第16話 閉まる刻限、開く扉
秋祭りの支度が、町の隅々まで音を運んでいた。昼は商店街の軒先で提灯が膨らみ、夜は太鼓の稽古が遠くでどん、どん、と鳴る。稲荷社の境内にも、乙女が結んだ紅白の紐が風に揺れ、紙垂がぱちりと鳴った。
その夜更け、月下茶楼の回廊はまだ濡れていた。闇の底で、咲月の胸の布袋だけが淡く光り、ひびの線が呼吸みたいに明滅する。咲月は両手で押さえたまま、袖を掴まれている感触を確かめた。蒼生の指が、離れない。
「……仁愛、灯り!」
闇の向こうで、ぱっと橙が咲く。屋台の男が、片手に火打ち石、片手に灯籠。点いた途端、仁愛の顔が下から照らされて、何かの妖怪みたいになった。
「ほらよ。団子は光らせてない。残念だったな」
「残念にするな。……顔、怖い」
「褒め言葉だろ」
蒼生が小さく笑う。咲月は、その笑いが胸の奥に落ちて、跳ね返るのを感じた。笑えるうちに、やることをやる。今夜は、逃げない。
「境目が強く揺れてる」
蒼生は回廊の先、霧の溜まる渡り廊下を見た。灯りの縁が、そこだけ曖昧だ。空気が薄い布みたいにたわんでいる。
「……霞の路、呼んでる」
咲月が言うと、仁愛が「呼ばれてんの俺じゃなくてよかった」と肩をすくめた。乙女はいつの間にか現れていて、手にした帳面で咲月の顔を覗き込む。
「咲月、今夜は門を開ける気? 明日の朝でも——」
「明日でいい、って言うの、やめる」
言った途端、咲月の喉がきゅっと締まった。言葉にした方が怖い。けれど、怖さを抱えたままでも、足は動く。
蒼生が、先に一歩出る。咲月が続こうとすると、蒼生の腕が胸の前に伸びて、道を塞いだ。
「ここから先は安全じゃない」
「安全じゃないのは、分かってる」
咲月は札袋を握り直した。指先に紙の縁が食い込む。札の角は、何度も持ち直したせいで少し丸い。
「帳面も不安も、全部“今”やる。……後回しにしたら、また口が遅れる」
仁愛が「帳面は食えないぞ」と口を挟み、乙女が「今のは黙れ」と即座に叩く。二人のやり取りがいつもの速度で、咲月は一瞬だけ息を吐けた。
その瞬間、布袋の中が熱くなる。ひび割れたムーンストーンが、掌の下で小さく跳ねた。
「……来る」
蒼生が低く呟く。回廊の先の霧が、裂ける。裂け目から、石の匂いがした。湿った土ではない。焼いた瓦でもない。冷えた石が、月光を吸っている匂い。
朱い欄干の向こう、霞の路の奥に、石の門が立ち上がった。龍の鱗みたいな彫りが、光の筋で浮き、門の向こうに、城壁と灯の列が見える。月代の提灯とは違う、少し鋭い青白い灯。遠くで、鈴と銅鑼が混ざった音が鳴った。太鼓の稽古に、硬い金属音が重なる。まるで二つの町が、同じ拍子を探しているみたいだ。
咲月は息を止めた。霧の向こうに、龍城がある。蒼生がいつも「帰る」と言う場所が、今夜は目で見える距離にある。
門の縁が、きゅっと縮む。目の錯覚じゃない。石が呼吸するみたいに、少しずつ、少しずつ、狭くなる。
「刻限が、閉じる」
蒼生がそう言って、咲月の前に立つ。背中が大きい。咲月はその背に隠れれば楽だと知っている。でも、今夜は隠れない。
「蒼生」
名前を呼ぶと、蒼生の肩がほんの少し揺れた。返事をする前の、癖。
「行くなら、俺だけで——」
「一人で濡れるの、やめてって言ったのは、蒼生だよ」
咲月は、回廊で言われた言葉を、そのまま返した。返した途端、耳が熱くなる。仁愛が「その言い方、ずるいな」と口笛を吹き、乙女が「今のは褒めていい」と珍しく頷いた。
