第17話 過ぎ去った恋の記憶に、手を合わせる
「……蒼生、私——」
言いかけた瞬間、門が、きゅう、と喉を鳴らした。石が擦れる音は、木の扉のきい、とは違う。骨がこすれるような、生臭い静けさが混じる。
蒼生の指が、咲月の手首を強く引いた。引くのに、押しつけない。力の向きが上手い。
咲月の足が霧に絡まれ、よろけたところを、背中から乙女が受け止めた。
「無理に前へ出ない。今は、戻る」
乙女の声は小さい。けれど、迷いのない高さだ。咲月は歯を食いしばり、頷くしかなかった。
仁愛が、門の外に落ちた紙片を拾い上げて叫ぶ。
「おい、これ……狐の耳が、ちぎれてる!」
「耳で騒ぐな!」咲月が思わず突っ込むと、仁愛は「だって耳だぞ」と真顔で返した。
その真顔が可笑しくて、笑いが喉元まで来る。来たのに、目の奥が熱い。笑ったら泣く。泣いたら、また声が出なくなる。
蒼生が、門の柱に貼った札へ掌を当てた。ひびの熱が伝わるのか、眉間の皺が深くなる。
「今夜の門は、閉まるのが早い。……霧の道が、怒ってる」
「怒ってるって、誰に?」仁愛が首を傾げる。
蒼生は答えず、咲月へ視線を投げた。咲月は布袋の上から胸を押さえる。ムーンストーンの熱が、脈みたいに刻を打っていた。
門は、もう人ひとりが通る隙間さえ残していない。霧だけが、細い息のように出入りしている。
咲月はそこへ向かって、頭を下げた。祓いの礼ではない。もっと個人的な、謝り方だ。
「……ごめん。今日、言い切れなかった」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。蒼生か。過去か。霧の向こうの龍城か。
蒼生は咲月の横で、深く息を吐いた。
「言い切るのは、明日でもいい。けれど、明日に任せたままじゃ——」
その続きを、蒼生は飲み込んだ。咲月も飲み込んだ。飲み込んだものが胸の中で重い。
乙女が提灯の火を手早く消し、仁愛が銅鑼を布でくるむ。霧が薄くなり、門の輪郭が闇に溶ける。
境内へ戻る道すがら、咲月は鈴の紐を何度も握り直した。指先が冷えるたび、布袋の熱が浮き上がる。
社務所の戸に手をかけたところで、蒼生が一歩遅れて言った。
「夜が明ける前、社の奥へ行きたい」
咲月は顔を上げた。蒼生の目は、茶楼の灯みたいに揺れている。咲月は答えず、ただ頷いた。
言葉が追いつかない夜は、たいてい、身体のほうが先に動く。
夜明け前の稲荷社は、音が少ない。鳥の声もまだ薄い。空気の冷たさだけが、石段の隙間に溜まっている。
咲月は社殿のさらに奥、普段は掃き清めるだけの小さな祠の前へ膝をついた。灯明の火を小さく分け、榊の葉を整える。
手が慣れているせいで、動きが滑らかすぎた。こういうときほど、慣れが怖い。慣れは、心を置いていく。
咲月は札袋の底から、淡い藍色の髪紐を取り出した。
梅雨の宵に見つけた、ほつれた一本。結び目の癖が、指の腹に残っている。
「迎えに来るから」
言葉だけ残して、来なかった人の癖だ。名前を口にすると、喉が痺れる。だから咲月は、名前を呼ばない。
代わりに、髪紐を白い紙にのせた。
供える、と決めた瞬間、胸の奥がざわつく。逃げたくなる。掃除に戻りたくなる。帳面を開いて、数字に逃げたくなる。
咲月は逃げないために、鈴の紐を掴んだ。
ちりん。
音は小さいのに、夜の奥まで届く気がした。咲月は息を吸い、祝詞を唱えはじめる。
言葉は、いつもより遅い。途中で噛みそうになる。噛んだら、戻りたくなる。
