第13話 祓い舞と獅子舞の合同稽古
稲穂が色づきはじめる頃、月代の秋祭りへ向けた稽古が、稲荷社の神楽殿で始まった。畳の上に白い布が敷かれ、柱には縄が巻かれ、床板には「ここで回れ」の墨印がいくつも付けられている。乙女が手帳を片手に、竹の定規で印を測り直し、指先で軽く床を叩いた。
「祓い舞は、ここで扇を開く。獅子は、ここから跳ねる。……その間、ちょうど重なるから」
言い切ったあと、乙女は深く息を吸って、にっこり笑った。笑っているのに、目は逃さない。咲月は袖を整え、赤い袴の膝をきゅっと締める。
問題は、獅子が大きすぎることだった。
朱と金の獅子頭は、神楽殿の梁を見上げるように据えられ、口の縁の鈴飾りが、ちり、と鳴った。蒼生がその奥へ潜り込むと、獅子の布がうねり、まるで畳に波が立つ。獅子の目がきらりと光って――咲月の足元を、勢いよく踏みつけた。
「痛っ」
咲月の声に、獅子がびくん、と跳ねた。
「すみません! 今のは……見えなくて!」
獅子の口の中から、蒼生の声がくぐもって響く。謝る声まで、どこか真面目に熱い。
太鼓役の青年が、遠慮がちに一度叩いた。どん、と腹に響く音が、神楽殿の木を震わせる。
「じゃあ、合わせますよー」
仁愛が、縁側に腰を掛けたまま、紙の扇子で風を送った。屋台の差し入れらしい饅頭と、湯気の立つ茶が、盆に乗っている。稽古に来たのか、休憩に来たのか、本人にも分からない顔だ。
咲月は扇を持ち、祓い舞の一歩目を踏む。踵から静かに落として、畳を傷つけないように。扇先は、空を切るだけで音を立てない。耳の奥で鈴の余韻を数えながら、肩を落とし、胸を閉じ――そこで、獅子が跳んだ。
ばさっ、と布が舞い、獅子頭が咲月の顔の横を横切る。咲月は思わず扇を引っ込めた。
「ちょ、ちょっと待って! 獅子、近い!」
「跳ねろって言われたので!」
「跳ねる場所が違う!」
咲月の声と同時に、獅子頭が柱へ、がん、とぶつかった。神楽殿が、気の毒なくらい鳴った。
獅子がその場で固まり、次の瞬間、布の下から蒼生が這い出てきた。髪が額に張りつき、頬が赤い。手のひらで獅子頭を支えながら、深々と頭を下げる。
「柱さま、すみません」
柱に謝ったあと、乙女にも、咲月にも、太鼓役にも順番に謝る。咲月は扇で口元を隠して、息を吐いた。笑ってはいけない場面のはずなのに、肩が勝手に揺れる。
「……蒼生、汗だく」
「獅子の中、思ったより蒸し風呂です」
蒼生は言いながら、獅子頭の中を覗き込んだ。中に手ぬぐいが落ちている。取り出そうとして、獅子の歯に指を挟まれ、また謝った。
「獅子さん、ごめん」
「獅子にまで謝らないで」
乙女が、ぱん、と手を打った。
「今のは、私の印が甘かった。蒼生さん、獅子の口から見える景色、どれくらい?」
蒼生は獅子頭をかぶり直し、口の隙間から覗く。
「……床と、扇の先と、咲月の眉くらい」
「眉しか見えないの?」
咲月が言うと、獅子の目がぎょろりとこちらを向いた。
「眉は大事です。眉で機嫌が分かる」
くぐもった声が、妙にまっすぐで、咲月は扇の骨をきゅっと握る。眉で分かるなら、今の自分はどう見えているのか。思うだけで、耳が熱くなる。
再開した稽古は、失敗の連続だった。
咲月が扇を開くと、獅子が閉じる。咲月が半歩下がると、獅子が同じ半歩を前へ出る。息を合わせようとしても、蒼生の息は獅子布の内側でこもり、咲月の息は静かすぎて届かない。
仁愛が縁側から、饅頭を頬張りながら囃した。
「獅子、扇に惚れてるね。追いかけてる」
「違う!」
咲月が否定すると、獅子が否定するように首を振り、また柱へぶつかった。
「……ほら」
