上で、前を見る。
蒼生が、笑った。ちゃんと笑ったのに、涙が一筋だけ頬を滑った。
「……ずるい」
「ずるいのは、先に泣くほう」
咲月が言うと、蒼生は鼻で息を吐き、悔しそうに笑い直した。次の瞬間、彼は咲月の額へ、そっと額を寄せた。触れるだけ。押しつけない。
熱と熱が重なり、霧がすこしだけ薄くなる。
石畳の模様が、ふっと整った。和と中華が、争うみたいに切り替わるのではなく、一本の道の両脇に、並ぶ。
霧が横へ退き、道の先に淡い灯が見えた。龍城の灯だ。揺れている。けれど、消えそうな震えではない。
咲月は握った手を、もう一度強くした。
「行くのは、満月の夜。だけど、今夜も——道を、覚えておく」
蒼生が頷いた。
「帰るためじゃない。……一緒に開くために」
茶楼の灯が、背中でふる、と揺れた。まるで「聞こえた」と言うみたいに。
咲月は霧の匂いを深く吸い、吐いた。怖さは残る。けれど、言葉が遅れない。
背後で、仁愛が咳払いをした。
「おーい。額くっつけるのはいいけど、霧の中で転ぶなよ。俺は助けないからな」
「助けろ」
「助けろって言えるようになったの、成長だな」
乙女が灯りを差し出した。紙灯籠の光は、霧に滲んでも消えない。咲月は灯籠を受け取り、蒼生の手を離さずに、茶楼の方へ一歩戻った。
満月の夜まで、あと二晩。
咲月は、帳面の頁みたいに、道を一枚ずつめくっていくつもりだった。
咲月は灯籠の紙を指で押さえ、風に煽られて火が消えない角度を探した。霧は湿っていて、火は弱いのに、消えるときは一瞬だ。そういうものが、今夜の境目に似ている。
蒼生は歩幅を合わせ、咲月の肩が冷えないように、傘の縁をそっと寄せた。咲月が「濡れる」と言いかけると、蒼生は笑って首を振る。
「濡れていい。君がここにいるのが分かるから」
その言い方に、咲月は喉が熱くなり、返事の代わりに指を絡めた。
「笑って見送って、って頼まれた。……無理だよ」
咲月が言うと、蒼生は足を止め、霧の中で咲月の顔を探した。見つけた瞬間、彼は深く息を吸う。点心を蒸す前みたいな呼吸だ。
「無理なら、無理って言えばいい」
「言った。今、言った」
咲月は胸の布袋を押さえ、ひびの線の熱を確かめた。熱い。刻限が近い。怖い。——でも、怖いと同じ分だけ、ここに残したい気持ちも熱い。
「君が喜んでくれるなら、私は……泣いても、手を離さない」
言った途端、霧が一瞬だけ薄くなり、龍城の灯が遠くで瞬いた。
蒼生は笑った。笑っているのに、鼻をすする音がする。彼は袖で雑に拭き、咲月の額へそっと額を寄せた。怖いときに逃げる距離じゃない。確かめる距離だった。
「じゃあ、俺も。帰る前に、言う」
蒼生が囁く。咲月は「今」と口の中で言い直し、返事の代わりに、手を握り返した。
咲月は灯籠の光を前へ差し出し、霧の縁に小さな道筋をつくった。足元の石畳が確かな形になるたび、胸の熱が少しずつ落ち着く。満月の夜まで、あと二晩。——今日のうちに言った言葉が、二晩先の自分を支える、と咲月は信じた。
蒼生は咲月の手の甲へ指先で小さく印を付けるように押し、「戻ってきたら、熱い茶を用意する」と言った。咲月は「用意しろ」と返し、笑いが霧に溶けた。
灯が揺れた。