「……この身に残りし、縁の結び目を——」
声が震える。震えが喉を塞ぐ。塞がれても、止めない。咲月は両膝に力を入れた。畳ではない。冷たい石だ。冷たさが、背筋を通って頭を冴えさせる。
目の前が滲んだ。涙が、頬を伝う。
ぽと、と石に落ちる。落ちた音が聞こえるほど、静かだ。
それでも、咲月の声は途切れなかった。
最後の句まで、言い切る。言い切った瞬間、胸の中の霧が、少しだけ形を失った。
咲月は額を床へつけ、長く息を吐いた。吐いた息が白い。白い息が、髪紐の上で揺れる。
追い払うんじゃない。見ないふりをやめるんだ。そう決めたから、手が、ほんの少し軽い。
足音が一つ。石を踏む音は、咲月の後ろで止まった。
蒼生は少し離れたところに立ち、何も言わずに見守っていた。袖の中で茶の香りが揺れる。湯気の気配がするのに、火の熱は押しつけてこない。
咲月が顔を上げると、蒼生が小さな盆を差し出した。湯呑みが二つ。片方の湯気が、やわらかく立つ。
「温い。喉が楽になる」
咲月は両手で湯呑みを受け取った。掌に、じんわりとした熱が広がる。
その瞬間、蒼生の指が、咲月の指先に触れた。
——触れただけなのに。
咲月は小さく息をのんだ。胸の奥で、さっき言い切った祝詞とは別の言葉が、ひっそり芽を出す。
怖いのは、見送ることだけじゃない。誰かを待つことでもない。
触れた瞬間に、もう離したくないと思ってしまう、その気持ちだ。
咲月は湯呑みを抱えたまま、蒼生を見上げた。蒼生は、笑うでもなく、急かすでもなく、ただそこにいる。
咲月は湯気の向こうで、やっと言った。
「……見てた?」
「うん」
「……最後まで?」
「うん」
咲月は湯呑みを口へ運び、熱い茶を一口含んだ。舌が少し痛い。痛みが、現実の輪郭をはっきりさせる。
茶の甘さの奥に、ほのかな渋みがある。その渋みが、涙の跡を洗うみたいに喉を通った。
「明日でいい、って言わなかったな」
蒼生が、ぽつりと言う。
咲月は湯呑みを下ろし、鼻で息を吐いた。
「言ったら、ここで鈴に叩かれる」
「鈴は叩かない。鳴るだけだ」
「……仁愛の銅鑼よりは、優しい」
咲月が言うと、蒼生の口元が少しだけ緩んだ。笑い声は出さない。今は、それでいい。
咲月はもう一度、髪紐へ目を落とした。藍色は、闇の中で淡く、昔の雨の匂いを思わせる。
咲月は、髪紐に向けてではなく、自分の胸の中へ向けて、言った。
「……ありがとう。これで、置いていく」
蒼生が、湯呑みを持つ咲月の手元を見た。指先の震えは、さっきより小さい。
彼はそれを確かめるように頷いた。
夜が明ける。空が少しずつ薄藍に変わる。
咲月は湯呑みの熱を胸へ寄せたまま、裏鳥居の方向を見た。
今日の夕暮れ、霧の道へ行く。
笑って見送る、なんて出来るか分からない。けれど、手を離さないと決める。
咲月は息を吸い、まだ湯気の残る茶の香りの中で、心の中の帳面をそっと閉じた。
髪紐を供える手が、途中で止まりそうになるたび、咲月は掌に爪を立てた。痛みで、今ここへ戻るためだ。鈴を鳴らす。祝詞を続ける。息が乱れたら、いったん吐いて、また声を出す。誰かに見せるためじゃない。自分が自分に嘘をつかないため。
最後の言葉を言い切った瞬間、境内の木々が一斉にざわめいた。風が通っただけなのに、拍手みたいに聞こえる。咲月は膝をついたまま、額を少しだけ床へ近づけた。
「……ありがとう。もう、追いかけない」
声にすると、胸の奥の結び目がほどける。涙は落ちた。けれど、息は詰まらなかった。