咲月は扇を広げ、柄杓の代わりに、獅子頭の額をこつん、と軽く叩いた。叩いた扇先が震える。怒っているふりをしたかったのに、ふりが、うまくいかない。
「謝り倒す前に、呼吸」
咲月が言うと、獅子の中から、短い返事が返った。
「はい。……吸います」
咲月は扇を胸の前に戻し、鼻から息を吸う。木の匂い、畳のい草、外から流れてくる焼き栗の甘い香り。秋の匂いが、肺に入ってくる。吐くとき、扇の骨が指に当たって、冷たい。
獅子布の内側から、蒼生の息が聞こえる。はぁ、と熱い吐息が布を揺らし、鈴飾りが小さく鳴る。咲月はその音を合図に、足を出した。蒼生も、音に合わせて獅子を動かした。
どん。どん。どん。
太鼓が、今度は迷わず刻む。乙女の声が、床の印をなぞる。
「一、二。扇、開いて。三、四。獅子、くぐって。五、六。……そこで、目を上げる」
咲月が扇を開くと、獅子が扇を避ける。避けるだけでなく、扇の端を風で持ち上げるように、ふわりと布が舞った。咲月は扇の影から、獅子の口の奥を見た。暗い中に、蒼生の目がある。汗で濡れているのに、光が揺れない。
息が、同じ速さになっている。
最後の決めの場所まで来た。
咲月は扇を閉じ、胸の前で水平に揃える。蒼生は獅子を低く構え、次に跳ねる準備をする。乙女が手を止め、神楽殿が一瞬、音を失った。
咲月は踏み込み、扇を開いた。蒼生はその瞬間に、獅子を跳ね上げた。布が高く舞い、獅子頭の口が、咲月の扇の真上で開く。
視線が絡んだ。獅子の口の奥、ほんの隙間から、蒼生の瞳が見える。咲月の胸が、太鼓より先に鳴った。
乙女が、両手で拍手した。ぱん、ぱん、と乾いた音が木に響き、咲月の肩の力が抜ける。
「今の、いい。そこ、もう一回」
淡々と言いながら、乙女は嬉しそうに頷いた。
仁愛が、縁側から身を乗り出した。
「今の間合い、告白のやつ」
「……言うな!」
咲月は扇を畳んで、仁愛の額を軽く叩いた。叩かれた仁愛が、「いてっ」と笑い、饅頭を落としそうになって慌てる。
蒼生は獅子頭を外し、床に座り込んだ。肩で息をしている。汗が頬を伝い、畳に一滴落ちた。
「咲月の扇、風が来る」
蒼生が言う。褒めているのか、ただの感想なのか、分からないくらい真面目な声だ。
咲月は扇を胸に抱え、視線を逸らした。
「……来るように、やってるだけ」
「来た。だから、動けた」
蒼生はそう言って、獅子頭を撫でた。獅子の額を撫でる手が、さっきより優しい。
神楽殿の外で、夕風が鈴を鳴らした。祭りの前の静けさが、少しだけ柔らかくなる。
咲月は扇の骨を指で確かめ、折れがないことを確かめた。折れていないのに、胸の奥が変に痛い。痛いのに、さっきの間合いを、もう一度だけ確かめたくなる。
咲月は扇を開き、蒼生に向けて小さく振った。
「次は、柱に謝らないで済むように」
蒼生が笑った。汗だくのまま、子どもみたいに。
「はい。柱さまにも、獅子さんにも、咲月にも」
「最後のはいらない」
「でも、言いたい」
咲月は扇で顔を隠した。隠した扇の向こうで、口元が勝手に緩むのが分かる。
笑っているわけじゃない、と自分に言い訳しながら、咲月は足を揃えた。
今日の稽古は、終わっていない。終わっていないのに、胸の中にだけ、決めの形が残った。
稽古場の床に落ちた汗が乾くころ、咲月は扇を閉じ、深く一礼した。獅子頭の中から蒼生が出てくると、頬に赤い跡が付いている。柱に謝り倒した証拠らしい。
咲月は黙って袖口から手拭いを出し、蒼生の頬へ押し当てた。蒼生は一瞬目を丸くし、それから素直に拭われる。
「……次、ぶつかったら、私が扇で合図する」
「合図が先に来るなら、助かる」
その短いやり取りだけで、息の合わせ方が一段増えた気がした。