蒼生が振り向く。目が、門の青白い光を映している。咲月は視線を逸らさず、札袋の口を開いた。
「石の門の縁、狐の札で押さえる。柱の四隅。……乙女、灯を並べて」
「分かった。迷わない道にする」
乙女が走る。紅白の紐を解き、提灯を回廊の端から端へ、まっすぐ置き直していく。仁愛は屋台の荷を放り出して、銅鑼——どこから持ってきたのか分からない——を抱えた。
「鳴らすなよ」
「鳴らさない。叩くだけだ」
「それが鳴らすって言うんだ!」
咲月が突っ込むと、仁愛は肩をすくめたまま、門の外へ出ない位置で銅鑼を掲げた。蒼生が、仁愛の手首を掴んで止める。
「拍子は、太鼓に合わせて。勝手に刻を切るな」
「細けぇ。……いや、細かい方が助かるか」
仁愛が素直に引っ込める。珍しい。咲月は、その一瞬の素直さが、妙に胸に沁みた。
咲月は門の柱へ近づく。足元の霧が、足袋の白を湿らせた。石の冷たさが骨まで来るはずなのに、布袋の熱が逆に掌を焦がす。
札を一枚、柱に貼る。紙がぴたりと吸い付いた。二枚目、三枚目。四枚目を貼った瞬間、門がぎゅっとまた縮む。狭くなった隙間から、龍城の灯が揺れて見えた。
「急げ」
蒼生の声が鋭い。咲月は頷き、布袋を取り出しかけて、手を止めた。石を出すのは、今じゃない。ここで落としたら終わる。
「咲月、来るな」
蒼生が、咲月の肩を掴む。強い力。けれど、痛くない。痛くない位置を選んでいる。
「来る。……見送る側に戻りたくない」
咲月の声は震えた。震えを隠さず、言い切った。震えたままでも、言える。
門の中から、風が吹いた。月代の湿った風ではない。乾いた香辛料の匂いが混ざる。蒼生の袖から漂う桂花茶の香りと、どこか似ていて、違う。
蒼生は息を呑み、咲月の手首を掴んだ。
「手を離すな」
「離さない」
言いながら、咲月は自分の掌が汗で滑るのを感じた。札袋の紙が湿る。霧が冷たい。石が熱い。全部が逆で、頭の中が変に冴える。
門がまた縮む。人ひとり、肩をすぼめれば通れるくらい。次は、通れない。
仁愛が背後で、太鼓の稽古の拍子に合わせて、銅鑼を——叩きそうになって——乙女に肘で止められた。
「音は後!」
「後っていつだよ!」
「今じゃない!」
二人の声が、霧に吸われる。咲月は笑いそうになって、すぐ喉を引き締めた。笑ったら、泣きそうだから。
蒼生が門へ足を踏み入れる。咲月は、掴まれた手首のまま一歩、同じ場所へ踏み出した。霧が足首まで絡み、石の匂いが濃くなる。門の向こうの青白い灯が、目の奥に差し込む。
布袋の中のムーンストーンが、熱を増した。ひびの線が、胸の上で脈打つ。
咲月は蒼生の背に向けて、言葉を探した。明日でいい、じゃなくて。今、言う。
けれど、門がきゅっと鳴った。石が軋む音。閉じる音。
咲月は蒼生の袖を掴み直し、息を吸った。
「……蒼生、私——」
霧の中に立つと、空気の温度が一段変わった。稲荷社の夜は冷えるはずなのに、門の近くは石が焼けたみたいに熱を持つ。咲月は足袋の裏でその熱を感じ、思わず踵を浮かせた。
蒼生は門の縁へ手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。触れれば、戻れなくなる、とでも言いたげな間。咲月はその指先を見て、言葉より先に手を出した。蒼生の手首を掴み、熱い場所から引き寄せる。
「止めるなら、私の方を見て」
咲月が言うと、蒼生はやっと視線を戻した。霧の向こうに揺れる龍城の灯が、二人の瞳の奥で同じ色に揺れていた。




